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断ち切る鎖

 あれから更に半月が経ち、十月の半ばになった。

 すっかり秋が深まって、日が暮れるのも早い。カフェ・ライムライトの閉店時間の午後八時ともなれば、辺りは夜の色も深い。


 そろそろ表に出してある看板をしまわなくては。

 その日もいつものように階段を上がった私は、ギョッとして足を止めることになった。



 ビルの植え込みのそばに立っていた、大樹の姿を見つけたからだ。


 あの日帝都ホテルで再会はしたものの、もう縁は完全に切れたと思っていたのに……。

 わざわざここを探してやってきたのだろうか? それともたまたま?


 無視して看板を片付けようとすると、声をかけられる。


「風優子、久しぶり」

「……何か用ですか? 仕事中なんですけど」

「なんだ、よそよそしいな」

「そちらが馴れ馴れしいのでは。私たち、もうとっくに他人ですよね?」


 あんなひどい裏切り方をしておいて、未だに私を名前で呼んで平然と話しかけてくる。

 その神経がわからなかったし、何を考えてここにいるのかが怖くもあった。


 すり抜けようとしたところで、手をつかまれる。


「まあ話くらい聞けよ」

「何の話があるんですか?」

「こないだお前と一緒にいた人のことだよ。織原さんって言うんだろ」


 どうして大樹が理市さんの名前を知っているんだろう。

 私は思わず足を止めた。


「あの人がお前と付き合ってくれるわけねえだろ。絶対遊ばれてるだけだって。お前には、俺ぐらいしかいないのはわかってるだろ。戻ってこいよ。出てったことは水に流すからさ」


 水に流す?

 浮気をして裏切った人のセリフとは思えない。

 大樹はいつの間にこんな恥知らずなことを言う人になってしまったんだろう。腹が立つと言うより、失望感がすごかった。


「俺ならお前にちゃんと付き合ってやるし……」

「は? 何を勘違いしてるの。私があなたと一緒にいる理由がまだあると思ってるの? それにあなたが彼の何を知ってるのよ」


 何言ってるんだろう、この人。

 私のこと、便利な家政婦扱いしていたくせに、付き合ってやるって?

 手を振り払って睨みつけても、全然怯まないのがタチが悪い。


 そしてなお悪いことに、私の敵はもう一人増えた。

 村崎社長まで姿を見せたのだ。


「あら知ってるのよ、私たち。調べたのよ。織原さんね、彼、あの織原グループの社長の次男なんでしょう? 御曹司ってやつよ。あなたにはふさわしくないわ」



 織原グループ?

 織原グループといえば、国内でも屈指の規模の、知らない人はいないくらい各界に顔が利く大企業だ。

 理市さんが、その織原グループの社長の肉親……。

 驚くより納得してしまった。今までのことも合点がいく。彼は、まさに住む世界の違う人だったのだ。


 でも、だから。

 だからなんだと言うのだろう。



「聞いてる? 少しくらいきれいになったからってそんな人があなたの相手するわけないでしょ。だからあんたみたいな女は引っ込んでなさいよ。私の方が絶対ふさわしいわ」


 村崎社長が言うのを聞いて、軽薄さに呆れてしまった。


 つまり彼女は、大樹から理市さんに乗り換えたくなったのだろう。私が理市さんと付き合っていると思い込んで、手を引けと言ってきたのだ。

 大樹は営業マンとしては優秀で見た目も良い。でも織原グループのトップの血縁者で、とびきりの美形の理市さんと比べるとしたら。社長の中でどちらが上になるかは言うまでもない。


 大樹は大樹で、社長がそんな気配を見せたから、慌てて私と復縁しようとしたというところだろうか。壊れた関係を都合よく巻き戻すことなんてできないのに。どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのか。


(……馬鹿馬鹿しい)


 私は大きなため息をついた。

 こんな……こんな程度の低い人たちに振り回され、傷つけられていたというのか。

 すごく悩んで苦しんでいたのが、馬鹿みたいだった。



 そして自分はともかく、私のせいで理市さんまで最低な人たちに関わるのが、どうしても我慢できなかった。


 理市さんの優しさを。笑顔を。大切に思っていることを。物憂げで悲しい顔を。抱えているものを。

 何ひとつ知らないで、知ろうともしないで。


 彼がきれいな人だから? お金持ちの家の人だから?

 人を真っ当に人として見もせずに、村崎社長は何を言っているんだろうか。


 気づいたら私は彼女を睨みつけ、こう言い放っていた。


「理市さんはブランド品でもアクセサリーでもありません。人間なんですよ? あなたの思い通りにして良いわけがない。そんなことさえ理解できない人が、彼にふさわしい? あなたこそ何を勘違いしてるんですか。馬鹿なこと言わないでください!」

「……! 生意気を言ってるんじゃないわよ、あんたごときが!」


 激昂した村崎社長が平手を振り上げる。

 ぶたれる。

 でもそんなこと、知ったことか。私は一歩も引く気はなかった。




「遅いと思ったら……」


 その時、呆れたような声がすぐそばで聞こえた。

 はっと気づいた時には、振り上げられた手は私には当たらずに空を切り、私の方はというと理市さんにしっかり抱き寄せられていた。


「招かれざる客か。なるほどな」

「理市さん!」


 噂をしていた当人の登場に、社長と大樹は青くなって焦っている。

 それも当然で、理市さんの雰囲気は全然穏やかな感じではなかったから。今の彼は、逆らいがたいほどの威圧感をまとっていた。


「わざわざ俺のことを調べてきたのか? 本当にどうしようもない連中だな」


 その瞳が赤く輝いていることに、社長たちが気づけたかは、定かではない。

 でもとにかく、二人は理市さんから目を逸らすこともできず、釘付けになっていた。


「今回は見逃す。けど、もう金輪際、俺と彼女には近寄らないように。この場所と店にもだ」


 彼は、二人をじっと見つめながら、ゆっくりと言い聞かせる。

 二人は焦点の合わない目で理市さんを見、ガタガタと震えながらうなずく。


「三度目はない。『わかった』な?」

「は、はい……」


 すごく短い時間のできごとだった。

 でも社長と大樹は必死で何度もうなずくと、そのままフラフラと街へ消えていってしまった。



 これが理市さんが以前言っていた、吸血鬼の使う魔法……『魅了』ということなのだろうか。

 二人は操り人形のようになすすべもなく、理市さんの言うがままになっていた。あれほど執着していた社長さえ。


 それは本当に魔法そのもので、便利に思う反面ひどく恐ろしくも感じてしまう。やっぱり、あの赤い目の時の理市さんはいつもと違っていて、とても怖かった。


(こんなことができてしまうなんて……。本当に吸血鬼って、すごいんだな……)


 どうしてその魔法が私には効かないのか、その理由はわからないけど……。



 あっけない幕切れとはなったが、おかげで私はなんとか安堵の息をつけた。

 社長たちの姿がすっかり見えなくなるのを見送ったあとで、理市さんが私を振り返って言う。


「さっきのやりとり。聞こえてたよ、月島。ありがとな」

「えっ!? あ、私はその……思ってたことを言っただけで……」


 改まってお礼を言われると恥ずかしくなる。

 本心ではあったけど、青くさい主張だとも思ったから。

 でも、理市さんは首を横に振って笑う。


「ありがとう。俺のために怒ってくれて」

「……はい。どういたしまして」



 私の中には色んな気持ちがある。

 理市さんのことを好きだと思ったり、心配したり、恩を感じていたり……。


 彼を思って言った言葉は、はからずして彼に伝わっていた。

 迷惑にならずに、届いていた。


 最初から私と彼の関係は、二人の間の『約束』で交わされた形に決まっている。

 私と理市さんの間にはきっと、大きな大きな隔たりがある。

 彼のためにも、私の『好き』を伝えることは決してない。


 でもそれでも。少しだけ届いた思いが、彼に喜ばれたことは、とても嬉しくて。

 勇気を出して良かったと、私は心の底から思うのだった。

 今、限られた時間の中でだけの話だとしても。



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