最悪の誕生日
四月十日は、私の誕生日。
幼い頃、自分の誕生日というのは特別な一日だった。
ケーキにはろうそく。ジュースとお菓子、ごちそう。家族からのプレゼント。
何より嬉しかったのは、みんなからのお祝いの言葉と笑顔。
そんな誕生日が、たまらなく嬉しくて楽しみだった。
けど、今は――。
「終わったああああ。間に合ったあ……」
魂が抜けそうな声とともにデスクに突っ伏したのが、四月十日の午前五時。
ブラック進行の納期の案件を、なんとか倒したらこの時間だ。残業を重ねて、重ねて、今日は徹夜までして無理やり締切内にねじ込んだ。
そして最後の気力を振り絞ってファイルを送信し終えた。
「送信ッッ! ああ、やっと解放された……」
抱えていた案件が全て片付いたのはいつ以来だろう。
疲労と眠気でふらふらする。
化粧室でメイクのはげかけた顔を洗い、鏡を見つめればひどいものだ。目の下にはくっきりとクマができているし、肌ツヤは致命的な感じで、髪の毛はボサボサ。
私は自分ひとりだけしかいない、静まり返ったオフィスでため息をつく。
それが月島風優子、二十六回目の誕生日。
誕生日に、もう子供の頃のような喜びはない。
そうは言っても、こんな有り様で迎えるはめになるとは……。なんとも悲しく虚しい気持ちになる。
といったものの、私の人生、そんなに悪いわけではない。
美大を卒業したあと、先輩の伝手もあって、デザイン事務所に就職の口を見つけた。
夢を持って就いた仕事がちゃんとあるのだ。
ただ、確かにやりがいはあったのだけど、想像を超える激務だった。体が全然ついていかない。
もう数年務めてきた。でもいつまでこんな生活を続けていられるだろうと考えると、不安になってしまう……。
転職も考えるべきかもしれないが、慣れた環境以外で通用するだけの能力や才能が自分にあるのかどうか。
仕事だけじゃない。結婚のこともあるのが、なおさら不安だった。
私には高校時代から付き合っている恋人がいて、今は一緒のアパートに住んでいる。
吉沢大樹という名前の彼は、うちの会社とも取引のある大企業の営業職をやっている。
やや自分勝手なところもあるけど、営業らしくリーダーシップと行動力がある人だ。
この歳になると、周りには結婚している友人も増えてきた。彼との付き合いだってもう相当長いし、一緒に生活もしているし……。
なら私も……? と考えるのは、そうおかしなことではないと思う。
(とはいえ、そんな彼氏と誕生日でさえも一緒にいられないんじゃな……)
帰れなくなった旨の連絡は入れてある。
もしかして、お祝いの準備とかしていてくれたかなと考えると、余計に悲しくなった。
また、ため息。
動き始めた電車に乗って、よろよろと帰路につく。
今日も平日、当然出勤しなくてはいけない。なんとか家に帰るだけ帰って、シャワーを浴びて着替えなきゃ。
朝の日差しが目に痛い。今日はよく晴れている。
世界はこんなに元気なのに、私はどうしてクシャクシャに丸められた紙みたいになっているんだろう。
無性につらくなって、早く家までたどり着きたかった。
疲れ切っていた。
だから私は、いつも決まって送っていた「帰ります」の連絡をしそこなっていたことにも気づかなかった。
駅に着き、アパートの近くまでやってきた時、見覚えのある車が止まっているのが目に入った。
いつも会社の駐車場に止まっている車。そう、社長の車だ。ナンバーまでは覚えていないけど、外国製の高級車で、色も形もよく似ている気がする。
(でも、まさかね……)
こんな時間にこんな場所に社長がいる、その理由がまずない。
歩みを早めて通り過ぎようとした時――。
車から一人の男性が降りてきた。
早朝で人気もないからか、運転席の窓から顔を出したサングラスの女性とキスを交わしている。
そして相手といくつか言葉をかわすと、その場を離れようと踵を返す。
そこで、私は男性とバッチリ目が合ってしまった。
それは、私の彼氏である大樹その人だった。
「大樹……?」
「え? 風優子……」
大樹は驚いた顔で私を見つめていた。
どうして?
なんで大樹がここで女の人とキスしているわけ?
その女の人は誰?
私が尋ねるより先に、大樹は苦々しい顔で尋ねてきた。
「今日、帰ってこないんじゃなかったの?」
「仕事、なんとか終わったから……。ね、ねえ、そんなことより、他に言うことあるんじゃないの?」
「言うことって? それより今日も出勤だから、早く帰りたいんだけど……」
大樹は悪びれる様子がないどころか、面倒くさそうにため息をつく。
帰りたいって。もしかして朝帰りってこと?
突然の事態すぎて、頭が全然追いつかない。
そうこうするうちに、車の運転席のドアが開く。女の人が降りてきて、サングラスを外した。今度も見覚えのある顔だ。
巻き髪を決めた派手めの美人で、いかにも仕事ができそうな、でもキツそうな雰囲気。
それは紛れもなく、私の会社の社長その人だった。
「月島さんだっけ」
「村崎社長……これはその、どういう……」
「見たらわかると思うけど。聞いてるとおり察しが悪いのね。もう振られてるのよ、あなた」
振られた?
振られたって、そんな一方的に。
そんなこと、一度も言われた覚えはない。
私は反射的に大樹を見たが、大樹からはなんのフォローもない。
それどころか、蔑んだような目を向けられる。
「お前、今の自分の格好、鏡で見てきた? 恥ずかしくない? 第一、まともに仕事もこなせてないんだろ。そんなでよく俺と付き合ってるって言えるよな」
……私は。
人より多少不器用かもしれない。残業だって結構ある。
比べると、大樹は優秀な営業マンだ。確かに私より収入もあって社会的にも認められているとは思う。
でも私だって一生懸命働いて、遅く帰っても大樹のごはんを作って、休みの日には家事をして……。
頑張ってきた。二人でずっと幸せに暮らせるようにって思って。
それなのに、そんなふうに思っていたの? いつから? ずっと?
「それでいて俺にはあれしろ、これしろって。重いだけ重いよな。今の風優子じゃ、到底女とは思えないよ」
じゃあ私のことをなんだと思って一緒に住んでいたのだろう。都合の良いお手伝いさん?
だから社長と付き合ったの?
開き直ってるけど、ちゃんと別れてないんだから、ただの浮気者なんじゃないの?
あまりにも苦しくて、疑問符だらけの言葉はひとつも口から出てくれなかった。
(え? なに? これって私が悪いの……?)
呆然と立ち尽くしていると、トドメとばかりに村崎社長が付け加える。極めつけに艶やかな笑顔を添えて。
「ねえよく考えて? 月島さん。代わり映えのしないくたびれた平社員と、きれいで有能な女社長。常識的に考えて、どっちが魅力的? 男の人なら、どっちが本命だと思う?」
私はもちろん答えることができなかった。
涙も出なかった。
でも、最悪だ。本当に本当に、最悪で最低だった。
その後のことはよく覚えていない。
ただ大樹のいる家には帰れなかった。大樹の出勤の時間まで、駅前の朝からやっているチェーンのカフェで時間を潰した。
安いホットコーヒーが、今はありがたい。
心が少しだけ落ち着いたので、なんとか着替えて出社する。そのまま上司に退職願いを聞き入れてもらい、退職届を提出した。
社会人にあるまじき振る舞いだと思うし、無計画すぎるとも思うけど、そんなことを考えている余裕が私にはなかった。
社長の顔を思い出しても、職場での自分の立場を考えても、別に退職を引き止められるとも思えない。私はいつでも替えのきく、平凡な歯車のひとつにすぎないのだから。
引き継ぎの準備などを可能な限り整えると、早退して家に戻った。
今朝まであれほど帰りたかったはずの家なのに、もう一秒だってここにいられない気持ちになっていた。
スーツケースに荷物をまとめる。服が少し、仕事道具だったノートパソコンと液晶タブレットも押し込む。あとは気に入っていた身の回りのもの。
他のものは置いていく。大樹が処分してくれるだろう。
そうして、合鍵をポストに放り込むと、アパートを出た。
四月十日、最悪の誕生日。
時刻は夕方に差し掛かっていた。




