二枚のチケットの先に
十月。
ようやく暑さも落ち着いて秋めいてきた。
ひと月の間に、私は依頼のイラストを無事に納品した。幸い、とても喜んでもらえた。
その後は空き時間でホームページを立ち上げて、お仕事の受注用にサイトを整え、ポートフォリオを載せたり、自分の名刺を作ったりしていた。
先のお客様や理市さんの口添えもあり、少しずつ絵のお仕事をいただけるようになってきた。
カフェ・ライムライトのお仕事もちゃんと順調。
この日は、ショコラティエの拝島さんが来ていた。
彼は週一で商品の納入に来て、帰りにいつもコーヒーを飲んでいってくれるのだ。
何かと私を気にかけてくれる、明るい拝島さん。彼とはよく話すこともあり、すっかり仲良くなった。
こないだついに私の事情を打ち明けたら、一緒に怒ってくれたのが嬉しかった。
そんな拝島さんが、店内に唯一のお客様になったタイミング。
そこで彼は、不意に一枚の封筒を取り出した。
「実は風優子さんに、良いもの持ってきたんですよ!」
「えっ? 良いもの? なんでしょう、チケットかな。映画とか?」
「はい、どーぞ。プレゼントです」
問いには答えずに、にこにこと手渡される。
理市さんを見るとのんびりコーヒーを淹れていて、驚いたり何か言ったりする様子はない。もう拝島さんに話を聞いていたのかな。
「ありがとうございます。開けても良いですか?」
「もちろんですよ、さあさあ」
きれいな包装をゆっくり開いていくと、入っていたのは予想のとおりチケットが二枚。
でも予想外だったのは、その内容だ。
「ディナーチケット……ですか? しかも帝都ホテルのフレンチって。あの帝都ホテル!?」
帝都ホテルといえば、五つ星の超高級ホテルだ。
日本の高級ホテルといえばまずここ、と言うくらいには知名度も高い。
もちろん私には全く無縁の、ラグジュアリーで洗練された場所なわけだけど……。
「そうでーす! あそこのフレンチって、新館の高層階にあって夜景がすごいんですよ!」
「噂には聞きますよ、昔テレビでも見ました。でもあの、待ってください、拝島さん。プレゼントって……?」
聞き間違いではなかったようで、拝島さんは力強くうなずく。
「そうです! あ、俺と来てってお誘いじゃないですよ。大丈夫! 織原さんが連れてってくれます」
「えっ!? 理市さんが!?」
「そうだよ」
理市さんがなんでもないことのように答える。
大丈夫って、拝島さん。別に何ひとつ大丈夫ではないんですけど!
びっくりしたまま理市さんを見ると、彼は淹れたてのコーヒーを持って拝島さんの席に歩み寄ってきた。
「お待たせしました。ブレンド、どうぞ。あと拝島君、これ差額分」
理市さんはエプロンのポケットから封筒を取り出して拝島さんに渡す。
チケット代ということだろうか。
「はーい。日頃お世話なってるし、構わないのに」
「君が頑張ってる月島にプレゼントをしてくれるのはありがたいけど、俺には特にもらう理由がないからね。自分の分は払うよ」
二人の間で、もう話は通っているみたいなんだけど……。
待って、当事者の私が何も聞いてないんですけど。
「あっ、あの、二人とも! お気持ちはありがたいんですけど、帝都ホテルのディナーなんて私なんかには分不相応ですし、だいいちそんな高価なプレゼント頂けませんよ! それに私が一緒なんて、理市さんだって迷惑ですよね?」
慌ててひと息に言うと、理市さんと拝島さんが顔を見合せた。
チケットを返そうとしても、拝島さんは受け取ろうとしない。
「いやいやいや、風優子さん。まあ聞いてくださいよ」
そう言って私を見つめてくる拝島さんは、つぶらで真っ直ぐな眼差し。一生懸命お手する大型犬みたいで、無下にもできない。
仕方ないのでとりあえず話を聞いてみることにした。
「このチケット、元は親父にもらったんですよ。でもこういうとこって一人では行けないでしょ」
「拝島さん、彼女とか友達とかいっぱいいるんじゃ?」
「友達はともかく彼女はただのひとりもいなくてねえ……。そうじゃなくて! ねえ、織原さん、風優子さんってめちゃくちゃ頑張ってるっすよね、ここ来てからずっと」
私のツッコミをかわして、拝島さんは理市さんに話を振った。
確かにあの最低の誕生日以来、私は私なりに頑張って来たとは思う。でもそれとこの話、何が関係あるんだろう?
「ああ。実際よく頑張ってるし、努力に見合った成果も出していると思うよ」
「ですよね。風優子さんって、絶対なんか持ってますよ。ある意味才能ですもん、その頑張り」
理市さんに、拝島さんにまでそう言われると、嬉しい半面照れてしまう。
「でもなんか、風優子さんって、頑張ってるのに自信が全然ないでしょ? きれいなのに、それも自信ない。輝いてるのに、それでもすぐ小さくなっちゃう。最初会った時から『私なんか』ってのが口癖みたいでしたし」
「す、すみません……」
「ほらそれも! すぐ謝っちゃうし。別に謝らなくて大丈夫だから! 俺さあ、風優子さんみたいな人にはもっと良いこといっぱいあってほしいんですよ」
拝島さん、そんなふうに思っていてくれたのか。
熱弁を奮ってくれる姿に、親友の凛の姿が重なる。
「そんな時にちょうど、このチケットが来た。これは俺のとこに来たラッキーだけど、つい風優子さんにあげたくなっちゃった。そーいうことなんです」
「でも……私はここに来て、理市さんや拝島さんに会えただけで、もう十分なくらい幸運でしたよ?」
「いやまだまだですよ。風優子さんには、色んな景色見て、新しいことどんどんやって、楽しい気持ちを思い出してほしいです」
ね! と力説されて、私は思わずつられてうなずいてしまった。
にっこりした拝島さんが続ける。
「で、まあまずはということで織原さんに相談したんですけど」
「俺も拝島君の考えには賛成でね。やっぱり月島には頑張った分だけ何かがあって良いと思うし、もっと自信を持って良いとも思うから。その一環として、こういうのは面白いイベントじゃないかと思ってな」
そういえば以前、理市さんは『頑張っている方を応援したい』と言ってくれたことがあったっけ。
それに理市さんは、私のことをきれいとも、真面目とも、優しいとも言ってくれた。
この半年間でもらった言葉は、ちゃんと今の私の自信の地盤を作ってくれている。
だからもう十分に『頑張っただけの何か』はあったのだけど。
それにしても……!
「そのイベントは、私には豪華すぎますよ! 私、拝島さんにお返しもできないですし……」
「あ、今度俺にも噂の風優子ブレンド淹れてくれればそれで良いっす」
「冗談言ってる場合ではなく! 理市さんも、何とか言ってやってくださいよ」
ふむ、と理市さんが首を傾げる。
「月島は嫌か? 俺と出かけるのは」
「えっ? 嫌なんてことは全くないです!」
と言いきってしまった後に、はっとした。
拝島さんがすごく良い笑顔でこっちを見ている。
恥ずかしい……。焦ってつい本音が……。
「良かったよ。断られた時のこと、考えてなかったから」
安心したように言われてしまった。
その表情も意外で。まるで好きな子をデートに誘って了承をもらったみたいな。
(あなたに誘われて嬉しい女性は、私だけではなくて、たぶん星の数ほどいますよ。理市さん……)
なのにどうして……。私を、誘ってくれたんだろう。
福利厚生にしては行き届きすぎだし、『約束』なら真面目にやりすぎだと思う。
でも誘ってもらえたという事実そのものは嬉しくて、胸がぎゅっとなる。
「それじゃ、今度の土曜日。午後からを空けておいてもらっても良い?」
「わかりました。土曜日の午後からですね。ええと……よろしくお願いします」
「こちらこそ」
話がまとまったところで、新たなお客様がやってきた。
理市さんはカウンターに戻り、私もまた仕事を再開する。拝島さんは満足気な顔でコーヒーを飲んでいる。
帰り際に、拝島さんがこっそり私にだけ話していってくれたことがある。
「風優子さんって、どう思ってます? 織原さんのこと」
「イケメンで、恩人で、優しくて……。大事な人ですよ。あとあの人こそ頑張り屋なので、無理してほしくないなって」
私の本当の気持ちには『好き』も含まれているけど、それは伝えられないので、そういう風に答えた。
すると拝島さんは、何故か笑顔でこう言ってくれた。
「良かったな、あの人のそばに風優子さんがいてくれるようになって」
「私がいて、ですか?」
「ですよ。織原さん、前よりずっと元気そうですもん」
そうなのか。拝島さんの目から見てそうなら、私も少しは理市さんの役に立てているのかもしれない。
それに、と彼は付け足す。
「風優子さんがあの人のこと大事って思ってくれるのも、良かったなって。織原さんも、風優子さんのこと、すごく大事にしてるように見えるから」
それって……?
仕事中なのでそれ以上は聞けないまま、私は拝島さんを送り出した。
理市さんが私のことを?
私にとって、意外な言葉だった。
だって私は、自分が彼に大事にしてもらえるほどの価値のある人間とは思えなかったから。
確かに彼は本当に私に良くしてくれる。
でも――。
それは彼が誠実な人で、優しい人だからだ。全部『約束』の範疇なのだ。たぶんきっと。
だから彼の厚意に甘えて、寄りかかりすぎるのはダメだ。
決して迷惑をかけるようなことがあってはならないのだ。
エプロンのポケットに大事にしまったチケットのことを思い出す。
私は嬉しいのか、複雑なのか、よくわからなくなってしまった。




