気づき
凛との食事の帰り道。
ご機嫌な彼女と話しながら歩いていると、早いものでもう自分の部屋のあるビルの前に着いていた。
時刻は深夜に差し掛かっていて、さすがに人通りは多くない。
(腹ごなしの散歩になったな。良い気分)
鼻歌を歌いながらふと空を見上げたら、ビルの狭間にとても綺麗な満月が出ていた。
ちょっと良いものが見られたかも。
そんな気持ちで地上に目を戻すと、もうすっかり見慣れた後ろ姿が目に入った。
カフェ・ライムライトのビル外側の出入口。そのそばに、理市さんが立っていたのだ。
手にはファイルとノートパソコンを持っている。こんな時間まで仕事していたのだろうか。
「理市さん、おつかれさまです」
声をかけてみると届いたらしく、理市さんが振り返る。
振り返った彼の姿が目に入った瞬間、私は思わず息を飲んだ。
月光に照らされて浮かび上がったのは、あまりにも繊細で柔和な美貌。完璧なシルエット。
デスクワークをしていたのだろう、いつもはかけていない華奢なフレームの眼鏡ごしに、視線が合った。
微かに赤みを帯びた瞳が光を弾いている。
月のきれいな夜。この時間の全てが、ただこの人ひとりのためだけにあるのかもしれない。
そんな馬鹿馬鹿しい想像をしてしまうくらい、あまりにもきれいだった。
でも同時にすごく怖くなる。
満月に照らされたこの人が美しすぎたから。人間じゃないということを、心底実感してしまうくらいには。
今の彼は、私が知っている理市さんと全然違う人のように思えてしまって。
だから私は――。
「月島?」
声に引き戻されて、はっとする。
私が黙り込んだのを、不思議そうな顔で見つめている理市さん。もういつも通りの雰囲気だった。
「あっ。はい。ええと……今帰りですか? お疲れ様です」
「ああ、そうなんだ。君もか」
うなずくその笑顔を見て、なんだかひどく安心した。つられて笑顔になる。
「そちらはご友人?」
「はい。今日一緒にごはんに行った子で、諸星って言います。凛、大丈夫?」
お酒が回ってぼんやりしている凛を紹介する。さすがに人前と意識すると酔いも引いてきたのか、凛もシャキッと立ち上がって理市さんに会釈した。
「初めまして、諸星と申します。ええとあなたは……」
「織原と申します。実は、初めましてではないんです。そこのカフェ、ライムライトで何度かお会いしていますよ。何年か前の話ですが」
「あっ! あのカフェの超絶イケメンマスターだあ!?」
「り、凛ー!」
思わず地が出た凛に、慌てる私、おかしそうにしている理市さん。最終的には、みんなで顔を見合せて笑ってしまった。
確かに学生時代、私と凛は何回もカフェ・ライムライトに来ている。でも理市さん、よく覚えてるなあ。
「ふゆちゃんと織原さんはなに、そんながっつり知り合いなの?」
「そうなの。私が今働いてるカフェって、ライムライトのことなのよ」
「ええーっ!? じゃあマスターが上司? 織原さん、うちの風優子がお世話になっております!」
「いえいえ、私の方こそ彼女には本当にお世話になっていますよ」
凛への対応は、あくまで柔らかくて優しい。
ただそれは、外向けで大人なマスターとしての理市さんの顔だ。
もしかして、思ったよりずっと、彼は私に打ち解けてくれているのかもしれない。……なんて。
そんなことをふと思ってしまった。
何考えているんだろ、私。自意識過剰すぎる。
翌朝。
深夜に寝たにも関わらず、やっぱり六時半には目が覚めたので、私は二人分の朝食を作っていた。
今日は作り置きがないので洋食だ。トーストを焼いて、ハムエッグを作る。レタスをちぎってトマトを切り、ヨーグルトにドライフルーツを落とす。
(そういえば、理市さんと一緒じゃない平日の朝食って、久しぶりだな)
それが寂しく感じられるなんて……。
いつからか、当たり前に思うようになっていたのだ。
最後にコーヒーをペーパードリップで用意する。
まだ練習中だけど、前よりは上手になった。
理市さんに教えてもらったことを思い出して、丁寧に淹れる。ここでも、彼の存在を感じながら。
コーヒーを淹れていたら、あくびをしながら凛が起きてきた。
「おはよお……。ふゆちゃん、ありがとねえ、朝ごはんまで用意してもらっちゃって」
「おはよ。こっちこそ昨日は遅くまで付き合ってくれてありがと。コーヒー入ったよ、朝ごはん食べよ」
二人揃って頂きますをした。
コーヒーを飲もうとしたところで、凛がじっと私を見つめているのに気づく。
「ん、どうしたの、凛。ミルクいる?」
「ううん、要らない」
他に何か足りなかったかしらと首を傾げていると、凛はなおも私をじっと見つめて、そしてこう尋ねてきたのだ。
「ねえ、ふゆちゃんさ。もしかして織原さんのこと、好きになった?」
びっくりした。
私はコーヒーを吹き出しそうになって、盛大にむせてしまった。
なんとか呼吸を整えて、涙目のまま尋ね返す。
「ちょ、っと、突然どういうこと……?」
「ごめんごめん。そんなびっくりされると思わなくてさ。考えたことなかった?」
正直そんな発想に思い至っていなかった私は、首をブンブンと縦に振った。
そっかあと凛は笑う。優しい笑顔だった。
「考えてみても良いんじゃない? ふゆちゃんさ、自分の気持ちを後回しにしちゃうじゃない。あたしみたいな短気な単細胞と違って、優しいから。でももっと自分の気持ち、出して行ってもいいと思うよ」
「後回し、かあ。否定できないけど……。でも、どうして織原さんって?」
それはね、と凛が私を見つめる。
「本当にめちゃくちゃつらいことがあったはずなのに、なんだか前よりずっと良い顔してるから。あの人といた時のふゆちゃんがさ……。吉沢と一緒にいる時と全然違っててね」
「私、そんな顔してた?」
「してたよ。織原さんはきっと良い人なんだね」
理市さんが、私のことをきれいだと言ってくれたことを思い出す。
真面目で優しい、とも。
あの雨の車の中で怒ってくれたことも。
たったそれだけと思われるかもしれなくても、あの人は大樹がずっと与えてくれなかったものを、ちゃんと私にくれたのだ。
――安心と、自信を。
「そうだよ。あの人は、……私の恩人だもん」
あんなひどいことがあってから、たった四ヶ月弱で元気になれたのは、まぎれもなく理市さんのおかげだった。
何もかもが偶然だとはいえ。
そして、あの人と私の間にある繋がりが、『約束』だけだとしても。
「織原さんのこと、好き?」
「……たぶん」
「その『好き』っていう気持ち、大事にしてあげなよ。また誰かを好きになれるだけ、元気になってきたんだね。本当に良かった」
凛は私のことを抱きしめてくれた。
ありがとう、ありがとうと繰り返し言って、彼女を抱きしめ返す。温かかった。
私は、この親友のことを、本当に本当にありがたくて大切な存在だと思った。
先に出勤していく凛を見送ったあと、私は少しの間ぼーっとたたずんでいた。
そっか。
私、好きなんだ。理市さんのこと。
高嶺の花なんてレベルじゃない。
何もかもが違いすぎる。星のように遠くで輝いてる、とても素敵な人。
でも好きになってしまったんだ。
気づいてしまったな。
気づいてしまった以上、この気持ちにはちゃんと蓋をしておかなくてはいけない。
そうじゃないと理市さんの負担になる。迷惑をかけてしまう。そばにいられなくなってしまうかもしれない。そんなのは嫌だった。
(自分の心なのに、思うようにはできないんだなあ……)
せめて、外側だけでもしっかりしなくちゃ。
「よし、今日も頑張ろう」
私は鏡の前に立って、身支度を整える。
今日も、いつも通り。
彼の前でもいつも通り笑える。
恋なんてもうしないと思っていたはずなのにな。
自分の中にいつの間にか生まれていた思い。
それは嬉しくて、でもとても皮肉でままならない感じがした。




