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思い出す痛みと

 それから、飛ぶように時間はすぎて、七月。夏がやってきた。


 この日の私は、理市さんからのおつかいで、電車に乗って三つ隣の駅まできていた。

 お得意先への届け物を頼まれており、直接出向いてきたのだ。


 届け物を終えた私は、傘をさして足早に駅へと向かっていた。


 時刻はお昼すぎ。折悪しくも梅雨が戻ってきたかのような雨。

 それなのに気温は高めで、湿気がひどい不快な気候だ。


(早く涼しいお店に帰りたいなあ)


 本降りの雨のしずくが、開いた傘に音を立てて当たっている。



 もう少しで駅に着くというところまでやってきた時、私はあることに気づいてしまった。

 それと同時に、全身から血の気が引くような感覚になる。


(……大樹?)


 前の方から歩いてくるのは、傘をさしていても間違えない、見慣れた姿。

 忘れもしない、四月の私の誕生日のこと。

 手酷い振られ方をした、私の元同居人で元恋人の、大樹だ――。


 慌てて傘を傾けて、自分の姿が見えないように隠れる。

 なんで私が隠れなきゃいけないのか、とは思う。

 でもどうしても気づかれたくなかった。もう一秒でも関わり合いたくなかったのだ。


 あの日の、社長と大樹の冷ややかな眼差しと嘲笑。思い出したくないのに、はっきりと思い出してしまう。

 一緒に湧き上がってきた感情は、恐怖に近かった。

 あの胸の痛さを、惨めな気持ちを思い出して、心の中の不穏な気持ちが激しく渦を巻いている。



 大樹とすれ違うまでの時間は、ずいぶん長く感じられた。

 でも実際にすれ違ったのは、ほんの一瞬。

 そして幸いにして、全く気づかれることはなかった。

 私も彼も傘をさしていたし、こんなところに私がいるなんて、相手は夢にも思っていないのだろう。


 でも、私は――私の心臓は、バクバクと嫌な鼓動を刻んでいる。胃がギリリと締め付けられるように痛んで、ひどい耳鳴りがした。

 目の縁には、涙が溜まってきている。

 あの時は混乱の方が大きくてわかってなかったけど、今になって心底実感する。


(あの時、私、本当につらかったんだ……)


 大樹は足取り速く通り過ぎていき、こっそり振り返って様子を見た時には、角を曲がって見えなくなっていた。

 もう彼がこの場からいなくなってしまったことに、本当に本当にほっとしていた。



 でも、そこで私の足は止まった。

 止まってしまったのだ。


(あ、だめだ、なんだか……)


 ひどく気分が悪かった。

 気持ち悪くて、周りの音が全部くぐもって聞こえて、何もかもすごく遠い。

 視界が端の方から段々と黒く塗りつぶされていっている。

 とても立ってはいられなかった。


 動けなくなってしゃがみ込んでいると、ちょうどお昼休みなのか近くのビルから出てきた女の人たちが声をかけてくれる。

 急に体調が悪くなった旨を伝えると、親切な女性たちのご厚意で、私はそのビルの休養室で休ませてもらえることになった。


 それまではなんとか頑張って動いていたものの、ベッドに横になった瞬間に、私の意識はぷっつりと途切れてしまった。






 どれくらい経ったのだろうか。

 私はスマホの着信の振動で目が覚めた。

 まだガンガンして重たい頭を押さえながら、なんとかスマホに手を伸ばす。


「……はい、月島です……?」

「月島? 何かあったのか? 大丈夫か、今どこにいる」


 電話の向こうから聞こえてきたのは、珍しく焦った様子の理市さんの声だった。

 状況が把握できなくて考えて込んでしまったが、すぐに思い出す。


 そうだ、私はおつかいに来た途中で、大樹を見かけて。それから気持ち悪くなって気絶するみたいに眠り込んで……。


「すっ、すみません! 今何時ですか……!? 急に具合が悪くなってしまって、今B社のビルの休養室で休ませてもらってて」

「今は三時を過ぎたところだ。そうか……わかった。B社のビルの休養室だな? そこで待っていて。絶対動かないで、そのまま休んでいて」

「理市さ……」


 言いかけたところで電話が切れてしまった。


 スマホを見てみると、何回も着信した記録がある。

 当然だ。すぐ店に戻る予定が、音信不通でいっこうに帰ってこないのだもの。

 申し訳なさが溢れてきた。


 しかし気持ちとは裏腹に、目の前が暗くなってくる。

 私は再び意識を手放してしまった。



 またどのくらい経ったのだろう。廊下から話し声が聞こえて、私は目を覚ました。

 この声、理市さんだ。私のことでお礼を言ってくれているみたいだった。


 ノックの音がして、返事をすると理市さんが部屋に入ってきた。


「月島。具合は?」

「あ、あの……本当にごめんなさい。お仕事の途中に、しかも迎えにまで来てもらってしまって」

「……具合は大丈夫? まだ気分が悪いか?」


 深々と頭を下げた私に対して、理市さんはあくまで優しかった。

 でも彼がここにいるということは、今カフェ・ライムライトは一時閉店になっているはずだ。

 私はおつかいすらまともにできない上に、足まで引っ張ってしまったのだ。


 大迷惑をかけてしまったのにも関わらず、彼は本当に心から私を案じてくれているようだった。

 それもまた、申し訳なくて……。


「具合は、大丈夫です。休ませてもらってなんとか落ち着きました。すみません、私、本当に……迷惑ばかりかけてしまって」

「謝らなくて良いよ。車で来たんだけど、もう帰れそうか?」

「はい。もう大丈夫なので。お手数お掛けします……」



 ビルの人たちにお礼を言って、車へ向かう。

 雨とはいえ昼だから、今日の理市さんはサングラスをかけていた。昼間の外が得意ではないのに迎えに来てくれたことが、ありがたくて申し訳ない。


 理市さんの車は、私でも知ってるくらい有名な海外メーカーの車だった。もしかすると村崎社長の乗っていた車よりも良いものかもしれない。それだけにシートは広くてゆったりしていて、まだ完全に元気とはいえない私にはありがたかった。



 理市さんがハンドルを握り、緩やかに車を加速させると、車内には雨を流すワイパーの音だけが響く。

 私は思いきって口を開いた。


「理市さん、今日は申し訳ありませんでした。お届け物は済ませられたんですが、帰りに倒れてしまって……。連絡もできなかったのに、迎えにまできてもらって、心配してもらって。ご迷惑ばかりおかけしてしまいました。本当にごめんなさい」


 私は仕事ひとつちゃんとできなかった。

 怒られるだろうか。呆れられるだろうか。


 頭を上げて理市さんを見ると、反応はそのどちらでもなかった。

 彼は苦笑いを浮かべて、


「君という人は、本当にもう……。謝らなくて良いと言ったけど、あれは撤回」


 信号待ちでブレーキを踏んだあと、彼は私を見て、いたずらな顔で微笑んだ。


「今日はもう、謝るのは禁止だ」

「でっ、でも」

「でもも何もないよ。だいいち無理をさせていたのなら、俺こそが謝るべきだろ。すまなかった、月島」


 違う。理市さんは何も悪くないのだ。

 私は慌てて否定する。


「違うんです! お仕事は楽しいし、ちゃんとよく休めてるし、今までよりずっと幸せで。でも今日、元彼が……」

「元彼が?」

「……彼が歩いているのを、たまたま見ちゃって。今日何を言われたわけでもないのに、思い出したらつらくなって、具合悪くなっちゃって……」


 でも、そんなことくらいで、私は……。

 私がうつむくのを見て、理市さんは深いため息をつく。


「それはもう、トラウマじゃないか。顔も知らない相手を貶めるのもなんなんだが、本当にろくでもないな、その男は。君のように真面目で優しい女性ひとに、そんな顔をさせるなんて」

「……でも私も悪かったのかもしれませんから。くたびれた奴で、到底女とは思えないような有り様で」


 私を見る理市さんの目が少し厳しくなる。


「そんなひどいことも言われたのか? 月島はきれいだよ。魅力のある女性だ。そんな風に卑下しなくて良い」

「え? ええと、理市さん……。その、あなたみたいな飛び抜けてきれいな人から、そんなこと言われると……」


 思わぬ反応に、ほっぺから耳たぶまで熱くなってしまう。

 確かに前に拝島さんと話した時も、理市さんは彼と一緒に私をきれいだと褒めてくれたことがある。

 でもただの話の流れだと思っていた。


 今回、あまりにも真剣に褒められたので、恥ずかしさがものすごかった。

 それに広めとはいえ車の中、理市さんとの距離がすごく近い。胸のドキドキが抑えきれない。


 私の気持ちを知ってか知らずか、理市さんは自然に笑って言う。


「あのな、俺は君を褒めることもできないのか? 素直に受けとってくれ。嘘では言わないよ。嘘だと思うなら、ちゃんと鏡を見てみた方が良い。活き活きしていて、真っ直ぐな目をしていて、君は実際きれいなんだから」



 信号が青になって、車がまた加速し始める。

 何を言ったら良いかわからなくなってしまって、また車内に沈黙が流れる。

 でも嫌な沈黙ではなかった。


 そうだ、これだけはちゃんと伝えなくては。


「あの、理市さん。ありがとうございます。とても……元気が出ました。それに、迎えに来てもらえたのも本当にありがたかったです」

「良かったよ。今日は戻ったらもうゆっくり休んで、回復に努めて」

「わかりました。本当にありがとうございます」



 道路の流れはスムーズで、ほどなく私たちはマンションの前まで戻ってきた。

 お礼を言って車を降りようとすると、理市さんがこう言ってくれた。


「なあ、君は俺のことをいつも本当に心配してくれるだろ? 俺だって当然、君のことを心配するよ。だからこのくらい当然なんだ。わかった?」



 それは理市さんにとっては、何気ない言葉だったかもしれない。

 彼は本当に優しくて良い人だから。誰にでもそんな風に言ってくれる人で、たまたま私にもそう言ってくれたのかも。


 でも、私にとっては、当たり前にもらえる言葉じゃなかった。

 好きだった相手に思いが通じていなかったばかりか、手酷く裏切られた私にとっては。


 理市さんから受け取った言葉と、私を心配してくれた行動。それが、まだ深く傷ついている心に優しく染みていく。



 もし、もう一度恋ができるとしたら――。

 そう考えかけて、私は首を傾げる。

 もし恋ができるとして、私は、どうしたいんだろう。


 まだ、わからない。


 でも私は誕生日の後、初めて、そんなことを考えられた。

 また少し前に踏み出せたような、そんな気持ちになっていた。

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