近づく距離
早速、私の朝の新たなルーティンが始まった。
いつも通り起きて簡単に身支度を整え、二人分のごはんの支度をする。
七時半頃になると、理市さんが私の部屋に顔を出してくれるので、一緒に朝食をとるのだ。
理市さんは好き嫌いはないと言っていたけど、本当にその通りで、なんでも美味しそうに完食してくれる。
私にとって、とても嬉しいことだった。
空になったお皿を見ると、笑みがこぼれてしまいそうになる。
(うーん、嬉しいもんだなあ……)
大樹もなんでも食べるとは言う人だったけど、好きじゃないものには全然箸が向かなかった。
人に好みはあるとはいえ、やっぱり作る側としては完食してもらえる喜びというのは大きかった。
私の作る朝食は、大体和食か和洋折衷のことが多い。
主菜、ご飯とお味噌汁もしくはパンとスープ。それに作り置きの常備菜かサラダ。
すごく手の込んだものではないし、ザ・家庭料理というものばかりなのだけど、理市さんは喜んでくれる。きんぴらごぼうとか、おひたしに肉じゃが……特に変哲もないものなんだけど。
それとフルーツも少し。これも意外と喜んでもらえているようだった。
食費は固辞した。だってマンションの家賃も払ってもらっているのだから。それに比べたら一食分くらい全然安い。
そんな朝の習慣が定着する頃には、私がカフェ・ライムライトで働き始めてから、もうひと月半が経っていた。
気持ちの良い春もすぎて、季節は初夏へさしかかっていた。
早番の今日は、先に出勤した理市さんから一時間強遅れて店に着く。
掃除などのオープン準備を終えたけど、時間が余った。段々と要領がよくなって来ているのかもしれない。
ケトルにお湯を沸かしながら、理市さんが言う。
「月島も、もうすっかり仕事に慣れたな。良かったら、何か新しいことに挑戦してみるか?」
「新しいこと、ですか。うーん、そうですねえ」
今でも毎日しっかり充実している。
ただ、お店でやれることがもっと増えたら、それはすごく楽しいかもしれない。
「うん、やってみたいです。新しいこと」
やってみたい。そんな気持ちが持てるようになってきたことが嬉しい。
嬉しさの実感がしっかりあるうちに、新しい仕事にも取り組んでみたくなった。
理市さんも爽やかな笑顔でうなずいてくれる。
「そうか。それじゃあ、コーヒーを淹れてみるのはどうだ?」
「コーヒーを!」
「そう。淹れ方にも色々種類があるんだが、うちのやり方だと主にペーパードリップだね」
これだよと理市さんが取り出したのは、円錐形の紙のフィルター。
手元にはすでに、ポットとサーバー、器も用意してある。
彼がコーヒーを淹れる光景は、もうずいぶん見慣れた気がしていたが……。
「コーヒーは淹れたことある?」
「えっ、ええとインスタントコーヒーと、あの簡単な個包装パックのドリップのコーヒーしか……」
「そうか。じゃあ今日が月島のペーパードリップのデビューだな。そう難しくはないから、オープンまでの間に一度やってみようか」
ドリップってコーヒーの粉にお湯を入れる……ってだけの単純な話ではないよね、きっと。
難しくないというけど、私にできるだろうか?
器用な方ではないだけに、不安が大きい。
「一応手本を見せるよ」
理市さんはそう言うと、流れるような動きで準備をして、コーヒーを抽出していく。
フィルターを折ってドリッパーにセット。挽いておいた豆の粉を計ってフィルターにいれ、注ぎ口の細いケトルで粉にお湯を入れて蒸らす。
その後は予め温めておいたサーバーに、じっくりとコーヒーを落としていく。
いつもよりゆっくりやってくれているのはわかる。よくわかるんだけど、それでも早い。
ぜ、全然参考にならない……!
「……と、こんな感じなんだけど。まあ、初めからは動けないと思う」
「あはは、ですよねえ……」
「ひとまず実際に手を動かそうか。ここに立って」
いよいよ私がやってみる番だ。
呼び寄せられて、理市さんの隣に立つ。
並んでみると、彼はやっぱり背が高くて、正直カッコ良い。思っていたよりも距離が近くて、不覚にもドキドキしてしまう。
いけない、いけない。
ちゃんと集中しなくちゃ、絶対大失敗してしまう。
私お湯の入ったコーヒーケトルを怖々と手に取った。
「最初は蒸らしの作業だな。中央から外側に向かって少しずつぐるぐると、粉全体にお湯が染み渡るように注いでみて」
「わかりました!」
小首を傾げながら見ている理市さんが、ドリッパーを示しながらそう言う。
彼がやっているのを何度も見たことがある作業だ。
思い出しながら、私はそーっとそーっと、慎重にコーヒーケトルを傾ける。
が。
「きゃーっ!」
手元が狂って一気にドバっとお湯が出てしまった。
慎重にやったはずなのになぜ。悲しい……。
「大丈夫さ。このまま二十秒くらい蒸らして」
次の段階では、中央に円を描くようにして少しずつ繰り返し注いでいく。
この段階でも手元が狂いまくってしまって、全然うまく注げない。
理市さんは「大丈夫だから」と笑って慰めてくれたけど、たぶん、いや絶対大丈夫ではない。
あとはドリッパーの中身の真ん中がくぼんで、泡の表面が崩れないうちに続けて注いでいく。
サーバーに記された規定量まで抽出して、なんとか私の初ドリップ体験は終わったのだった。
「これを大体二分半から三分以内くらいに終えるのが普通かな。やってみた感想はどう?」
「うーん、難しいですね。全然上手くできませんでした……」
「初めてなのに上出来だと思うよ」
そう言った理市さんが渡してくれたコーヒーカップ。入っているのは、私が初めて淹れたコーヒーだ。
受け取ってひと口すすってみる。
でも……。
(お、美味しくない……)
日ごろ理市さんが淹れてくれるコーヒーがどれだけ美味しいのか、はっきりわかってしまった。
同じ道具と同じ材料を使っているのに、私が淹れるとこうなってしまうのか。
初めてやることとはいえ、できの悪さにがっくりしてしまう。
「俺もありがたく頂くよ」
「あっ、やめた方が良いですよ、理市さん!」
私が止めるのを聞かずに、理市さんは自分の分のコーヒーを飲む。
ああ、舌の肥えているだろうこの人に、あのマズいコーヒーを飲ませてしまうなんて。
恥ずかしい……。
消え入りたい気持ちになっていると、カップを持ったまま理市さんが微笑む。私を安心させてくれるように。
「お湯の継ぎ足しが少し遅かったかな。ちょっと苦味が出てるけど、でもちゃんと淹れられてる。やっぱり、初めてなのによくできてるよ」
「うー……次に淹れる時は、もっと練習して、ちゃんと美味しくなるように頑張ります」
「ペーパードリップはシンプルだけど、その代わり人によって個性が出るからな。君がどんな感じのコーヒーを淹れるようになるか楽しみだな」
淡い色の瞳、その眼差しがとても優しい。
それは、小さいけど新しい一歩を踏み出したことを心から祝福してくれているようで。
私は、気落ちしていたのもつかの間、すっかり嬉しい気持ちになっていた。
期待してもらえる喜びを、思い出せた気がして。
「理市さんに追いつけるのはまだまだ先ですけど、私なりの美味しさ、探していきますね」
意気込みを伝えると、彼は本当に嬉しそうに微笑み返してくれて。
私は、なんだか。
なんだか、……。
胸の奥が温かくなった、ような。
ううん。まだ、よくわからない。
なんとも説明しがたい気持ちを、抱いていた。




