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二人の朝のはじまり

 私がカフェ・ライムライトで働くようになって、三週間がすぎた。

 思いのほか楽しくやれていたのと、仕事に慣れてきたのもあって、三週間はすぐだった。



 早番のその日、身支度を整えた私は、自分の部屋を出て、午前九時半に着くようにお店に降りていった。

 エレベーターを降りて扉の前に立った時、いつもと違う何かを感じて首を傾げる。


(あれ……? なんだろう、何か変だな)


 違和感の理由には、すぐ気づいた。

 入口の扉から、明かりが漏れていないのだ。


 これまでお店が開いている日は毎日、当然なのだけど理市さんが先に鍵を開けて店に入っていた。

 ケーキを焼いたり、細々とした用事をこなしたりしているようで、私より一時間は前に来ていることが多かった。


(理市さん、まだ来てないのかな?)


 そう思ってドアに手をかけてみると、鍵は開いている。

 ふと心配になった。

 電気系統の故障はそうそうないはずだ。でもセキュリティのしっかりしているこのビルで、泥棒なんてもっとないだろう。

 じゃあ、いったい……?



 そろそろとドアを開けて店内に入る。

 地下にある店内は、当然だけど明かりなしでは暗い。そんな真っ暗な中、手探りで明かりのスイッチを探す。

 いつも電気がついているから、スイッチの場所なんて意識してなかった。全然たどり着けなくて、壁際をごそごそと動き回りながらスイッチを探していると――。


 不意に、視界を微かな赤い光がよぎった気がして、私はそちらに顔を向けた。

 同時に、急に人の気配が間近に生まれる。


「……わっ!?」


 思わず驚いて飛びのきそうになった腕を、何かに……誰かにつかまれた。


「危ない。後ろ、植木鉢があるから」

「あ、あれ、理市さん……? やっぱりもう来てたんですね、おはようございます」


 どうやら植木鉢にぶつかりそうになっていたのを、理市さんに止めてもらったみたいだった。

 声とシルエットからして、たぶん、だけど。


 それにしても……。



「ところで……あの。明かりは? 故障とかですか?」

「明かりって……?」


 もうお店に来てたならなぜ真っ暗なのだろう。

 でも、本当に意味がわからなそうな口調で問い返された。


「ええと。真っ暗で何も見えないんですが……」

「……そうだった。見えないのか」


 一拍の間をおいて、明かりがつく。

 私のすぐそばに、火のついていない煙草をくわえた理市さんが立っていた。


 こんな近い距離まで来ていたのに、全然気づかなかった。暗闇の中、彼は全く音も立てないで歩いてきていたんだな……。

 理市さんは、やっぱり普通の人間と全然違う。そのことを改めて実感してしまう。



「すまない。ぼんやりしていて、……。君は、というか普通は見えないよな」

「理市さんは、あんなに暗くても見えてたんですね」

「ああ。闇の中でも視界があってね、俺の場合は」


 私は単純に便利だなあと思ってしまったのだけど、理市さんは浮かない表情だ。

 煙草を持ったまま、目を伏せてため息をつく。長い睫毛がまだ赤色の残っている目にかかって、ドキッとするようなきれいさとゾクリとする恐ろしさを同時に感じた。


「調子が良くないとはいえ、暗かったのにも気づかなかったとは……。人間から遠ざかりたくないなんて言ったのに、これじゃあな」

「あの、体調あまり良くないんですか?」

「……少し、かな」


 うーん、正直かなり調子が悪そうに見える。

 理市さんがくわえ煙草をしているのを見たのは、これが二度目。前回のことを考えても、今は結構ギリギリの体調なのかもしれない。


 心配になった私は、思い切って彼に尋ねてみることにした。

 余計なお世話かもと思いながらも。




「理市さん、ちゃんとごはん食べれてます?」

「え? 急な話だな……?」


 考えた末に聞いたはずが、結構唐突な物言いになってしまった。

 理市さんもそう思ったようで、ちょっと目を丸くしながらも答えてくれる。


「そうだな、……食べられないこともまあ、ある。特に朝がな」


 やっぱりそうなのか。

 カフェ・ライムライトで働くようになって、二人で食事をとる機会が増えた。昼食は軽めのものを仕事の合間に。夜は、終業後に大体理市さんがまかないを用意してくれる。

 ただやはり時間が不規則にならざるを得ないので、私は朝にしっかりごはんを食べることにしていた。


 でも、理市さんはどうしているのかと考えると……。


 ひとりで暮らしで忙しいと、特に具合がいまいちな時には、準備するのも大変だろう。体質的にも、日中は色々とつらいのかもしれない。


 店を優先して自分のことをうっかり後回しにするのは、いかにもこの人らしい気がする。

 とはいえ、これは『らしい』と言って済ませるわけにはいかない問題だ。



「以前、普通の食事だと、栄養の効率が悪いって言ってましたよね。それなのにちゃんと食べないと、余計にきつくなってしまうんじゃないですか?」

「そう言われると返す言葉もないんだが……」

「いえ、すみません。傍から見て言うだけなら簡単ですよね……。ええと……」


 責めたいわけではなくて。

 理市さんの役に立てそうなことはないか、受けた恩を返す機会はないか。それこそが私がいつも考えていることだ。

 そこで今回、私には、思いつきがあった。


「ご提案なんですけど」

「提案? どんな?」

「私に朝ごはんを作らせてもらえませんか?」


 一瞬かたまった後で、理市さんが怪訝そうな顔をして尋ねてくる。


「朝ごはんって……俺の?」

「はい。理市さんの。と言っても、もちろん自分の分も作ります。お仕事のある日の朝、出勤前にうちで食べてくのはどうですか? それか、私がお惣菜を作ってお届けするのでも良いです。差し出がましすぎるとは思うんですが」

「朝食か……」


 理市さんは珍しく困惑した様子で考え込んでしまった。

 そりゃそうか……。

 突然他人に『ごはん作りますよ』と言われたって困るよね。


 よくよく考えたらあまりにも余計なお世話すぎるし、馴れ馴れしすぎて気にさわったかもしれない。私はこの人の身内でもなんでもなくて、店の一従業員にすぎないのに。

 慌てて頭を下げる。


「あの、気を悪くしたら本当にごめんなさい」

「いや、その。驚いただけ。気を悪くするなんてとんでもない。しかし君も朝は忙しいだろ。それにその話だと週五で作ってもらうことになる。そんな迷惑をかけるのは、ちょっと」


 そう言った理市さんは、本当に怒った顔はしていなかった。それよりは、ただ迷っているような感じに見える。



 迷惑をかける、か。

 彼はそう言うけど……。


「今日みたいなことがある方が困りますよ。心配になっちゃいますから。私には吸血鬼のことはよく分かりませんけど、あなたは絶対体に良くないことしてると思います」

「それは……そうだな。面目ない」

「確かに朝は忙しいですけど、私の場合は理市さんほどじゃないし、作るごはんは一人分が二人分になってもそんなに変わりませんから、大丈夫です」


 そもそも以前は、真っ黒(ブラック)な労働環境でも二人分のごはんを毎日朝晩と作っていた。それに比べたら、全然大変ではない。


「それと、一番大事なことなんですが……。結んだ『約束』の重さにふさわしい行動がしたいって、前にお伝えしたことがありましたよね。私、まだまだやれてないと思うんです。だからその一環ということで……ダメでしょうか?」

「うーん……」


 理市さんは今度こそ難しい顔のまま、下を向いてしまった。

 私はその時、以前拝島さんが言っていた『理市さんは誰かを自分の内側に入れたがらない』という話を思い出していた。


 彼の心が知りたい、なんて贅沢は言わない。

 でも私は、本当に困っていた時に自分を助けてくれたこの人には、できるだけ元気でいてほしい。


 ……大義名分を並べてみたものの、なんのことはない。私はワガママを通したいだけなのだ。



 ドキドキしながら、彼が結論を出すのをじっと待つ。

 ほどなくして、理市さんが私を見つめながらこう言った。


「……じゃあ、月島の言葉に甘えさせてもらうよ。ただな、難しいと思ったらいつでも撤回してくれ。君に負担を強いるのは、俺の望むところじゃないから」

「わかりました!」



 ……良かった!

 安心感と嬉しさで、思わず破顔してしまう。


「本当に物好きだね、君は。なんでそんなに嬉しそうなんだ? おまけにものすごく真面目だし」

「そうですか? 『約束』を誤魔化さずにちゃんと守ってくれている理市さんの方が、よっぽと真面目だと思いますけど……」

「……君には敵わないな、どうにも」


 そう言った理市さんの表情は、とても優しくて。

 ううん、彼はいつも優しいけど、この時の笑顔はなんだか温かで、飾っていなくて。

 ずっと見ていたくなるような、宝物のような微笑だった。


 あなたには敵わない。

 それは、私のセリフだ。



 翌日から、私と理市さんの新しい朝のルーティンは始まった。

 少しでも彼の力になれればいいなと、心から思う。

 私にできることなんてほんの小さなことにすぎないとしても。


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