これからの私は
一連のやり取りの後、理市さんは(遠慮する私を押し切って)朝食を作ってくれた。
クロックムッシュにグリーンサラダ。ドライフルーツ入りヨーグルト、それとコーヒー。まさにカフェのモーニングみたいなお見事なメニュー。
ちなみに吸血鬼というのは、やっぱり血が一番美味しく感じはするものの、普通の食事もちゃんと味わえはするのだそうだ。
おなかは空いていたので朝食は嬉しかったのだけど、具合が良くない人に作らせてしまったのは複雑な気分だった。次に朝ごはんを作る時は、私にやらせてもらいたいなあ。
とはいえ一緒に朝食をとったあとは、彼の顔色も少し良くなって安心した。
使い終わった食器を下げて食洗機に入れると、私と理市さんはダイニングテーブルで向き合った。
「さて、君のこれからの話だな」
「はい。お仕事も住まいもお世話になります。よろしくお願いします」
テーブルの上には色々な書類と冊子。
内訳としては、各種の契約書とインテリアカタログなどで、結構な量になる。
「契約書はよく読んで、必要なところに署名してくれ。このカタログなんだけど、午後から部屋の内見を手配してあるから、そのあとで必要そうなものをリストアップして。遠慮はしないように。それと賃貸借契約書だけ内見の後になるから。マンションまわりの費用に関しては全部気にしなくていい」
頼もしい言葉だと思いつつも、やっぱり恐縮はしてしまう。
彼氏と別れて仕事もやめ、行くあてもなかったはずなのに、あっという間に住む場所も仕事も決まってしまった。そればかりか破格の待遇を受けている。
昨日から今日にかけてのできごとはまるで夢みたいだけど、本当に私の夢じゃないのだろうか……?
思わず自分の頬を引っ張ってみた。痛い。まぎれもない現実なのだ、これが。
「月島は、飲食業や接客業の経験は?」
とどめとばかりに、理市さんの声が私をしっかり現実に引き戻した。
「あっ、はい。どちらもないです。新卒でデザイン事務所に務めてからはそれ一本でしたし、学生時代のアルバイトも学内のものばかりだったので」
「そうか。じゃあ引越し作業や役所の手続きが落ち着いたら、仕事の研修から始めようか」
「そうしてもらえると助かります……。初めてのことばかりなので、全然勝手がわからなくて」
気がきくとはいえない鈍臭い私に、はたして接客業が務まるのだろうか?
正直不安に思う気持ちはある。
ただ今の私は、元の仕事のことを考えると、連鎖的に社長と大樹のことを思い出してしまう。その度に、心が引き裂かれるようなひどい気持ちになってしまうのだ。
それなら、全く新しい仕事に挑戦してみる方がまだマシかもしれない。
だから――。
「ひとまずは店の仕事を手伝ってもらうつもりでいるんだが。いずれは君だけにしかできない、もともとの技能を生かしたこともやってもらえるようにしたいところだな」
「気をつかってくれてありがとうございます。でも今はとにかく体を動かして、新しいことをたくさん覚えてみたいんです」
だから、そう答えた。
理市さんは何か思うところがあったのかもしれないが、何も言わずにうなずいてくれた。
この人はちゃんと、私の事情を汲んでくれようとしているのかもしれない。
それは、自分自身が平凡ではない人生を送ってきたゆえの同情なのだろうか。
それとも……。
午前中は契約書類の確認と署名でほぼ終わり。
昼食を挟んだ後に理市さんに送り出されて、私はこれから住むマンションの一室の内見に来ていた。
内見した部屋は、さすがに理市さんの住んでいる部屋ほどではなかったけど、二LDKもあってひとり暮らしには十分すぎる大きさだ。
物件を案内してくれる不動産会社の社員さんも、とても感じが良く、説明も丁寧にしてくれた。
それにしても、人生史上で一番良い場所に住むことになった気がする……。
高層階で広いし、共用設備もすごく立派だし、セキュリティもバッチリだし。
「というわけで、……月島様、何かご質問はございますか?」
すっかり圧倒されて、感慨にふけってしまっていた。
慌てて返事をする。
「あ、はい。大丈夫だと思います。むしろその、すみません。急にお時間とって頂いてしまって」
「ああ、いえいえ。オーナーには弊社がいつもお世話になっておりますから、このくらいでしたらお易い御用ですよ」
その言葉が引っかかって、私は首を傾げた。
オーナーが私と知り合いみたいな言い方だったからだ。
「オーナー……」
「ええ、織原様には本当にですね……」
「織……」
織原。……理市さん!?
不動産屋さんは気づかずに話を続けていたけど、私のびっくりはまだ治まっていなかった。
お、オーナーですか!?
それって、この大きなビルのオーナーってことだよね。
住む場所のことも家具のことも仕事のことも。安請け合いしてくれるわけだよ……。なんだか全部納得が行ってしまった。
同時に、ますます疑問が深まる。理市さんって本当に何者なんだろう。
吸血鬼だからって、みんなビル持っているわけじゃないだろう。
品が良い感じがするから、もしかして元々お金持ちの家の人なのかもしれない。家族写真にも立派なおうちが写っていたし。
なんだか雲の上の人とご縁ができてしまったようで、不思議な気分だ。
事実は小説よりも奇なりと言うけど、ここ二日でそれを目いっぱい体験している感じだった。
とはいえ、私自身はまだ何も変わっていない。
涙こそ出ないものの心の傷はまだ血を流しているし、疲労だって取り切れていない。仕事も再開していない。
……しっかりしなくては。
甘えてばかりでは、いけないんだから。
不動産屋さんから部屋の鍵を預かり、晴れてこの部屋は私が住む『私の部屋』となった。
まだ何もなくて、ガランとしているけど……。
(これから、よろしくね)
誰にともなく、心の中でつぶやいていた。
新しくなるんだ、これから、ここから。
生活も、仕事も、そして私自身も。
全部があまりにも突然すぎて、まだ心はひび割れているけど、それでもやっていくんだ。
私はこぶしを強く握りしめた。
理市さんの家に戻り、家具のカタログを見ながら必要なものをリストアップしていると、あっという間に夜になっていた。
(さすがにちょっと疲れたかな……?)
うーんと背伸びしたのと、おなかがぐうーっと音を立てるのが一緒のタイミングだった。
何か食べた方が良さそうだ。
そう思って、部屋から出ようとしたちょうどその時に、ドアがノックされた。
「月島。今、良いか?」
「大丈夫です。ちょうど色々終わったところで!」
答えながらドアを開くと、理市さんが立っていた。ネイビーのノーカラーシャツにチノパン、ジャケットを持っている。素敵な姿だけど、お出かけだろうか?
「おつかれさま。外に何か食べに行かないか? 今夜は外食で済ませてしまおうと思ってな」
「えっと……私がご一緒して良いんですか?」
「もちろん。君が嫌でなければだけど」
「嫌なんてとんでもない! あ、ただ、お互いの体調を考えて近場で食事がいいかなとは。私、この街から離れて結構経つのでお店全然わからないんですが、理市さんはどこかご存知ですか?」
結局朝も昼も理市さんに作ってもらってしまった身としては、外食の方がまだしも申し訳なさが減る。
外で食べたらワリカンもできるし、何より作る手間も片付ける手間もかけずに済む。
「嫌いな食べ物はある?」
「いえ、なんでもおいしくいただけるタイプです!」
「そうか。ここの近くにうまいビストロがあるんだけど、そこで何品か頼んでシェアするのはどう?」
ビストロ。久しぶりに聞いた響きだ。
最後に行ったのっていつだろう……。毎日仕事ですり減って、休みの日は家事の消化に追い立てられて。
誰かと一緒に外食をするのは、本当に久しぶりだ。
「良いですね! 美味しいもの食べるの大好きなんです。理市さんのオススメなら間違いなさそうですし、楽しみです!」
「決まりだな。じゃあ席をとるから、遅くならないうちに出かけよう」
そうして理市さんが連れて行ってくれたビストロは、通りの奥まった場所にある落ち着いた雰囲気のお店。まさに大人の隠れ家という印象だった。
好きなものを選んでとメニューを渡されたので、かなり真剣に考えてしまった。どれも美味しそうで目移りしてしまう……。
最終的に頼んだのは、モッツァレラチーズといちご、生ハムのサラダ。白海老と菜の花、新玉葱の冷製ポタージュ。パテドカンパーニュ。
思わずお酒がほしくなるけど、疲れている体には効きすぎそうなので、モクテルで乾杯する。
「うわー! お、おいしい……。こんなお店があったんですねえ。全然知りませんでした」
「時々食べに来るんだ。気楽な上にリーズナブルでうまいから。気に入ったようで良かったよ」
「すでに大満足です!」
おいしいものを前にすると、思わず笑顔がこぼれてしまうから、私って単純だなあと思う。
でも目の前の理市さんも、心なしか嬉しそうにしてくれているような気がする。
もしかして、元気出せよ、って思って連れてきてくれたのかな。
そんなことを考えているうちにメインが運ばれてくる。
鴨もも肉のコンフィ。それと真鯛とエビホタテムースのパイ包み焼き。
最後にフランボワーズのミルフィーユまで頂いて、もう食べられない! となるまでしっかり食べた。
お会計の段階になって、また理市さんに押し切られてごちそうになってしまった。
ワリカンのつもりで好きに食べたのだから、私は当然、ワリカンでお願いします! と主張したのだが……。
「今度お茶でもおごって」
「うう……絶対おごりますからね。今度は譲りませんよ」
「楽しみにしてる」
そう言って微笑まれると、もう敵わない気持ちになる。
今度絶対、美味しい店でお茶をおごろう……。
そんなことを考えていると、少しだけど失恋の痛みが紛れていることに気づく。
おなかいっぱいで、体はポカポカ。
心もいくらか、ポカポカになって。
誰かと……理市さんと過ごす、美味しくて楽しい食事の時間のことを、私は心底ありがたく思ったのだった。




