カフェ・ライムライトへようこそ
「い、いらっしゃいませ!」
慣れない接客のあいさつ。張り切りすぎたその第一声は、ちょっと裏返っていて、やっぱりぎこちなくなってしまった。
無理もないのだ。
何せ私がこんなセリフを言うのは、大学時代の学祭の出店以来だから。
そしてそれ以上に、お店の持っている素敵なオーラに圧倒されていたから。
「いらっしゃいませ」
一方マスターの言う「いらっしゃいませ」はもの慣れて穏やかだ。
低めでよく響く心地よい声。いかにもお客様の求めているものを提供してくれそうな、安心感。
まさにこの店の主人にふさわしい落ち着きに満ちている。
そんなマスターの声は、お客様を優しく出迎えるとともに私の背中もそっと押してくれる。
そう、ここからは、私が私の仕事を自分で頑張る時間だ。
まずはぐるりと周りを見回す。抑えめな光に照らされた店内は、今まで働いていたごく普通の……しかもブラックだった会社のオフィスとは、比較にならない素敵な空間。古風だけど洗練された雰囲気だ。
背筋が伸びる思いになりつつも、こんなにも魅力的な店が新しい私の職場なのだと思うと自然と心が浮き上がる。
上質な木目のトレイの上に、磨きあげられたクリスタルガラスのタンブラーを乗せて、お客様の席へ向かった。
まだ新品のエプロンのポケットには、ちょっとないくらいシャレたボールペン。抜群の書き心地のそれで伝票を記入し、マスターに注文を伝える。
慣れないながらも、フードやドリンクの準備の手伝いもする。
食器類も優雅さが際立つ品ばかりだ。このシリーズは青い装飾がとてもきれいなのだけど、確か相当いいお値段がするはずなので、間違っても割らないように神経を使う。
注文の品を揃えてお客様にお出ししたら、なんとかひと通りの作業が終わる。
お客様の様子を見ながら、お水を注ぎに行ったり、追加の注文を受けたり。
そしてお客様が立ち上がったタイミングを見て、レジで伝票を見ながらお会計を受け持つ。
最後にお客様が帰るところをお見送りする。
とあるカフェのアシスタントスタッフ。
それが私が始めたばかりの新しい仕事だった。
ここは、カフェ・ライムライト。
街角のビルの地下にひっそりとある、クラシックで落ち着いた雰囲気のカフェ。
カウンター席のほかにテーブル席がいくつもあり、広すぎず狭すぎないくつろいだ空間だ。
お店のインテリアはどれも品が良いアンティークで、取っておきの大人の隠れ家という感じ。
ささやかに流れるBGMはレコードのジャズ。店内には挽きたてのコーヒーの良い香りが漂う、とても素敵なお店だ。
そして私。私は、月島風優子。
こないだ二十六歳を迎えたばかり。つい先日までデザイン事務所に務めていたのだが、わけあって全く業種の違うこのカフェで働くことになった。
取り立てて変わったところがない、ありふれた人間だと思う。
直近に起こったできごと以外は。
今までにお客としてお店を利用したことはあっても、飲食業には縁のない生活を送ってきた。だからこの仕事には戸惑うことも慣れないことも山ほどある。
それでもこの仕事をやっていく気でいるのには、理由がある。
今の私にはとにかくなんでもやってみるしかないから、という後ろ向きな理由が二割。
残り八割は、もっと前向きだ。
この出会いをありがたく思い、厚意に応えたい。新しい自分を見つけたい、そんな気持ちが強くあるからだった。
どちらにしても、少しばかり思い詰めざるを得ない事情が、私にはあるのだ。
「ありがとうございました」
カランと出入口のベルが音を鳴らし、扉が閉まる。
今日最後のお客様が帰り、私はそれを見送ったところだ。
すかさず閉店中の札をドアにかけ、本日の営業はこれにて終了。
なんとか、カフェスタッフとしての初出勤日を乗り越えた。
時刻はちょうど夜の八時になっていた。
「おつかれさま。よくできてたじゃないか、初日なのに」
カウンターからかけられた声は、重厚な木製のインテリアで統一された室内に優しく響く。
振り返ると、声音の印象どおりの柔らかな微笑が目に飛び込んでくる。このお店のもう一人のスタッフ、というかマスターその人だ。
緩く癖のある黒い髪の毛は、短めに整えられている。パリッとシワのないシャツにスラックスというシンプルな姿が完成されていて、すらりと均整の取れた細身には、私とお揃いのエプロン。私の百倍くらい似合っている。
でも彼の何より特筆すべき点は顔の造作だろう。美貌、と言って過言ではないくらいのイケメンなのだから。
「閉店作業前に、コーヒー淹れようか。ブラックが良い? カフェオレ?」
「ありがとうございます。カフェオレでお願いします」
ややたれ目がちな目は、笑みの形に細められるとさらに優しい印象になる。
指の長いきれいな手がコーヒーを淹れる仕草は、絵になる美しさだと思う。
そう、彼はこのお店の雰囲気と似ている気がする。シックで落ち着いた色気があり、でもどこか影が感じられるような。
スケッチしたいという気持ちと、私ごときの筆では再現性がないという気持ちで行ったりきたりしてしまう。
ただ、一緒に働くとなれば、そのハンサムさにデレデレしているわけにはいかない。
やっとまばゆさに慣れてきた、と思う、たぶん。
カップにたっぷりのカフェオレを受け取って、私は大きく息を吐く。
「はー、緊張しました……。初日のご指導ありがとうございます。大きいミスとかなくて良かったです」
「真面目な仕事ぶりで、とても良かったよ。君は覚えも早いし」
そう言ってくれたこの店のマスターこと、織原理市さん。
私より十歳は歳上だからというのはあるものの、とても落ち着いている。大人の余裕というものを感じられる人だ。私が彼と同い年になったとしても、同じようになっているとは到底思えない……。
理市さんは自分の分のコーヒーを口に運びながら、私に尋ねてくる。
「どうだ、馴染めそうか? ライムライトの仕事と、新しい生活」
「正直まだ落ち着かない気持ちでいっぱいなんですけど、たぶんやっていけるかなって思います。ちょっとバタバタですけど、かえってそのくらいの方が」
「何よりだ」
喜んでくれたのか、理市さんは微笑んでくれた。
おかげさまで、と私は頭を下げた。
「不自由があったら言ってくれ。くれぐれも遠慮なくな」
「不自由なんて! でも、わかりました。もし何かあったら、その時は甘えさせてもらいます」
「ああ。その方がお互いのためにもなると思っておいて」
ありがたい気づかいだ。
実は理市さんは、ただの仕事の上司というだけの人ではない。私にこのカフェでの仕事を紹介してくれて、住む場所まで用意してくれた大恩人なのだ。
……本当はそれだけの関係でもないのだけど。
そのことにはまた後で触れるとして。
とにかく今の私は、この人に感謝してもし切れない生活を送っている。
仕事の指導も優しくて丁寧だし、ありがたいことばかりなのだ。
そんなことを考えながらコーヒーで一服しているうちに、レコードが止まる。
ふと静寂が流れた。
まるで店内の時間が止まったようだと思っていたその時、
「月島。改めて言うけど」
「なんですか?」
コーヒーカップを置き、理市さんがひたと私を見つめた。
その目の鋭さに、表情の厳しさに、心臓が痛くなるほどドキッとする。
今までの語調とは違い、ひどく真摯で冷たささえ感じる静かな声。
「……くれぐれも忘れないでな。『約束』のこと」
『約束』。
そう、実は私たちには、他の誰にも秘密の『約束』がある。
それは、私と理市さんをつなぐ、大事な糸のようなもの。
それがあるから今私はここでこうしていられる。
眼差しの鋭さは、思わずたじろいでしまうほど。
けれど裏を返せば、穏やかな彼にそんな表情をさせるほど、『約束』とは大切で重いことなのだ。
だから私は強くうなずいた。あえて笑顔で、断言した。
「はい。もちろん」
「頼む」
理市さんもすぐに、ふっと優しい微笑みに戻ってうなずく。
それから二人で閉店作業をする間、もうひりつくような空気になることは一度もなかった。
私は片付けを終え、マスターの理市さんよりひと足早く自分の部屋に帰る。このビルの上の階は住居階になっていて、私はその一室に住んでいるのだ。
勤務初日の疲れを取るために湯船を張り、たっぷりのお湯に肩まで沈む。
そして今日までの信じられないできごとに、思いを馳せた。
二十五年間を平凡に生きてきた私に、今年になって突然降りかかったいくつもの『普通じゃない』できごとに。
そもそも、どうして私はこのカフェ・ライムライトで働くことになったのか?
理市さんと私の関係は?
『約束』とは、何のことなのか?
それら、すべては……。
すべては、最悪のあの日――今年の四月十日、私の誕生日から始まったのだ。




