第二章
ライブ終了後、俺はまだ泣いていた。
涙は洪水のように頬の上を通り地面にぽたぽたと落ちていた。
体は完全に狼人間になり、着ているセーターの間からも獣の尖った毛がはみ出していた。
一体何の涙なのかはわからなかった。
ただ本当に帰りたい。でも帰れない。という思いが涙を生んでいた。
どこに帰るの?
それはわからなかった。
ギターを力強く握り、自分の頬を叩くと、なんとなく気持ちが入れ替わったような気がした。
「雅人、またやっちゃったね、大丈夫?」
実咲が静まったステージの裏で腰を下ろす雅人に声をかけた。
彼の声を聴くと、彼から生えた毛や牙は少しずつ引っ込んでいった。
「この前は観覧車の中だったよね、全然平気だよ」
雅人は笑いながら余裕を見せた。
普段の姿に戻ると、あの帰りたいという異常な懐かしさ(ノスタラジック)はは消える。
でもその余韻は僅かながら残り、また何かわからないまま次の満月の日を迎えるのが決まりだ。
「そっか、雅人、でもあれは何の涙なんだ?」
「言いたくなかったら言わないでもいい。今まで避けてきた話題だから」
実咲は雅人を不安にさせないように笑顔で言った。
彼がいなければ俺の人生は終わってたんじゃないか。
「俺にもわからない」
そう呟いて、雲に隠れた満月を見上げた。
・・・・!?
何かが心の中で動いた。
そこにいるのか?
遥か彼方の月に何かが見えた気がした。
記憶が蘇ってくるような。
「ねえ実咲、俺たちってどうやって知り合ったんだ?」
「ごめん俺ちょっと記憶喪失気味で」
前髪をかき分けて思い返す。
実咲との最後の記憶は三カ月ほど前の海辺で止まっている。
まだ夏の暑い日、トンビの声が響く空に向かって歌ったあの日。
もっと言えばその日で俺の人生の記憶は止まっている。
「そ・・そっか、あれは去年の冬だった、ちょうど今頃ね、雅人の声に惚れたんだ」
去年の冬
季節は秋から冬に移り変わろうとしていた。
街を歩く人の服装も変わり、いわゆる衣替えが始まった頃だった。
とある金曜日の夜、実咲はバイト帰りに街中を散歩していた。
東京の景色はここ最近で本当に変わってしまった。
お台場にはスカイマークタワーができ、その隣には緑に囲まれた自然との共存という目的で建てられた星の森美術館がライトアップされていた。
ふらっと立ち寄りたくなるロマンチックなライトアップ。
実咲はそんな東京が気に入っていた。
そのまま思うがままに無心で歩いていると、ちょっとした路地裏を見つけた。
好奇心なのかただの気まぐれなのか。
路地裏に入ってみると、そこは公園になっており、公園の柵の向こうには海が広がっていた。
夜の海はまさに‘暗黒‘で、ただ黒世界が広がっていた。
公園に足を踏み入れてみると、風と共に音色が耳に入った。
優しくて、悲しげで、その声は実咲の心の奥底にある遠い思い出に触れるような感覚だった。
ゆっくりと足を動かし、公園の周りを見渡していると、一人の男の人が、真っ黒な海に向かって歌っていた。
歌っているというよりかは、呟いているというか、独り言というか。
彼の言葉はうまく聞き取れなかったが、彼が作っている音色に実咲は言葉を失っていた。
もう少し近づいてみると、彼が大きな涙を溢していることに気がついた。
海の向こうには満月が浮かんでいた。
「その公園ってどこの?」
雅人は実咲の話を聞いて尋ねた。
「ちょうどスカイマークタワーの近くだ。明日にでも行く?もしかしたら何か思い出すかも」
実咲はお得意の子供らしい笑顔を見せ、雅人は安心した。
「この辺は変わらないな」
今日は実咲と優菜と三人で、ライブ後のお祝いも兼ねて実咲と雅人が出会った場所に行くことになった。
スカイマークステーションにすいている時間など存在しない。
いつも、いつも人で埋め尽くされていた。
朝、サラリーマンの行進を逆走できる快感はニートの特権だった。
「雅人、あの時の歌はもう歌えないのか?」
実咲は雅人と出会った時のことを思い出しながら問いかけた。
「覚えてないんだ、それに俺は歌えないよ」
雅人が下を向いて自信なさげに言うと、
「雅人君いい声じゃん」
と優菜が笑って返した。
その日の午前中、スカイマークステーション付近はくまなく探し回ったものの、例の公園は見つからなかった。
いつの間にか彼らは星の森美術館に立ち寄っていた。
星の森美術館ー
館内の展示物は全て3Dになっており、美術館の中には別世界が広がっていた。
空飛ぶペガサス、ペルソナの可視化ビジュアル、空を自由自在に飛ぶクジラ。
彼ら三人もこの美術館を気に入っていた。
美術館を出た頃には既に日が沈んでいた。
「飲みに行こうぜ、今日は本当に楽しかった」
雅人は満足げに言った。
俺にはかなり長い間の記憶がない。
親もわからない。
どこで生まれたのかもわからない。
思い出そうとするとずっと寝ていたような感覚になる。
でも幸せなことがあると、‘報われた‘ような気持ちになる。
まるで過去に辛い経験をしたような。
「行こうぜ!優菜は大丈夫?」
実咲も笑顔でのってくれた。さらに優菜のことまで気を配るのはさすが紳士だ。
「当たり前でしょ」
と呟き、お決まりの居酒屋、‘‘海りょう‘‘へと走った。
羽織っていたコートは風になびき、後ろには笑い声が響いた。
この二人がいてよかったと心から思えた。
現状、二カ月に一回ほどの頻度であるライブの収入でなんとか食べていけた。
好きなことが仕事で好きな人たちといつもいれる。
何でも上手くいく人生なんていうのはそうそうない。
それだけに過去にどんな悲惨なことがあったのか、自分の消えた思い出が気になるなんてこともよくあった。
そしてなぜ自分は狼人間なのか。
もし過去にあった何かしらの財産を失ったていたとしても。
もし未来にあったはずの夢がなくなっていたとしても。
とにかくこの三人だけは失いたくなかった。
この三人で食べたり飲んだり歌ったりしていると心の底から安心できた。
ただここで一つ疑問が生まれる。
安心が普通だったのなら安心は感じれない。
過去に何があったのかはわからない。
でも確かなことは今現在、少なくとも実咲と出会った去年の冬頃以前の記憶の手がかりとなる物を一切所持していないことだ。
スマホの写真フォルダーも、デジカメで撮った写真も去年の冬で途切れている。
「本当に俺って何者なのかな」
わかる訳もないが二人に聞いてみた。ただの思いつきの一部だ。
「いい奴だよ、狼っていうか小さい犬みたい」
実咲が笑みを含めて言った。彼の言葉で何度救われたことか。
「狼人間な雅人君なんてロマンチックでしょ!元気出して」
お酒が入った優菜はいつもの大人しさが消える。
でもそんなとこもたまんなく好きだ。
店の中で何でもない雑談を交わしていると、静かに地面に落ちるような雨の音に気がづいた。
窓の隙間から入ってきた冷たい風が肌に触れると故郷に帰りたいと、どこにあるのかもわからに故郷が懐かしくなった。
「時雨だな、そろそろ帰る?」
実咲は窓に手を入れて冷えた雨を触った。この時期は季節を無意識に感じることが多い。
風情とは非常に不思議なもので、風情を感じた体の部位だけが昔に戻ることが出来る。
居酒屋を出た頃には雨は止みかけており、傘がなくても歩けるような状態だった。
明日は特に予定もなく休みの日だったが、遊び疲れた三人は帰ることにした。
雅人と優菜はここから二駅、実咲は三駅先まで電車に乗る。
居酒屋から駅までは少し歩く必要がある。
お酒も入り、さらにこの三人だと何をしていても幸せだ。
駅までの道にあるスカイマークステーションをなんとなく眺めていると、空から列車が降りてくるのが見えた。
何かを思い出した。
また涙が出てきた。
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