なにが悲しいって?
よせあつめ家族と暮らしていた男に突然おとずれた前の生活。
アビーが愛していた静寂がもどった。が。。。
なにが悲しいって、 ―― そりゃあ、急激な環境の変化。
「 アビー?わかった?ちゃんとごはん食べるのよ? あんたの《毒》におかされた頭じゃ、わかんないかもしれないけど、『ニコチン』は、栄養にならないから」
お気の毒というように、元、男だった女は首を振る。
「安心しろ。おれの中では栄養に変換される」
新聞から眼もあげずに言ってやれば、側にいた子どもへ囁いた。
「ほらフレッド、あれが《毒》に侵された結果よ」
指をさすな。
「アビー、約束。ちゃんとごはん食べてね」
笑いながらフレッドが小さな小指をだしてきた。
おれが教えてやった誓約のまじないだ。
「アビー?」
掠れた声にしか元男を感じさせないアリスは、腰に手をあてた母親のように、小指をださないおれを睨む。
しかたなく新聞から眼をあげて、子どもの指をからめ取った。
「たった一週間だろ?酒場に行きゃ、黙ってたっておやじが飯を出すし、おれは三歳児じゃねえんだ。自分のことは自分で出来る。」
今までだって ―― 、という言葉は、なんとなくのみ込んだ。
「すぐ帰ってくるよ」
「・・・せっかくの休暇だ。アリスの親父が疲れきるまで、楽しんで来い」
子どもに気遣われているのを感じ、慌ててちゃんとした大人の役をする。
こいつの親父が生きていたら、言ったであろう言葉。
「うん。アビー愛してるよ。 ちゃんと『約束』まもってね」
がさりと新聞を潰して子どもが抱きつき挨拶をした。おれもだ、と返すのは、未だに照れくさくて困る。
プーっと窓の外から車の迎えの合図音。
さっきまでの『気遣い』が嘘のように「きた!」と叫んだフレッドは、じゃあね!と叫ぶとアリスより先に飛び出した。
柔らかい偽の胸を押し付けて、挨拶するアリスが、残念だけど下の酒場も休暇中よ、とキスして出ていった。
なんとなく、窓の下をのぞく。
駆け寄るフレッドを、手馴れたように抱き上げたアリスの親父が、こちらを見つけてウインクしてきた。
荷物を抱えたアリスも乗って、三人手を振り走り去る。
「ふあああ」じぶんにきこえるようあくびをしてみる。
ようやく戻ったおれの空間と時間。
おもえば、アリスが押しかけてきて、さらに最近、死んだ友人の子どものフレッドも同居することとなり、ここ数年の《環境の変化》は、はっきり言って厳しかった。
元の静かな生活が懐かしくて、しかたなかったところだ。
これで、しばらくゆっくり静かに過ごせるとソファに転がる。
眼を閉じると時計の音しかしない。
ああ、久しぶりの感覚だ。
次に目覚めればもう夕方で、喉が渇いて台所へ行った。
並んだ鍋も一週間使うことはないだろう。
飯? そんなもん・・・
のぞいた冷蔵庫の中に、作り置きの食べ物。
容器にはりつけられた二人連盟の《命令》は、『食べなさい!』
メモをはずしながらテーブルへ出す。
一人でもそりと味わう。
いねえのに、ここまでうるさいってどうなんだよ?
一人でお茶をいれて飲む。
自分しか音を出さない。
なんとなく、電話に眼がいく。
いや別に、かけねえけど。
部屋に戻って煙草に手をのばす。
箱にまたメモ。
いつの間に、と笑っちまう。
『すいすぎ注意!』へたくそなフレッドの文字。
笑って戻した。
なにが笑えるって?
だってまだ、 一日経ってねぇんだぜ?
なにが悲しいって、そりゃ・・・