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その他の短編集

あるいはクッキーでいっぱいの宇宙

作者: 皿日八目

 ゲームの中じゃ大金持ちだ。使いきれないほどのお金があるから、金貨のつまったツボや袋を見つけてもがっかりするくらいだ。もう使い道などないのである。 


 現実では、排水溝に落とした百円を一週間も惜しんでいるけれど。


 ゲームの中じゃ、世界の行く末を左右するほどの秘宝を倉庫に入りきらないほど持っている。とはいえ、しょせんはフレーバーだけの話で、実際はどこでも手に入るようなダガーやロングソードのほうが、何倍も使いやすくて強いのである。


 現実では、あふれかえるほど持っているのは一週間に一度しか回収されないプラごみだけなのだけれど。


 ゲームの中じゃ、どんなに高いところから落ちても死なない。何十分全力で走っても疲れない。自分の身長と同じくらいの得物を軽々と振り回せる。最高時速400キロのマシンも手足のように動かせる。常人にはその片鱗すら扱うことのできない魔術の極意を数百も知っている。


 現実では、逆上がりもできないし、自転車にも乗れないし、免許もないし、卒業の単位さえあやしいけれど。


 同じ主人公だというのに、モニターのあちらとこちらがわで、ずいぶんな違いだ。そりゃ、資質も環境も異なるのはたしかだけれど、操っているのはぼくの意識なんだから、ちょっとくらい分け前があったってよくはないか? 


 ぼくが何もしなけりゃ、正しい判断を繰り返していなけりゃ、きみは英雄にも、トップレーサーにも、大魔道士にも、魔王にもなれなかったし、あの子と結ばれることもなかったんだぜ? おい、聞いてるのか。おい。

 

 PCのモニターにひとり言を言うのも飽きたぼくは、やっていたゲームを閉じてデスクトップに戻した。


 そろそろ眠る時間だったが、あのユニークがさっぱりレジェンダリーを落としやがらなかったせいで、本来確保されていたはずのレポートを書く時間がなくなっていた。

 

 レポートが何だ。出さなかったら世界経済が混乱し、太平洋が沸騰し、世界中のスピーカーから一斉に7つのラッパの音が聴こえてくるわけでもあるまい。そんなことで世界が滅ぶか。


 世界が滅ばないのはたしかだが、単位を落とし自分が滅ぶのはたしかで、それは世界が滅ぶ以上に困るので、しぶしぶレポートを書くことに決めた。どういう形式で提出するんだったかを確認するため、配布された資料を探していると――


 なんだ、これは。

 

 デスクトップの片隅に、見慣れないアイコンがあった。こんなもの、あっただろうか。それはいかにもあやしげな、金色のランプの形をしていた。


 ふしぎなことに、何の名前も表示されていなかった。ただランプがぽつんとあるだけ。


 デスクトップの背景画像と勘違いしそうだが、あいにくぼくが背景にしているのはほの暗い湖底の写真であり、明らかにそんな場所にランプがあるはずはないので、やはりこれはアイコンだった。


 おおかた、ウイルスのたぐいだろう。午前中、もう配布されていないフリーゲームをあちこち探しまわっていた途中で、うっかり入ってはいけないサイトに入り、踏んではいけないリンクを踏んでしまったのかもしれない。


 それ以上特に気にもとめず、さっさと削除しようとするが、右クリックしても何も表示されない。思わず眉をひそめる。これは面倒なことになりそうだ。


 しかしここで名案を思いついた。そんなに感染させたいなら、感染してやろうじゃないか。


「ウイルスのせいでレポートが書けませんでした」というのは、数多ある言い訳のなかでもトップクラスに説得力がある気がする。というか、本当に感染するのだから、言い訳ですらない。ぼくは今から真実を作り上げるのだ。よしやろう。


 というわけで、堂々とそのアイコンをダブルクリックした。したのだが、何も起こらない。それは困る。カチカチとクリックを繰り返したが、やっぱり何も起こらない。


「それでもウイルスのつもりか」


 怒っても何も変わらない。むしゃくしゃして、そのアイコンをゴミ箱にドラッグしようとするが、不動。かんしゃくを起こしたぼくは、右クリックしたまま、しっちゃかめっちゃかにランプをあちこちに引っ張った。


 すると、突然ランプのアイコンからもくもくと白い煙が立ちのぼるアニメーションがはじまり、ついにはデスクトップを覆いつくすまでになった。


 ウイルスにしては凝ったアニメーションで、この力をまっとうなソフト開発に活かせよと思わないでもない。


 見守っていると、やがて煙が晴れ、千夜一夜から飛びだしたような緑色のジンが現れた。最近はコンピュータウィルスも擬人化するのが流行らしい。


 ジンはうれしそうに、ひとしきりデスクトップのなかを飛びまわり、背景画像で泳いでいた魚をかたっぱしから食べつくしたあと、真正面、つまりぼくのほうを向いてもぐもぐと口を動かした。


 ふわりふわりと吹きだしがその口元から現れる。どうやら喋っている内容らしい。てっきり、ぼくが今誰のことを考えているのかを当ててくれるのかと思いきや、そうではなかった。


「いやあ 今回の漂流は永かった! どうして一向に誰もランプをこすってくれないんだろうと思っていたが 何を間違えたのか 電子の海にまぎれちまったらしい おかげで久々に新鮮な空気が吸えたよ!」


 湖の底なのに? とつっこむより、気になることがたくさんあった。まさか、あの、ランプの魔人? と訊ねる。このパソコンはマイク付きなので、画面の中にも声が届くのだ。


「そうだよそうだよ このおれこそ れっきとした 由緒正しい 正統な 伝説に名高い ついでに権利関係で係争中の あのランプの魔人さ!」


「3つの願いを叶えてくれるってホント?」


「おーっと やっぱりそうきたか だが残念! 現実はそこまで甘くないんだ」


 なあんだ、と僕はがっかりする。


「今は不景気だからな…… 叶える願いは1つだけで勘弁してくれ」


 にわかに希望がよみがえる。しかし、僕はよく考えもせずにとっぴな願いを口走ったりはしない。先人の轍を踏まず、だ。


「1つの願いの長さって……どれくらい? あと 具体的にどのくらいまでのことを……」


「おいおい! そんな細かい定義の話はどっかの財団にでも任せておけって 自慢じゃないが おれは良識も常識も見識も知識も阿頼耶識もあると自負している せっかくランプから脱出させてくれたお前さんの願いを 意地悪に曲解するなんてことはしないし よっぽどむちゃくちゃでない限り 1つの願いとして認めるよ」


 当たり前かもしれないが、事実は小説よりも常識的らしい。ぼくは安心して、何の願いを叶えてもらおうかと考えはじめた……


 が、よくよく考えてみると、デスクトップのなかでふわふわしている緑色の魔人の言葉を鵜呑みにし、真剣になっているのがばかばかしくなってきた。


 ランプの魔人? なにそれ? 今どき、小学生だって信じやしない与太話じゃないか。まともに取り合うのもあほらしい。


 ……とはいえ、適当な願いで済ます気もしなかった。ぼくは一日につき3つの割合で、後から悔やむような失敗をおかす。


 万が一、もしも、まあ、ないとは思うけどさ、でも、これが、マジだとしたら、そして適当な願い――たとえば「カップラーメンの待ち時間を永久にゼロにしてほしい」とか「インスタント味噌汁の味噌の袋とか 納豆についているタレの袋とかを綺麗に開けられるようになりたい」とか――を願ってしまい、それが叶ってしまったら、もう尋常の後悔では済まされないのだ。


 だから、本当にばかばかしいとは思うけれど、でもある程度は真剣になって考えなくちゃならない。叶わなかったら叶わなかったで、「まあ そうだよな」とあまり失望はしないけれど、もし叶ったとしたら、「わお」と思えるくらいの願いを……


「決まった」

 ぼくは画面の中のジンに向かって言った。


「ぼくがやってるゲームの中のアイテムとかお金とかの事物を 現実に持ち出せるようにできないかな?」


「ほう いかにも現代っ子って感じの願いだな! 斬新で新鮮だ まあ 絵の中の美男美女と結婚したいという奴なら何人かいたがな」

 ジンは顎をなでる。


「できる?」

 何を心配そうな声を出しているのだ、ぼくは。


「もちろんだ! 無意識と夢のあわいで温められた想像力の卵より孵ったおれに できないことなど何もない!」


 ジンは威勢よく言った。そのあとは黙り込んで、何もする様子がない。じれったくなって、何か言おうとすると、唐突に、


「よし 終わった」


「えっ?」


「これでお前さんの願いはたしかに叶えたぞ それじゃ おれはもう行く」


「あの ちょっと」


「おっと おれのことはあまり周りにしゃべらないほうがいいぜ! 脅しじゃなくて お前さんのためだ 病院じゃ あまりゲームはできなさそうだしな」


 現れたときと同様、盛大に煙が巻き起こり、晴れたあとにはランプもジンもいなくなっていた。


 なんだか詐欺にあったような気がした。


 願いが叶えられたという自覚はまったくない。ただ確実なのは、今夜は眠れそうにないということだけだ。レポートをさぼる当初のもくろみが完全に失敗したためである。


 翌日の夕方。


 落第を免れて命からがら家へと帰ったぼくは、昼の取るに足らない雑多な経験を、セーブ&ロードの繰り返しによる望ましい結果の誘導や終わりなき素材集めのマラソンという高級な経験で上書きするため、即座にPCを起動した。


 ふとここで、昨夜の記憶がよみがえる。ランプの魔人。願い。


 今思うと、あれは丑三つ時になってもレポートのせいで眠れず朦朧とした意識が生みだした、白昼夢であったという気がする。白昼ではなかったけど。


 デスクトップもいつも通りだ。つまり、いつも通りにごちゃごちゃだ。よくここまで汚くできるものだと、自分でもびっくりする。気づけばこうなっていた。ゴミ屋敷もこのようにして作られるのだろうか。


 ただ、背景画像の湖底を泳ぐ魚が、心なしか減っているように見えた。しかし最初からこうだったかもしれないではないか。


 他には何もおかしいところはない。ランプのアイコンもないし……あれ、あるぞ?


 ただそのアイコンも昨日のものとは様子が違っていて、ちゃんと下に名前が表示されている。「ご希望の品」だってさ。

 

 クリックしてみると、それはファイルだったようで、中身が表示された。


 同じくランプのアイコンをしたアプリケーションと、「read me」というテキストの2つだけだった。読んでみよう。


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 使い方


1当ソフトを起動する


2任意のゲームソフトを起動する


3適当な事物にカーソルを合わせ、ঐクリックする


結果:何でも取り出せる


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 拍子抜けするくらい簡単で、拍子抜けした。


 右クリックはしばしばゲーム内で使うし、左クリックは誤爆しやすい。しかしঐクリックならそんな問題もない。ランプの魔人は気が利くらしい。


 とはいえ。


 まだぼくは半信半疑だった。というか、信じるほうがどうかしていないか? 指示された通りの操作をすれば、ウイルスに感染するか、ゲームのデータが消えてしまうかしてしまうのだろう。手の込んだいたずらだ。


 ま、それでもよかろう。ちょうど、今日の講義でもレポートが課されたところだ。うまくパソコンをぶっ壊してくれれば、来週はぐっすり眠れるだろう。

 

 ぼくはソフトを起動してから、最近プレイしているゲーム“西方浄土オフライン”を立ち上げた。


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 西方浄土オフライン

 

 サークル「7fukujin」により制作されたインディーゲーム。


 文明が崩壊した後の地球で、はるか西にあると噂される極楽を目指して旅をする。タイトルの「オフライン」とは、あらゆる電子機器が機能しなくなった世界が舞台であるがゆえ。


 科学に代わって魔術がよみがえり、新しく捏造された神々が各地で崇拝されている。主人公は食料を集め、凶暴化した動植物や暴力的なカルトをやりすごしつつ、西方浄土の存在を信じて歩き続ける。


 正気を保った生物が非常に少ないが、たまに無邪気な子供や子犬に出会えることもあり、それが唯一の癒やし。


 しかしそれも罠である場合があり、やはり救いはない。

 

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 起動した後で気づいたが、このゲーム、別に現実のぼくがほしがるようなアイテムは何もないのだった。


 水も食料も汚染されていて、主人公は慢性的な下痢に悩まされているし、ガソリンや電池が貴重品扱いだ。このゲームをやっていると、現実の世界がましに思えてくる。


 もちろん本気で信じているわけじゃないけれど、どうせ試すならもっと別のゲームにすればよかったかなと思う。ただ、いったんゲームを閉じるのも面倒だった。


 説明書の言葉を思い出す。現実に呼び出したい事物にカーソルを合わせ、ঐクリックをすればいいのだ。


 アイテム欄を呼び出して吟味する。どれもいらない。


*灰をかぶった単三電池

*愛犬の骨

*愛犬シチュー

*切れないハサミ

*最後の新聞

*抗生物質

*血のついたハンカチ

*泥だらけの包帯

*青く光るネックレス

*酒瓶入りアルコール(100%)

*アーミーナイフ

*ペーパーバックの推理小説

*干からびたプリン


 これ以上は列挙しても無為だ。どうしよう。


 と、ここでアイテム欄の右下に目がとまった。そこには所持している通貨の量が表示されている。もちろん、硬貨や札はこの世界じゃ役に立たない。その代わりに使われているのは――


 ぼくは何の気なしにその数字にカーソルを合わせ、ঐクリックした。


 次の瞬間、ぼくはタバコの滝に打たれてゲーミングチェアから転げ落ちていた。むせ返るような香りが部屋中に充満する。


 そう、この世界の通貨はタバコなのだ。ぼくは動画を参考にして、買値の三倍で売却できてしまうアイテムの売買によって三千本ものタバコを手にしていた。

 

 これくらいあれば、一等地に家を買うことだってできる……一等地とはいえ、当然汚染済みではあるけれど。


 そのたくわえが、ঐクリックしたとたん、すべてモニターから吐きだされたのだった。


 タバコの山を死ぬ気でかきわけて這い上がり、画面を確認すると、所持タバコの量はゼロになっていた。


 これは、マジだ。


 ふつふつと、身内に興奮が湧きあがってくるのを感じる。


 しかし当面の問題は、足元に広がるタバコの後片付けだった。こんなにたくさんのタバコ、いったいどう処理したものやら。

 

 それに、これはただのタバコではなかった。裏設定として、すべてのタバコには小量の薬物が混入されており、だから「西方浄土オフライン」の世界の住人はみなタバコを求めるのだという理由を、制作サークルがブログが何かで語っていた。


 つまり、これは全部非合法なブツということになる。


「はあ」

 まったく、余計な設定をつけてくれたものだ。


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 Wizdiablogue


 入るたびに形が変わる地下迷宮で敵を倒し戦利品を集めつつ、最深部を目指すというコンセプトのゲーム。海外産だが有志による日本語訳がある。


 プレイ時間の大半は、強くなるために強くなり、アイテムを集めるためにアイテムを集め、さらなる強敵を倒すために強敵を倒すという、おなじみのウロボロス的シーケンスからなる。


 さらに農業や牧畜漁業に狩猟採集、鍛冶に大工に料理、経営や貿易や建国、恋愛に育成に放置といったあらゆるやり込み要素がてんこ盛りであるため、本当に遊びつくすにはまずプレイヤー自身が不老不死にならなければならないともっぱらの評判である。


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 ずっと同じことを繰り返しているだけではないかと気づいたとたんに興が醒め、ほこりをかぶるままにしていた二千時間のデータをひさびさに起動した。


 このゲームの通貨は金貨であったはずだから、先日のごときやっかいは起こるまい。とはいえ、三億もの金貨が飛びでてはさすがに喜ぶどころではないので、適当に預けておく。


 所持量を百ゴールドほどに減らしたところで、ঐクリック。


 期待に違わず、きらきら光る金貨が百枚、二進数の世界から飛びだしてきた。想像していたよりもずっと小さい。お子様の手の届かないところに置いておく必要がありそうだ。


 両手に積もった金貨の小山を見つめていると、少しずつ実感がにじんでくる。

 

 いったい大学で何をやっているのだろうとか、もう来年に迫る就職活動のこととか、両親の不仲とか、そういったくだらないと言えばくだらなく、しかしどうしても切り捨ててしまうことのできない悩みが、溶けていくようだった。


 生活の不安はもうない。いやな人たちに会う必要も、いやな場所に出向く必要もない。不快な緊張や経験とは無縁の安楽の日々。それが今や現実のものとなったのだ。


 さらに、金のことだけじゃない。ゲームのなかには、現実にあるものすべてと、現実にないもののすべてさえある。その両方がぼくの手のひらの上にある。


 夢見心地とは、このことだろう。


 しばらくはそんなふうに思い、これから手に入るものの素晴らしさにうっとりとしていたが、やがて叶えられた願いが、それほど思い通りのものでないことを知った。


 お腹が空いたので、多種多様な食べものが登場することに定評がある2DのアクションRPGを起動する。現実には存在しない野菜や果実、獣の肉で作られた料理やお菓子が、とてもおいしそうだと前から思っていた。


 しかしこれが、取り出してみるとさっぱり味がしない。見た目はおいしそうなのに、砂をまぶした粘土を噛んでいる気分である。


 どうも、「味」というものが設定されていないのが原因のようだった。そんなもん、どうやって表現しろというのだ。


 また、ランプの魔人と同じくらいアラビアンなアイテムとして、空飛ぶじゅうたんにも期待をかけていたが、これもだめだった。


 何をどうやっても浮かぼうとしないのだ。大気組成の違いが問題のようだった。魔法のない世界では使えないのだ。


 しかたがないので、普通のじゅうたんとして使うことにした。部屋の中で床だけが不相応にきらびやかになり、そのミスマッチさのため一日に二度くしゃみが出た。

 

 それでも諦めきれず、次は魔導書を取りだしてみた。魔法使いになる夢は、大学生にとっても魅力的なのだ。


 しかし何を書いてあるのかさっぱりわからず、しまいには頭がおかしくなり、目が覚めたときには部屋じゅうが血まみれで、左腕がなくなっていて、ひどい寒気がした。


 うろたえず、万能薬を取りだすも、これがとても飲めたものではない。飲みほすくらいなら死んだほうがましだと思えるくらいの味なのだ。


 しかし飲まないわけにはいかないので、何とか胃に押しこむ。腕が生えて、寒気もおさまった。あとに残ったのは血まみれの部屋だけだ。


 こんなひどい部屋に一人でいるのが耐えられず、動物とふれあうゲームから犬を持ちだした。犬との暮らしに憧れてはいたが、自分の世話すらおぼつかないので諦めていたのだ。


 ゲームの犬ならば、噛まないし、ふんもしないし、何といっても死なないだろう。そのはずだったのだが、翌日には冷たくなっていた。ひどい花粉症のせいだった。まるで免疫がなかったのだ。


 こうしたことを繰り返しているうち、お金以外、ろくに現実で使えるものがないことに気がついた。素晴らしいと思える品々も、元の世界にあればこそのことだった。


 邪悪に反応し滅却する焔の剣など、現実で何の役に立つだろう。世界を焼きつくしても足りないのではないか。


 しかし、お金のことで苦労しないだけでも十分だった。ぼくはそれ以上の実験をきっぱりとやめ、ときどき宝石や金貨を小量ずつ取りだしては円に替えた。


 大学に行く気はなくしていたのだが、不審がられてもまずいと思い通い続けることにした。ふしぎなことに、将来の不安がなくなると、学校はずっと楽しいものになった。


 単位を取りにくいというので敬遠していた講義でも、興味のおもむくまま、自由に聴講してみる気になった。日々のうるおいは目覚ましかった。


 そんな生活をしばらく続けていたある日、またお金が少なくなってきたので、ひさびさに例のソフトを起動した。今日はどのゲームからお金を取り出そうか……


 と、ここで急にほったらかしにしていたゲームのことを思い出した。


 ひたすら数字を増やすのが目的の、いわゆるクリックゲームなのだが、インフレが進み、もう直接介入して操作することが少なくなったので、ずっと放置していたのだ。


 お金つくりの前に、そちらのゲームを起動する。ずいぶんと増えていた。


 ふと、ここでঐクリックをしたらどうなるだろう、との考えが浮かんだ。もちろん、大変なことになるだろう。数字は超天文学的だった。こういう可能性を見越して、わざわざ右でも左でもなくঐを割り当てているのだろう。


 間違っても、間違って押してしまうことはない。


 だけど。


 魔人に望みを願うとき、世界を平和にしてほしいとか、飢餓をなくしてほしいとか、そういう考えはまったく浮かばなかった。


 半信半疑だったことは理由にならない。どうせ試すのだったら、なるべく大きな願いごとを口走ったほうがよかったはずだ。


 叶わなかったときに、ひどくがっかりするだろうと考えてのことでもない。そもそも、叶うと考えてすらなかった。


 やっぱり、単に、興味がなかったからだ。今はそこから脱出できた悩みの獄につながれて、その狭い牢の窓にはまっていたのは自分しか映らない鏡だったのだ。


 しかし、今は違う。自分以外のことを考える余裕がある。


 ここでঐクリックをすることは、自己本位な願いしか思い浮かべられなかったことへの、罪滅ぼしになるだろうか?


 ঐに手を添えて考える。


 なんて。


 ばかばかしい。


 もちろん冗談だ。他にいくらでもやりようはある。ぼくが知らないだけで、現実を理想郷に近づけるのに役に立つ、素晴らしいアイテムが存在するゲームがどこかにあるのかもしれない。


 ぼくはঐから手を離した。


 だがそのとき、あの空を飛ばないじゅうたんが目に入ってしまった。あいかわらず、部屋の他の部分と比べて、ミスマッチもはなはだしい。くしゅん。


 あ。


 

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