下
「微分って何か分かる?」
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傾き?
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「じゃあ傾きって何?」
教科書の開いていたページに指を挟んで閉じる。
傾きを自分の言葉で説明させる。
『いじわる』
「この程度でいじわるって言わないで授業ちゃんと聞いて」
ただでさえ質問とかしにくい体質なんだから教科書の読み込みくらいやろう。
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――――。
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虚数とか三角関数が
将来必要だと
思いますか?
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「正直そこまで必要ないとは思うけど、何か難しい部分合った? 高校範囲だとひっかけは合っても理解に苦しむようなのないはずだけど」
『やっぱり』『いじわる』
俺は今、すみれちゃんの家庭教師をしている。
勉強が将来役に立つか? 現在進行形で役立ってるかな。
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――――。
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幸助さんは
微分が何か
答えられますか?
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「書いてある通りだよ。極小単位当たりの変化量。日常生活だと速度くらいしか使わないかな。天気予報は微積を応用して計算してるらしいよ」
言葉だけでイメージを掴むのは確かに至難の業だったかも。人に教える訓練とか積んでないのにいきなり教師役をやらされることになろうとは思いもしなかった。
式よりグラフの方が分かりやすい。教科書を開いて微分が乗っている場所を探す。どうせあるでしょ。
「教科書って別に分かりづらく書いてる訳じゃないからね。俺一回自分で教科書作るならどうするだろうって考えた時に結局教科書と同じ順番で説明するって結論になったことある」
分かってる人に分かりやすい説明は存在しても分からない人に分かりやすい説明が存在するとは限らない、ってことを学べたいい機会だった。高校時代は反復嫌いだったから授業の空き時間は暇人。当時は遅い人にペース合わせる必要はないというのが持論だったけど、今思えば百パーセントの力で一時間近くも集中が持つ訳ないんだからそういうペース配分だったのかもしれない。
「適当に曲線書いてみて。おおう、一、二、……四次関数か。まぁ式にする訳じゃないからなんだっていいんだけど。その式の、この辺にしようかな。この点における微分を出してみよう」
『式』?
すみれちゃんが書いた曲線にx軸とy軸を足す。これであとはdy/dxを出すだけ。dの意味をしっかり理解させないと。
あとそれ入学式とかの『式』だよね。ボケなのか共通なのか。今は脱線させる訳にはいかないから後で調べとこ。
いやでも、なんか理系の手話全然なかったんだけどどれ参考にすれば良いんだ?
共有しないといけないから一緒に探した方が良いよな。
「全ての曲線は方程式で表すことができる。もちろん正確に表そうとするととんでもなく複雑な式になるよ。でもま、高校生の内はxの大きさに対してyが一つしかないから簡単簡単。等号記号の偉大さに感謝しよう」
正直プロでもないのに家庭教師を引き受けたのは、手話がそれなりにできることが大きい。
普通の家庭教師に手話スキルは求められないし、なまじ意思疎通ができてしまうだけにいろいろ難しいらしい。あとは俺とすみれちゃんを応援する意図を込めて白羽の矢を中てた。
「良かったら家庭教師お願いできない?」「いや、そういうのって同性に頼むものじゃ?」「日当は一万でいい?」「そういう話じゃなくて」「すみれともみじで二万円ね」「やります」
ダイジェストで語るとこんな感じ。
思いっきり買収されてる。
なんかすみれちゃんのお母さんは作家らしく、俺に読書の習慣がないから知らなかったがそこそこ売れてる人らしい。
ネタにされてる可能性が無きにしも非ず。むしろそれ込でこの金額と思わなくもないけど、まさか実の娘をネタになんかしませんよね?
怖くて聞けなかった。
勉強がひと段落着くと、すみれちゃんがスケッチブックを取り出した。
すでに文字を書いていたらしく、ページを開くだけ。
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明日
デートなど
いかがでしょう?
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「その積極性は間違いなく強さだと思うよ」
そして優柔不断は弱さだ。
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駅前のモールで
一緒に買い物とか
したいです。
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俺の指摘にもめげず、スケッチブックのページをめくってあらかじめ書いていた内容を見せてきた。
……。
現実逃避はこのくらいにして、いい加減答えを出さなきゃいけない。
この娘に愛想尽かされたらトラウマレベルの傷を負うことはもう間違いないんだから。
『やっぱり』『難しい』?
「いや、そんなことないよ。明日日曜日だし予定も特に入ってないから大丈夫。何か目的のものあるの?」
トントン
すみれちゃんの人差し指がスケッチブックの背を二度叩く。
「あぁ。スケッチブック? そういえば屋内はホワイトボードで屋外がスケッチブックだと思ってたけど違うの?」
今すみれちゃんの部屋で勉強してるけど、スケッチブックとホワイトボードの二つを併用してる。
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――――。
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ホワイトボードの方が簡単
スケッチブックの方が好き
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「あぁ、なんかこだわりあるのね」
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たまに
見かえしたり
してまいす。
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「大切なものなんだ」
こくこくっ
日記みたいなものかな。
会話を積み重ねた証。当たり前に言葉を交わす俺にはきっと一生分からない感覚。
「明日、楽しみにしてるよ」
例え一生分からないとしても、分からろうとしないのは不誠実だ。
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今日は
よろしくお願いします
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薄緑のTシャツに白黒チェックのスカート、そして初めて会った時も来てたすみれの刺繍入りのピンク色した上着。
薄く化粧もしているようだし、なんというか素直に嬉しい。もういつ好きが溢れてもおかしくないくらい。たかが外れるまで秒読みな気がしてる。
「こちらこそよろしく」
俺は今日ついに四割側を卒業し、デートしたことある二十代男性グループに所属した。
集合記号を用いて表して貰って構わない。
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集合
嫌いです
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すみれちゃんの笑顔が曇る。
正直休みの日に勉強の話はしたくないよね。その気持ちは分かる。
「集合ないと”1+1=2”を証明できないらしいぞ」
数学科の友人が言ってた。
定義よりの一言で証明完了じゃね? って返したらその定義にノート一冊かかると言われた。
逆に馬鹿の集団なんじゃと疑ったわ。
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数学って
学ぶと
頭おかしくなるんですか?
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「数学科の上位層はなんか逆に誇りすら感じた。まぁ俺らと同意見のやつも普通にいたよ」
文房具屋さんで目的のスケッチブックを束で購入。
買う店も買う物も決まっていたから迷いようがなくすんなりと目的達成。
でも話題のチョイスを決定的に間違えた気がする。経験値が足りない。
「目的は果たせたわけだし、何か小物とか見てみる? それとも宛もなく彷徨ってみる?」
帰るって言われたら泣く。
んで数学とは縁を切るよ。
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ブラブラしましょう
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「賛成。目についた店あったら教えて」
ショッピングモールはここしか知らないから規模がどれだけのものか知らないが、全体は四階の建物。
お店の数も数える気にならないほどある。なんで同じジャンルの店が複数あるんだって思うのは俺が初心者だからかな。
「そういやなんでここで買ってるの? もっと買いやすいとこあったんじゃ?」
スケッチブックなんてわざわざモールに来なくても手に入る。
それこそネット通販とかでもいい。
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たまには外出ようって
もみじに言われたのが
はじまり
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……。
闇案件かな。
薄々感じてはいたけどもみじちゃんってかなりお姉ちゃんっ娘だよね。
後天的に声を失う。
その重みの一端を感じた気がした。
「ちなみに前来た時はいつ?」
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2か月前です。
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「二ヶ月前ってことは……初夏? 梅雨? 流石にもうラインナップ変わってるよね」
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その前のスケッチブックを
埋めるのに
半年もかかりました
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真剣な目つき。でも、悲観的な訳じゃない。
俺とすみれちゃんが出会ってまだ二週間くらい。
でも、それだけ言葉を交わしてきたんだと実感できた。
「なんか、前スケッチブックの方がホワイトボードより好きっての分かった気がする」
俺と出会ってから、毎日一緒にらんちゃんの散歩に出かけ、その度に文字が書かれたページが増えていった。
白紙のページが埋まっていった。
断言しよう、大半は俺だ。
「ん、でも家の中だとホワイトボードや手話使うこと多いよね」
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家族の会話で埋めるのは
卑怯かと
思いまして。
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コミュニケーションを諦めてない。
声と言うツールがなくとも人と人が繋がれる証明。
すみれちゃんが妙に積極的だった理由はこれか。
と不意に視線をどこかに飛ばし、スケッチブックを閉じた。
そしてこっちを見て手を動かす。
『ちょっと』『待つ』『ここ』『お願い』
「ん、どうしたの?」
すみれちゃんは俺の言葉が耳に入らなかったのか、そのままとある店先に駆け寄り、落ちてる何かを拾った。
それを一瞬確認し、商品棚に掛ける。値札かポップが何かの拍子に落ちてしまったのを見つけたようだ。
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――――。
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おまたせ
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周りに目がいってなかった。
入るお店を探していたはずなのに、すみれちゃんから視線を外せなかった。
これあんまり悟られたくないな。
「偉いよね。普通落ちてても気づかないか、気づいてもスルーするんじゃない?」
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――――。
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幸助さんは
ちゃんと
私を助けてくれました
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過大評価しすぎ。
出会った時のことなんだろうけど、俺は最初、人任せにすることを選択したというのに……。
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――、! 、――。
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それに
私のこれは
半分自■ぎゃくなんです
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「ん、どういうこと?」
俺も自虐の”虐”書けねぇ。
じゃなくて、てっきり謙遜だと思ったけどどうやら違うらしい。俺と一緒にいる時はあんまり自虐的な雰囲気はなかったんだけどな。
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たぶんこういうことに
気づける人はほんの一部で、
固定されてると思います。
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まぁ分かる。
一部の気づける人はいつだろうと気づくし、気づいたらやる。
気づけない大勢の人は、気づいたとしてもやらない。
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つまり、別の出来事の場合、
私はきっとそれに気づけずに
生活しているはずです。
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自分も気づけない大多数の、”やらない側の人間”であるはずだ。
今回はたまたま違っただけ。
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何より、声を失うまで
私はこういうこと
気づかない側だったんです。
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――――。
すみれちゃんが言葉をどんどん書いていくけど、正直そのペースは遅い。
普段は気にしないように頑張っているけど、こうやって一文で表現できないことは書いてる間がもどかしい。
でも、それが良かったのかもしれない。
すみれちゃんが言いたいこと、その真意を考える時間が充分あった。
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今も、気づけたところで
解決に声が必要なら
私はそれを”しません”。
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ついさっき、善行と呼ばれるような行為をした人間にしては苦すぎる表情。
暗くうつむいた彼女にどう声をかけて良いか迷いながら、彼女の言いたいことを咀嚼していく。
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――――。
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私には
できないことが
多すぎます。
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誰だ、彼女のことを弱いと評価した馬鹿は。
ああ俺だ。
声が出せないことは弱さ?
自分にできないことがたくさんあることを知りながら、それでもせめてできることはと手を伸ばす彼女のどこが弱いって言うんだ。
右手ですみれちゃんの頭にふれる。
俯いた彼女が顔を上げた。このまま曇らせたくはない。
俺の中のストッパーはたった今意味を失った。
つまりまぁ、感情が暴走することは自然なことだ。
自覚できていようがブレーキが壊れたんじゃ仕方ない。
「!?」
そのまますみれちゃんを抱きしめた。
これで俺は衆人環視の中女の子を抱きしめる馬鹿野郎の仲間入り。
最後に残った良心で人の流れの邪魔にならない場所に移動。道の真ん中歩いてたわけじゃないし、そもそもスケッチブックで会話してたくらいなんだから精々一、二歩移動するだけ。
「じゃあさ、その時は俺がなんとかするよ」
自分がヒーローじゃないと思ってた。
俺の前にヒロインは現れないと思ってた。
ヒロインがいたとしても、俺を選んだりしないと思ってた。
俺に、ヒーローになる理由なんてないと思ってた。
「二人ならできることも増えるし、気づく範囲も広がる」
俺は一度、すみれちゃんのヒーローになれた。
二回目もなれるかどうか分からないけど、ヒーローでいたい理由ができてしまった。
腕の中の、弱くて強い彼女の期待に応えたい。
小さくて大きな意志に沿いたい。
「ところでさ、この距離なら文字も手話も見えないから、意思を示す手段として突き飛ばすか受け入れるかしてくれるとありがたいんだけど」
すみれちゃんは俺に抱きしめられたまま、器用にスケッチブックをカバンにしまって俺を抱きしめ返した。
俺にかかる体重が少し増え、小さな手が背中に回るのを感じた。まぁ突き飛ばされる心配なんて一パーセントくらいしかしてなかったよ。
「すみれちゃん。好きだ」
少し力を込める。
すみれちゃんが胸のあたりに顔を押し付けてきた。
頭を撫でて背中をポンポン。
ポンポン。
俺の背中にも同じ動作が返って来た。
ちょっと嬉しいな。
トントン
トントン
ぎゅー
ぎゅー
静かにお互いの愛情を確認していく。
ずっとこうしていたい。
俺達は幸せを感じながら、たぶん十分以上の間抱き合っていた。
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――――。
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こんな高価なもの
本当に
良いんでしょうか?
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「値段は気にしなくていいよ。すみれちゃん達の家庭教師代で簡単に回収できる。それより気にしないといけないことがあるんじゃない?」
断られたら冗談にするつもりだった。
テンション上がってまだ暴走中であることなんて重々承知。
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?
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それで一ページ使うのは流石にもったいなくない?
でもこのページ開いて首をかしげるすみれちゃんが可愛い所為で何も言えない。
俺も甘くなった。……元からか?
お互いの気持ちを確かめ合い、目についた店で記念品を買った。
正直重過ぎると自分でも退いたけど、特に何も感じていない様子。
いや、嬉しさは伝わってくるよ。
――――♪
――――♪
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アイオライト
色が
変わって綺麗ですね。
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入った店はなんと宝石店。
臨時収入があって調子に乗った俺が選んだ店だ。
「すみれ色の宝石が都合よく見つかる幸運に感謝だね」
宝石名アイオライト。
和名は菫青石。どちらもすみれ色をしていることが名前の由来だ。
光を入れる角度によって色が変わる性質を持つ宝石らしい。
すみれちゃんは左手薬指の指輪を見ながら俺に感謝を述べる。
いや、一番手前にあったのが指輪で、これで良い? って俺から訊いたのが始まりだった。断られたらネックレスやブレスレッドに変えるつもりのフリ。
でもあれよあれよと言う間に指のサイズの測定が終わり、在庫があったから試着し、普通に気に入って気づいたら購入した後だった。
すみれちゃんは終始顔真っ赤だったから意味を知らないはあり得ない。
そもすぐ横のポップに、各指にとめる意味、みたいなまとめがあった。左手薬指は一番大きく紹介されていたよ。
うん、買った時点でもう覚悟は決めた。
俺の方の親への紹介とか将来の生活基盤だとか考えなきゃいけないことは山ほどあるけど一端無視。
どうせ俺にはもうすみれちゃんを選ばない未来はない。
それに、主人公とヒロインは永遠の愛を誓うものだ。
これから幾万の困難があるのか、それとも人並な幸せがあるのか、分からないけど全部抱えて生きていく。