弟がチャーハンをつくっていた
弟がチャーハンをつくっていた。
現在、わが国ではコロナウイルス感染症(COVID-19)により、日常生活が変容している。日常的にマスクをつけ、建物に入る際は必ずアルコールで消毒し、人の集まりを避け、様々なイベントは中止の憂き目にあっている。そのくせ卒業式というものは開催するらしく、また高い高い移動費を支払わなければならないのかと憂鬱になっている春休みの昼のことである。
冒頭文は私の卒業論文の冒頭そのままであり、大学がオンライン講義になったせいで、良くも悪くも「春休み」という気分がまるでなく、あえて言うなら、一年中春休みな気分であった。講義の課題があるから、宿題がある。という意味では夏休みかもしれない。
この一年、昼に起きることが常習化していて、このまま社会に出て大丈夫なのだろうか。いや、そもそも就職活動失敗して、次年度の就活スタートダッシュが始まる中、就職先がまだ見つかっていない私は、社会に出ること自体できるのだろうか。という憂いを感じながら、今日も今日とて小説の企画書なり、原稿なりを書かなければならなかったので、家の近くにあるミスタードーナツに向かおうと着替えて家の一階に降りた。自分の部屋にいるとうっかりゲームをしてしまうためである。あるいは、日すがら同じ部屋にいるから気分転換の意味合いもある。
ともかく、私は階段を降りて居間に出た。弟がパソコンでYouTubeを見ながらなにかを食べていた。昼食でインスタント麺でも食べているのだろうかと思った私は、弟になにを食べているのかと尋ねた。
「チャーハン」
弟はさらりと答えた。なんだ、母が昼食を用意していてくれたのか。と思い、母がいつも寝転んでいるテレビの前に視線をうつした。母の姿はなかった。今日は仕事にでているようだった。
じゃあそれは冷凍チャーハンなのか?
私は弟に尋ねた。弟は答えた。
「自分でつくったに決まってるじゃん」
つくった。
弟が、自分でチャーハンを?
眠気が一気に吹き飛んだ。目をぱちぱちと瞬かせてから、弟のパソコンの横に焼かれたハムがあることに気がついた。私の視線に気がついた弟は「ああ」と声をあげる。
「最初はハムを焼いて食べようと思ったんだけど、せっかくだからチャーハンをつくった。余ってるから食べてもいいよ」
せっかくだからチャーハンをつくった?
自分にはない感情であった。私はハムを焼こうという感情すらわかない人間である。別に生で食べても腹は壊さないし、あったらパックから引きずりだしてモリモリ食べるだけである。
弟がつくったチャーハンをよそう。パラパラとした、美味しそうなチャーハンだった。食べながら私は思った。
弟が成長している。
前兆はあった。弟はMSSPというゲーム実況集団が好きで、そのメンバーのひとりが出した料理本を買い、せっかくだからとたまに料理をつくろうとしていた。当時はシャウエッセンがなにかしらの食品の名前だと勘違いしていたりと、私となにも変わらない料理ヌーブであり、失敗した料理を笑いながら食べていた。
そんな弟がだ。いつのまにか普通に料理ができている。なんなら「料理本に載っていたから」とか「誰かに食べさせたいから」やら「ホワイトデーのお返しで」とかの理由もなく、昼食に、気が向いたから、冷蔵庫の中にあるありあわせのもので、なんとなく、チャーハンをつくったのである。
正直言って、私は弟に危機感を覚えた。なにかしら成長している覚えも感情もなく、日が上り降りていくのをただ眺めながらツイッターをしている最中に、弟は成長していたのである。弟は成長しているのに、私はこのままである。なにも変わらない。APEXのランクがプラチナ2になり喜んでいた昨日の私が非常にバカみたいだった。
なにかしらをしなければならない。
私も、社会的に、人間的に生きるのに必要な部分を成長させなければならない。このままではただの愚図になってしまう。
そう思った私は、弟にチャーハンをつくってくれたお礼とオーイシマサヨシがチャーハンをつくる動画を紹介して、ミスタードーナツに向かった。
そして今にいたる。
私はこれから「料理」というものに挑戦することにする。
もちろん、現実ではない。小説の文章ーーあるいは、エッセイの文章の中で、「虚構」で料理を行うのである。私は現実で生きるのが下手くそであることは自覚的なので、現実で頑張ろうとしたところで失敗するか、挫折するかのいずれかであることはやる前から分かっていることだ。
だからこそ「虚構」である。私は文章を書くこと自体は商業で小説を書いているという事実から、まあ、上手いほうなのではないか。という自負がある。というか上手くあってほしい。これがダメなら私に一体なにが残るというのだろう。全てのものを中途半端に投げ捨ててきた私に。
文章を書くのが上手い方。ならば、文章の中で描く料理は美味い方に転がってくれるのではないか。なんていう思惑だ。この時点で失敗しそうな臭いがぷんぷんとする。まあ、いいだろう。どうせ虚構だ。現実で失敗すれば食品を無駄にするなと怒られてしまうかもしれないが、虚構ならばデータを削除すればそこにあるのは無である。誰の迷惑にもならない。
それでは、始めることにしよう。
***
まずは現実の解像度をさらにさげることにする。一人称も「私」ではなく「僕」にする。なぜなら僕の書く小説の主人公は、だいたい一人称が僕だからだ。
僕にする理由はいくつかあるけれども、たとえば「神聖かまってちゃんの曲の一人称がだいたい『僕』だから」とか「西尾維新の小説の主人公の一人称はだいたい『僕』だから」とか、そんなのばかりだ。深い理由なんて特にない。
あと、文字の形が小説っぽい気がする。もある。俺ではなんか違うんだよな。なんか。ともかく、僕である。
僕はキッチンの前に立っている。これから料理を始めようと思いたったのだけれども、問題がひとつあった。
「料理って、なにがあったっけ?」
料理というものを家庭実習のときしかやった覚えがなかった。だからレパートリーなんてものはもちろんないし、料理をしようと思いいたったところで、なにをつくればいいのかさっぱり分からなかった。そういえば、今まで書いてきた小説内でも料理の描写は避けてきた気がする。書いたのは『魔女の花嫁』のハイチ料理ぐらいか? あれもゾンビが既につくったのを持ってきた形だったから、料理の描写はしてなかったな。
とりあえず食べたいなと思った食べ物を頭に思い浮かべる。
ラーメン、たこわさ、きゅうり、フルーツグラノーラ、ハンバーガー、ポテト、うどん、柿の種。ビールを飲めば完璧だ。
なんということだ。料理というのは、まず料理を思い浮かべれないと始められないではないか。
その点、弟は成長している。卵とご飯とハムがあるのを見て、「これならチャーハンがつくれるな」と料理を思いついたのだから。
たいして僕は卵とご飯とハムがあるのを見ても、あって「卵かけご飯でも食べるか」ぐらいだろう。誰かが卵かけご飯を食べていないと、それすら思いつかずに、ハムをつまんで食べるか、もはやなにも食べずに自分の部屋に戻るかもしれない。
僕は極論、一日一食夕飯さえ食べれば生きていける人間なので、食べない。という選択肢も普通に発生してしまう。
一人暮らしをしたら1週間ぐらいなにも食べずに餓死してるんじゃあないかと不安になるから、一人暮らししないでほしい。と親に言われたぐらい、僕は食にたいして興味が薄いらしい。そのわりにはビールとラーメンは飲みたいし食べたいので、食欲の目のついている位置がアル中寄りなのだろう。酷い息子だ。
料理の名称がぱっと思いつかない。という、料理以前の問題にたどりついた僕であったが、解決策はある。インターネットで「料理」と検索すればいいのだ。インターネット最高。ない時代で生きるなんて考えられない。異世界転生なんてしたくない。
実は最初は「ズボラ飯」と検索をかけた。そういうものがこの世にはあるらしい。ということを思いだしたからだったんだけれども、検索結果に出たのは無駄に手順の増えた卵かけご飯みたいなやつばかりで、ズボラとは一体なんなのだろうかと思いながらボツにした。
Googleで単純に「料理」と検索をかけると、味の素のレシピサイトに辿り着いた。そういえば、味の素のサイトは信用できる料理サイトだとツイッターで聞いたことがある。
クックパッドは初心者が見るな。まずは企業の公式サイトだ。というおふれのもと、味の素サイトで料理を探す。ところで味の素って塩とか砂糖とか、そういう類のものであってる?
味の素サイトには10分料理のメニューがあった。神さまみたいなサイトだなと思いながら、僕はその10分料理とやらをつくってみることにした。
用意するのは豚バラ肉と野菜パックとしめじだけ。なんて簡単なんだ。もはやこれが料理と言えるのか不安になってくるレベルだ。
まずは豚バラ肉を用意する。ところで、豚バラ肉のバラ。とは一体どういう意味なのだろう。鹿肉をモミジということは知っているが、バラもそういうやつなのだろうか。それとも普通にバラバラの肉だから豚バラなのだろうか。
でも、パックにある肉はだいたいバラバラだから、わざわざ「バラバラになった豚の肉です!」と表記する必要があるのだろうか。謎である。余談だが、僕は最近まで牛肉と豚肉の見分けがつかなかった。今は分厚い方が牛肉だと分かる。味の違いはよく分からない。あとキャベツとレタスの違いも分からない。
しめじを用意しろ。と言われたが、しめじがどんなキノコであったが思い出せない。自分の中にあるキノコのイメージはテンプレートな傘と棒があるキノコか、あるいは味噌汁によく入っている白いやつしかない。名前は分からない。僕の知っているキノコの名前はえりんぎまいたけぶなしめじだけだ。
でも問題はない。僕は現物を用意しているわけではない。虚構の中で料理に挑戦しているのだ。
「しめじを用意した」と書けば、そこにあるのはしめじであり、読者もそれを疑わない。漫画ならば見た目の問題は存在するが、小説にはそんなものはない。僕が「しめじ」と言えば、読者の頭の中にしめじが発生する。小説とは、読者の脳を虚構で侵蝕する媒体なのである。
ということで僕は豚バラ肉としめじを用意する。
豚バラは一口大にカットする。僕は包丁を構えて、肉を切る。
実は、包丁にも右利き用左利き用というのがある。
僕は左利きだが家にある包丁は右利き用ばかりなので、扱いづらい。例えば酒のつまみに刺身を食べようと魚のブロックを買ったときとか、切ろうとしてもうまく切れなくて、よく弟とバトンタッチしている。右利きの人は試しに左利きようの包丁で切ってみてほしい。意外と難しいから。左利き用のハサミでビニール袋を切るでも良い。全然切れないから。料理はできないけど左利き不便エピソードは欠かさない。
僕が構えた包丁はもちろん左利き用である。
包丁の切先を皮膚に当てる。なぞるように包丁を動かす。
つぷ、と。皮膚は切れて、漏れた血が切り口の上で豆みたいに膨らむ。僕はそれを潰すように包丁をより深くに差し挿れる。ずぐ、ずぐ。と肉に埋まる感触が手のひらに伝わる。いくつかの肉を切断した包丁は、脂の光沢でぬらぬらとてかっていた。
しめじは小房に分ける。と書いてある。どうやらしめじは分けることができるらしい。裂けるチーズみたいなものなのだろうか。
僕はしめじをびぃっと裂く。白い筋が切れ目の間で必死にもがき、ぷつぷつと切れていく。裂いたしめじを皿の上に置いて眺めてみると、なんだかささみみたいだった。
ささみは居酒屋バイトでよく見かけたので覚えている。もっとも、見た目を知っているだけで、なんの肉で、どこの部位なのかは知らない。
一口大に切った肉としめじをフライパンに入れる。火をつけると、じゅう。と音がして、フライパンの上にある肉が色を変え始める。肉からあふれた脂がぱちぱちと音をたて、居酒屋でなんども嗅いだ香ばしい匂いが立ち込めてきた。
ここで僕は野菜をいれることを忘れていたことに気がつく。まあ、野菜は生でも食べられるし、別にあとから入れても大丈夫だろう。パックの野菜を切って、フライパンに投下。野菜の水分を得たフライパンはさらに大きな音をたてて、しめじと肉を焼く。
野菜がしなびれてきたあたりで、僕は火を消す。できあがったそれを、皿にもりつける。野菜は肉の汁を吸って少し茶色になっていた。うん、それっぽい。
僕は手を合わせてから、野菜炒めを口に運ぶ。しなびた野菜と肉が口の中に放り込まれる。当然のことだが野菜と肉の味がした。よかった。ちゃんとできていたようだ。僕は野菜炒めをつくることができた。
「多分、間違っているんだろうな」
出来上がった野菜炒めを食べながら僕は思う。
合っているのだろうか。と疑問に思っているところはすべからく間違っているだろうし、特に疑問に思っていない部分も間違っているのだろう。
料理経験者からすれば、なんて適当なのだ。と憤慨する出来になっているかもしれない。きっと、この疑問を覚えるパートに辿り着く前に去ってしまっているだろう。
でも僕の目の前には完成した野菜炒めがある。味付けもちゃんとしている、美味しい野菜炒めだ。
終わり良ければ全て良し。
この言葉は現実では往々にして、「終わりが良いということは、途中の頑張りも良かった」という現実に晒されるわけだが、虚構においては、「途中がいかにどうだとしても、終わりが『良かった』と宣言すれば、良かったものとされる」という意味に変わる。
現実では「出来上がったということは工程は合っていた」という意味で、虚構では「出来上がったのならば、工程が間違っていても構わない」という意味になる。
虚構なら、ハッピーエンドだと言えば、それはハッピーエンドであり、「かけっこで一位になった」と言えば、一位になれるのだ。
お尻をだした子一等賞なんか目ではない。「先に言いだした子一等賞」である。そういう風に、脳が侵食される。疑ってはいけない。疑ってはならない。でないと、物語を純粋に楽しむことができない。
もちろん、叙述トリックなど、「読者を騙す系」のミステリなどの例外は存在するが、読者を騙す系のミステリの一番の楽しみ方は「騙される」ことで、そういう意味では、疑うべきではない。
僕よ、疑ってはならない。
間違ってなんかいないのだ。
きみが頭の中で思い描いたように、ちゃんと野菜炒めをつくることができた。僕よ、きみはこれで少しは成長できたはずだ。僕よ、変わらない毎日とこれでおさらばだ。
「でも、この野菜炒めは本当に美味しいのだろうか」
僕の疑問の声は止まらなかった。
僕は食べ物にたいして無頓着で、なんなら美味しいか美味しくないかの記憶すらあやふやであることを思いだした。
確かに僕はラーメンが好きで、好きな店も存在する。しかし、じゃあ、そのラーメンはどんな味なのか。という話をしようとすると、まったく思いだせないのである。
食べた。という満足感は覚えている。私はラーメンを食べたのだ。という情報。満足感。それだけを得るために、僕はラーメンを食べているのかもしれない。
いまこのエッセイ(あるいは小説)を書いているときも、ドーナッツとコーヒーがある。食べている。食べているものの、ではこのドーナッツがどんな味ですか。どんな感じで、なぜよく食べているのですか。という質問をされると、答えに窮する。
味覚障害を持っているとかではなく、普通に、改まって質問されると、分からないだけだ。でも、それでも特に問題はない。
僕はドーナッツを食べている。
僕はコーヒーを飲んでいる。
それだけでいい。それだけで脳は侵食される。読者の頭の中にある「ドーナッツ」と「コーヒー」の情報がそれを補完する。虚構の侵食は、読者の脳にある情報で補完され強化されるのである。僕らは情報を食べている。僕らは情報で食べている。
「ラーメンハゲみたいなことを言いだすな」
僕は笑いながら言う。僕はネットミームとしてのラーメンハゲしか知らない。
あのラーメンハゲのセリフがネットミームになるということは、だいたいの人も同じ考えなのかもしれない。と僕は考える。
『美味しいと言われるから美味しいのであって、自分自身、よく分かっていない』
あんまりだなあ。と思うものの、だからこそ、虚構の情報に皆喜ぶことができるし、悲しむこともできるのではないか。情報を食べる。情報に侵食される。だからこそ、私たちは虚構を楽しむことができているのではないか。
「いや」「でも」
僕はドーナッツの最後の一口を口に放り投げてから言う。
「僕はこうしてドーナッツを食べている。食べているから、虚構の情報を理解できるわけで、僕の体にはちゃんと『美味しいドーナッツ』の情報があるんだ。だからこそ、虚構の美味しいドーナッツを理解することができる」
どうだろうか。知らない情報を味わうことができるのも虚構にとって大事なことではないか。僕らは『死』を知らない。しかしそれでも、虚構で『死』を味わうことができる。知らない情報を味わっている。『食』もそうなのではないか?
「そうかもしれない。でも、僕は知らないままでいるよりも、知っている方がより良い虚構を味わう。あるいは、作成することができることも知っている。だからこそ、情報を味わっている。というのは間違いないよ。僕らは『美味しい』という情報を摂取して、自分の頭の中にある情報と照らし合わせているんだ。情報に侵食されているのではなく、情報を照合する作業なんだよ。多分。虚構を味わうのは」
あるいは食べ物を食べるということは。
虚構がそうであるように、現実もそうなのだろう。
僕は目の前にある野菜炒めを見る。美味しそうな野菜炒めはそこにはなく、皮のついた謎のバラバラの肉と、縦に裂かれたキノコが、野菜とともに焼かれたものがあった。臭いを嗅ぐと普通にこげていた。多分不味いだろうな。と思いながら口にする。
「まっず」
僕は自分でつくった焦げついたよく分からないものを食べながら、苦笑した。
現実で野菜炒めをつくれない僕は、虚構の中ですら、つくれていなかった。
とりあえず腹を満たすためにドーナッツを頬張る。家に帰ったら夕飯が用意されているだろう。
一人暮らしになったらどうしようか。まあ、カップヌードルでも食べながらいつか気が向いたら料理というものを初めてみればいいだろう。料理ができなくても世界は動き続ける。だからいつか、ちゃんと料理がつくろうと思う日が向こうからやってくるかもしれない。来たらいいなあ。