レポートシリーズ その2 大震災7年前のドライブ
大震災の7年前、三陸などをドライブした報告です。
自然のこわさを、まだ、あまく見ています。
2004年3月13日(土)11時過ぎ、仙台空港着。トヨタレンタリースのカウンターで、「予約していたものだが」と言って、送迎車で営業所へ。
予約段階では、「新型プリウスは空いていない」ということだったが、当日、私のために用意してくれてあったのは、「新型プリウス」だった。宮城ナンバー・800の白い車。
初めての車なので、エンジンのかけ方、チェンジの仕方、サイドブレーキのかけ方、はずし方、カーナビの広域、詳細の切り替え方など、基本的なことを教えてもらう。横にいた家内は、「あんた、ほんとうに、この車、運転できるん? 何かあっても、私は、絶対運転せんからね」と念をおされる。
「大丈夫、大丈夫」と言いながらスタート。高速に乗らず、海ぎわを通って松島あたりを目指す。いきなり、カーナビには載っていない、水田の中の小さな道に迷い込む。(今にして思えば、この水田あたり、大津波の時は、完全に潮水をかぶった所だろう。なにしろ、仙台空港まで使えなくなったのだから) 道路標識や看板などに助けられて、松島を展望するのによさそうな高台により、瑞巌寺前を通り、石巻へ。
新松島から石巻までは、高速を利用した。高速道路でも、さすが、プリウスは静かだ。
それからは、もう、高速なしで、北上川沿いに津山へ。右折して、志津川へ。あとは、三陸海岸をひたすらに走る。リアス式海岸で、コースに左右、上下の変化があるから、似たような景色が続いても、決して退屈することはない。幸い、お天気もいい。
気仙沼を通る時には、「ここが、気仙沼ちゃんの故郷なんやねえ。こんな交通不便な所から、欽チャンの番組に出るために、毎週、東京まで通っていたなんて、すごく大変やったやろうねえ」「あのころは、ふっくらして、とてもカワイかったけれど、今はもう、いいおばさんになっとるやろうねえ」そういう会話もした。
陸前高田では、「ここは千昌夫の故郷だよ。あの男の歌の中に、この陸前高田という地名が出て来るよ、たしか」という話もした。(ここでは、被災前の、松林も見た。奇跡の一本松が生き残ったと言われていたが、それも最後は、枯れてしまった)
碁石海岸を見るため、ちょっと、国道から離れて、、また国道に戻ったあたりには、「「新沼謙治の故郷・大船渡」という看板も立っていた。「かもめの玉子」というお菓子の看板も、多く、目についた。ほんとうのカモメも、入り江の上空には、たくさん飛んでいた。「新沼謙治は、ほんとうは、カモメが好きなんやないかねえ。東京では。カモメは飼えないから、ハトを飼ってがまんしてるんやないかねえ」と家内が言った。
釜石の手前に、巨大な、白い観音像がある。家内は、高校の修学旅行で、大船で待ち合わせ停車をしている時、夜空にそびえる白い巨像を窓から見て、それ以来、トラウマ的に、白い巨像をいやがる。「ああ気味が悪い」と言いながら、そばを通り抜けた。
釜石で、17時30分になった。宮古の宿に、予約の時、「早ければ5時、遅くとも5時半には着きます」と言ってあったので、携帯から、「今、まだ、釜石にいます。到着が遅くなります」と、断りの電話を入れた。
明るいうちに着いて、浄土が浜が夕日に染まるところを見たい、と思っていたが、作戦が狂った。浄土が浜パークホテルに着いたのは、19時だった。九州より、ここは、日没が1時間は早い。もう、真っ暗だった。
部屋食ができるというので、早速、食事にしてもらい、風呂は後からにした。
2、3品、私の好みからすれば、ちょっと味が濃いなあ、と思うのもあったが、この土地では、、こんな味が
好まれるのだろう、と納得はできた。ボリュームも十分だった。ルームサービスの女性も、清潔感のある若い人だった。
大浴場の外に海水の露天風呂があると聞いて、外気温は0度か、1度かという寒さだったが、浸かってみた。老人性の皮膚のカユミには、なんとなくいいような気がした。
日の出は5時45分と聞いて、3月14日(日)の朝は5時から起きて、窓から、うっすら白んで行く空を見ながら、着替えをした。日の出は、浄土が浜の、ほんとうの浜べで見たいと思って、散歩に出かけた。駐車場から、近道という案内板の指示する方へ階段を下りて行く。(ホテルが高い所にあるということです。おかげで、このホテルは、大津波に被災しませんでした。それどころか、救援、復興のためのボランティアなどの、基地として、大活躍します。ニュース映像で、このホテルが出るたびに、「あっ、これは、オレたちが泊まった所だ」と、なんども言い合ったものです)
そこここに、雪がかなり残っている。九州の人間から見れば、ちょっと驚くほどの雪の量である。(7年後の3月11日も、かなり寒かったと聞いています)
野鳥の鳴き声もしきりに聞こえる。雀より、ちょっと大きいかな、小さいかな、という、いろんな模様、色の鳥が、目の前に、はっきり姿を見せることもある。
谷に降りて、道を浜べの方にたどる。カレンダーの写真を見て、一度は行って見たいと思っていた浄土が浜だ。島が思っていたよりは、近い、大きい。迫力十分だ。もっと、白っぽいかと思っていたが、逆光線のせいか、いがいと黒っぽい。角度を変えながら、何枚も写真を撮る。大きなカメラを持った、プロかな、と思われるカメラマンも二人いた。島影から昇る朝日をねらっているような位置どりをしているが、あいにくと、水平線のちかくには、黒い、厚い雲がある。その雲の上に朝日が顔を出したが、多分、あれでは、ねらい通りの写真は撮れなかっただろう。も少し雲が薄かったなら、朝焼け雲を背景に、ユニークな姿の島影という、カレンダーに使えそうな写真が撮れただろうに。
浜べには、宮沢賢治の詩の一節を刻んだ文学碑もあった。私は、その横に立って、家内から写真を撮ってもらう。カモメを漫画チックに描いた、かわいい像が、道の反対側にある。その横には、家内が立ってピースをして、今度は、私がシャッターを押す。「祥ちゃん(孫)への、おみやげにするつもり」の写真である。
幕末に、幕府軍と官軍が、この宮古湾で海戦をして、斬り込んだ土方歳三が、命からがら逃げのびたことがある、と、掲示板が立っている。両軍の船の模型なども置いてある。(それを見ても、わかりませんでしたが、後に、津本陽の本で、甲板の高さが違い過ぎて、土方もどうしようもなかった、ということでした)
いわゆる三陸大津波の記念碑もある。「地震があったら、高い所に、すみやかに逃げよ。いえを建てるなら、津波の来ない高い所に建てよ」というような教訓が書いてある。(事実、この教訓を素直に聞いて、7年後、助かった者もいますし、聞かず、または、知らずにいたため、被災した者もいました)
浜から見て、10メートルくらいの高さの所に、「津波はここまで来た」というシルシがつけてある。あんな所まで行くかいな、と、私も正直、信じられないほどであつた。
そういえば、昨日、海岸に近い道路では、5、6メートルもあるような、高い防潮堤を何度も見たなあ、と思い出す。
手がかじかむほど、息が白く見えるほどの冷え込みだったが、体は十分あったまるくらいに歩きまわって、宿にもどった。
バイキング形式だったので、気に入ったものを選んで朝食。私は、牛乳も2杯、コーヒーも2杯。
ホテルの駐車場を出て左に行くと、観光船の乗り場がある。さらに道なりに行くと、石川啄木の文学碑があると、地図には書いてあるのだが、案内標識が見当たらない。誰かに聞こうにも、人がいない。そうこうしているうちに、国道に戻ってしまった。もう、次の目的地に行こう。先を急ぐ旅だ。
三王岩は、その名の通り、海の中に三つの岩が並んでいるところ。すぐ傍まで行けば幸せになれるとか伝説もあるらしいが、駐車場が展望台みたいになっているので、そこから遠く眺めて、写真を1枚撮って、それでよしとした。
熊の鼻展望台にも、ちょっと、立ち寄った。
小本から左折してわざわざ岩泉の町役場の近くまで行く。「るるぶ」に「中松屋」という和菓子屋さんがあって、栗餡を羊羹でつつんだ菓子や、栗餡の茶巾絞りかろ名物、と書いてあったので、栗好きなかないの希望で、寄り道をしてみた。
国道から一筋南の、旧街道らしい通りに、中松屋があった。主人と会話しながら、いくつか買い込む。この主人が親切な人で、せっかくだから、近くの龍泉洞も見て行きなさいと、きれいなカラー印刷の案内プリントまでくれる。「うちの近くには、平尾台や秋吉台があって、鍾乳洞には、それほど魅力を感じないんですよ」と、私がホンネを言うと、それでも主人は、「あんなに水がきれいなところは、他にはないはずだから、是非、行ってごらん」と言う。
後で、家内から叱られた。「あんた、バカよ。はい、行ってみます、と言えば、御主人もよろこぶのに、つべこべ理屈を言って。……日頃から、あんたは理屈っぽいからダメ、人から嫌われるち、言いよるやろうが。もっと、人の好意を素直に受け止めなあネ」
また小本まで戻って、ちょっと先の、鵜の巣断崖を見に行く。これは、迫力があった。お天気に恵まれて、遠くまでよく見える。展望台の北に、高さ200メートルの断崖が、5つの岬のように海にせり出して、一番近い岬の手前には、白い砂浜に、青い、きれいな水が打ち寄せている。少しでもいい角度から写真を撮ろうと、柵にのぼって、曲芸のような格好でシャッターを押したりした。
鵜の巣断崖と駐車場を結ぶ道の脇に、好きな作家、吉村昭の文学碑がある。彼の作家活動の原点にもなったのが、この土地、この景観だという。なんとなく、わかるような気がする。この低い文学碑の後ろに腰をおとして、首だけ出して、写真を撮ってもらう。
次は北山崎だ。ほんとうは、遊覧船で、海から見た方が、迫力のある景観を楽しめると思うのだが、季節的に客の少ない今時分は船が出ない。かといつて、展望台から、階段を753段も降りたりのぼつたりする体力も時間的余裕もない。上から下を覗くくらいしかできなかった。みせには、海から撮影した絵葉書を置いてあったのじゃないかな。買ってくればよかった。店に入りもしなかったから、いわゆる、バカの後知恵というやつだ。残念!
次は久慈だ。琥珀博物館には、家内が行きたがるだろうと思っていたが、行かなくていいと言う。不思議に思っていたら、浄土が浜パークホテルの売店に、久慈琥珀のコーナーがあって、そこで、買いたいものは、いくつか買ってあったのだ。うちに帰って、みやげ物を広げた段階で、それがわかった。
久慈では、小袖海岸、三船久蔵十段記念館にも行きたかったが、時間的に無理なようなので、諦めることにした。おみやげ用に黒豆ゼリーを売っているという竹屋製菓をさがしたが、道路工事の関係で、キリキリ舞いをした挙げ句、わからないまま、久慈の街を通り抜けた。
八戸の手前には、種差海岸の案内標識もあったが、パス。先を急ぐ。
八戸を抜けた所で、有料道路に入る。三沢から、小川原湖の傍を通れば野辺地への最短距離というつもりであった。ところが、有料道路の終点で「あおもり」という標識に従って
左折したので、十和田市に入ってしまった。十和田湖のあたりは、雪が深いだろうから、今回は敬遠しようと、最初から作戦を立てていたのに。しかし、山には登らず、野辺地に行く道もあるらしい。山越えは雪がこわいから、野辺地に出て、海岸沿いを青森まで行こう。そのつもりで、天間林を通っていると、また、「青森」という標識がある。これは近道なんだな、野辺地まで遠回りしなくていいんだ。
ところが、これが「みちのく道路」というヤツで、とんでもない吹雪と積雪の中を山越えすることになった。なんでここだけ、雪がこんなに降っているんだ。なんでここだけ、雪がこんなに積もっているんだ。そう言いたくなる。こんな運転だけは、したくなかった。スリップがこわいから、ゆっくり、ころがす。後続車が来れば、お先にどうぞ、と道を譲る。路肩に寄る時も、雪をおそれ、おそれだ。地元の人は、この程度じゃこわくないのだろう、びゅんびゅん飛ばしている。おそれ入り谷の鬼子母神だ。何台も、何台も、追い越された。やっぱり、北国の人は度胸がある。
急な下り勾配を無事に通過して、ホッとしていたら、4号線に戻る所で道を間違え、だんだん4号線からは遠ざかるのが、カーナビでもよくわかる。日ごろ、カーナビの付いていない車に乗っているので、目的地の設定のしかたも知らない。だから、あとすこしで、右折だ、左折だと指示してくれることもない。今、自分が、国道からどれくらい離れているかという状態だけが、カーナビでよくわかる。狭い道を通って、とにかく、4号線に戻った。
ほんとうは、もっと足を伸ばしたかったのだが、雪もちらちら降っているし、暗くなってから、初めての道を行くのはちよっとこわいので、青森市内に泊まることにした。ガイド本から、青森駅の近くとあおもり国際ホテルの番号を調べて、携帯を入れてみると、ツインを御用意できます、とのこと。行き当たりバッタリでも、シーズンオフなら、どうにかなるものだ。
さて、駅の近くまで行って、ホテルを探すが、なかなか見つからない。一方通行とかあって、わがまま運転もできない。地図からすれば、たしか、この近くのはずだが、というあたりで、家内が看板を見つけた。暗くなる前に、宿にたどり着いて、ほっとした。
部屋に荷物を置いて、ちょっと街へ出てみることにした。ホテルの真むかいのビルの地下に、新鮮市場という所がある。閉店時刻がちかいらしく、青いシートを掛けたりして、店を畳んだ所もあるが、まだ、「いらっしゃい、いらっしゃい」と呼び込みをしている店も。家内は、そこを見て回る。結局、「瓶の形がちょっと違うから、味もちょっとちがうかも」と言って、ウニの瓶詰めを3本買った。それを袋に入れて、私が持って、新町通りという商店街を歩く。「るるぶ」に書いていた通り、「うに松」という店はあったが、お薦め商品は、日持ちがしないから、というので、買うのは諦めた。缶詰みたいなのを、いくつか買う。
帰りに、「さくら野百貨店」地下の食品売り場をのぞいたら、ここにも、「うに松」のコーナーがあった。
夕食は、蕎麦でも、と思っていたが、それらしい店が見当たらないので、ホテルに戻って、二階の和食処に行った。
3月15日(月) 昨日「さくら野」で買ってきたパンなどを、軽い朝食として、食後の薬を服用したりする。窓から外を見ても、積雪や凍結で、車が困っている気配はない。これなら、夕方までに、仙台空港には着けるだろう。
チェックアウトをして、預けてあった車を受け取ったが、、サイドミラーを畳んである。どうしたら開くのだろう。うちの車のミラーボタンがあるあたりに、それらしきものがない。窓の下の、スイッチらしきものを扱っていたら、やっとミラーが開いた。
国道7号を西に行く。通勤ラッシュの時間帯ではあったが、心配したほどでもない。道路標識を見ながら、ここを右折すれば蟹田か、その先の不老不死温泉にも行きたかったのだが、とか、このまま五所川原まで行けば、金木もちかい、しかし、斜陽館まで行くのは、今回は、時間的に無理だなあ、とか考える。
とりあえず、今日の第一目標は、
三内丸山古墳である。「時遊館」という標識を頼りに進むと、立派な建物がある。しかし、開館までは、1時間近く待たなくてはならない。じっと待っているのも、時間がもったいない。そこへ、館員の一人じゃないかと思われる定年寸前という年格好の男が出勤して来た。時間前に館内を見せるわけには行かないと言う。当然だ。丸太のタワーだけでも見たいのだが、どこか、そとから見える所を教えてもらえないか、と聞いたら、そら、そこをこう行って、と、かなりな距離を歩いて案内してくれた。
移動する時、足元が滑って、家内が危うく転倒しかけた。ただの水たまりに見えた所が、実は氷になっていたのだ。
発掘事務所らしい建物の横を回ると、写真でよく見る丸太のタワーが見え出した。一面に雪が積もった広大な平坦地に、黒い丸太がそそり立っている。おおきな倉庫のような、昔風の建物も見える。もし、あれが住居だとすれば、よほどの権力者の家に違いない。それらを背景に、何枚か写真を撮って、青森観光に
キリをつけることにした。
ちょっと道に迷ったが、すぐ近くのインターチェンジから、東北自動車道にのる。やがて、右手に、あれが岩木山だ、とわかる、雪をいただいた独立峰が見える。「お岩木山のテッペンに、綿みてえな白い雲が」という歌を思い出す。「リンゴのふるさとは、北国の果て」という歌を、伊東四朗のように、つい、声に出して歌ってみたりする。津軽サービスエリアでは、岩木山とプリウスと家内とをひとつのフレームの中に入れて写真を撮る。弘前も、遠く窓から眺めただけ。
秋田県の東北部をかすめて岩手県にもどる。安比高原を過ぎたとおもったら、岩手山が見え出した。わりと近く見える。雪で白くなった左の稜線が、富士山のようにうつくしい。岩手山サービスエリアてろ、また写真を撮る。
滝沢インターで下りて、玉山村の石川啄木記念館をたずねる。ちょうど休館日であった。玄関前で写真を撮り、よこの、小学校の建物、啄木と子どもたちの彫像がある庭なども撮る。
東北道に戻り、盛岡は通過。花巻インターで下りて、宮沢賢治ゆかりの羅須地人協会を見る。「下ノ畑ニ居リマス」と書いた黒板がある所だ。そして、宮沢賢治記念館に行く。いろいろな趣向を凝らした展示があったが、「羅須地人協会」と命名したいわれが、一つじゃなく、いくつもいくつもあるというはなしなどは、いかにも賢治らしくておもしろいと思った。最後のコーナーにあった、タヌキとナメクジとクモの話なども、それぞれが、何のシンボルとして描かれているのか、解釈の仕方がいくつもあるそうで、あらためて、奥行きが深いのに、感激した。
花巻南インターから平泉前沢インターまで。
中尊寺は、光堂のすぐ下の駐車場が空いていた。シーズンオフでよかった。坂をちょっと上ったら、もう光堂だった。ふーんと思う。芭蕉ほどの感懐は起こらない。
駐車場の辻に案内板があったので、それに従って、裏みちを行く。毛越寺である。庭園ぁ広大なので、パノラマサイズで撮ろうとしたが、それでも3枚必要であった。境内に、芭蕉の「夏草や」の句碑と、それを新渡戸稲造が英語に訳した句碑もあった。
もうつうじの前の道をみなみにゆくと、厳美渓に突き当たる。水が岩を削った渓谷美の名所である。写真を撮るのに夢中になって、車に戻って、「あっ、バッグを忘れて来た」と家内が言う。あわてて走ったが、観光客の少ない季節、時刻だったので、岩の上に、ちょこんと残っていたバッグを、無事に回収できた。「早く気が付いてよかった。帰りの航空券も、財布も、この中だったから」と言う。
一関インターからは、高速道路ばかり。仙台南インター、仙台南部道路を経て、仙台空港インターで下りる。ガソリンスタンドで満タンにして、レンタカー営業所に車を返す。3日で1048キロ走った計算になる。ガソリンだいは、花巻で2000円入れて、最後に3000円ちょっとだから、100円で20キロ走った計算になる。プリウスは、燃費がいいとは聞いていたが、それが実感できた。その上、静か。あと、最初の値段だけが問題だな。
空港では1時間以上ゆとりがあった。しかし、仙台や盛岡で市街地に入ったら、渋滞がらみで、とても間に合わない状況にたっただろう。パスしてきたのが正解だろう。空港では、ショッピングも食事もする気になれず、イスに、ぐたっと座ったまま、搭乗案内の放送を待っていた。
震災後のテレビなどで見せつけられる現実は、はるかな厳しさを突きつけてきています。
チコちゃんじゃありませんが、「ボーっと生きているんじゃないよ」と、日本人全体が、迫られているような気がします。
選挙の時も、遠い将来のことを考えて、投票先をきめるべきでしょうね。
目の前の甘い話に飛びついていたりすると、それが、大きなワナだつたりして、…………。