第五話 滅びの領域
気がつけば、強い風が吹いていた。
公国に近付くにつれ、空は黒い雲が覆うようになり、不気味に生暖かい風が吹きすさぶ。雨はまだ降っていないが、降り始めるのも時間の問題だろう。
街道の景色はこれまでと同じ自然豊かなものだったが、ある場所を過ぎた時点で、これまでとはなにかが変わったと本能的な忌避感が反応する。ただ、その違いはなんだろうかと考えると、明確な答えは出ず、疑問だけが頭の中で渦を巻く。
セルンだけはその違和感に自分なりの答えを出せた。即ち、ここは異界である、と。自分たちは今、別の世界に入り込んだのだと。
本格的にハスターの領域に侵入した。
邪悪の気配を感じとり、馬車の面々も自然と口数が少なくなっていった。
「セルン。公国にはもうすぐ到着するが、まずはどう動く?」
「まずはハスターの様子を確認したい。あとは、生存者の確認も」
ゼノの質問に、セルンはそう答えた。
「本格的に戦いを始めれば、ハスターを倒すまでは戦いをやめられない。周りの様子を気にする余裕もなくなるだろう。確認するなら最初しかない」
「いると思うか?」
「そう信じたいが……」
空を見上げる。そこを今、なにかが横切っていった。翼の生えた、飛行型のモンスターだ。
「あらよっと」
ゼノが手綱をセルンに渡し、神器の弓を取り出して矢を放つ。
不可視の風の矢は後ろからモンスターに追いつくと、その脳天を吹き飛ばした。
「これで今日、十三体目のモンスターだな」
「この先、もっと多くなっていくだろう。全部、ハスターの眷属だ」
「あれくらいなら俺の矢でも一撃で退治できるが、もっと強い奴が大量に出てきたら俺一人じゃ処理は厳しいな。トアレちゃんにも手伝ってもらっていいか?」
「ああ。一度、その辺りも含めて作戦会議といこう。……これ以上は、馬車で近付くのも難しいみたいだからな」
訓練された馬たちではあったが、度重なるモンスターの出現とこの気持ちの悪い風に、先程から落ち着きがなかった。
セルンたちは公国に入る前に一度馬車を止めて、最終確認を行う。
「これから本格的にハスターの領域に足を踏み入れていく。モンスターの襲撃が頻繁なものになるだろう。みんな、注意をしてくれ」
セルンの指示に、全員が頷き返す。
「ハスターのいる公国の都市の中に入ったら、まずはハスターとの戦闘を避けて生存者を探すことになる。さすがにこの人数で動けば見つかるだろうからな、二手に別れたいんだが……」
問題は人員の割り振りであった。
戦力的な物でいえば、セルンとエルジェラントで別れ、それぞれに一名ずつというところだろう。
未だエルジェラントの能力に不明瞭な部分があるため、最も不安要素の強いリコリスは自分と一緒に動いてもらった方がいいだろう。隠蔽と索敵能力に秀でたゼノは、逆に自分とは別に動いてもらいたい。
そうなると、エルジェラントとゼノで動いてもらうことになるのだが。
「ゼノ、エルジェラント、二人で動いてもらえるか?」
「俺は構わんぞ」
「私は、えっと」
エルジェラントはこの旅の間に仲良くなったリコリスに視線を向けるが、チーム分けの基準自体は察したらしく、最終的にはこくんと首を縦に振った。
「じゃあ、リコリスは俺と一緒に動いてくれ」
「わかった」
「なにかあったらお互いにわかるように、合図を送ってくれ。ハスターに気づかれても構わないからな。生存者の確認が終了した時点で、すぐに俺とエルジェラントでハスターの討伐に動く」
最後にセルンは、この旅の目的を告げた。
「ハスターを倒し、みんなで一緒に生きて帰るぞ」
その言葉に、旅の面々はそれぞれの言葉で了解と返すのだった。
そしてそれが困難なことであるのだと、そう全員が理解したのは、徒歩で最後の距離を踏破した瞬間のこと。
セルンたちは、そこに邪悪なる風の王を、見た。
都市の上空を覆い尽くす天空の城、それは名状しがたい生物であった。
全長は百メートルを遥かに超える。その見た目はなるほど、開いた傘に似ているのかも知れない。だがそのおぞましさはどうだ。身体を覆い尽くす黄色の肉。外側のそのは黄色に染まった無数の唇でできた。それが呼吸するたびに、風が起こっては吸い込まれていく。
そして内側でうねくるのは無数の触手だった。得体の知れない黄色の粘液に濡れ光り、虫の節足のように蠢いている。
「あれが……ハスター」
ゼノが恐怖を隠しきれない声で、そのモンスターの名前を呼ぶ。
ありとあらゆる生物的な嫌悪感を、あれからは感じる。精神的に成熟した彼でさえ、見ているだけでガリガリと正気が削れていく気分だった。リコリスやエルジェラントも顔を青ざめ、吐き気を我慢するように口元を押さえている。
無事なのは、以前にも見たことがあるセルンと、なにかしらの耐性があるのかトアレだけだった。
そしてハスターの脅威はなにも精神的なものではない。触手の隙間から、雨あられと都市の中に雨粒のように落ちてくる、夥しいモンスターの群れ。
家屋を壊し、地面を陥没させながらそれらは地上に産み落とされると、空を見上げ、ハスターを称えるように金切り声をあげる。それらはハスターの風に乗って、魔の音色となって世界に流れ出ていく。
ハスターの威容と街の惨状を見て、誰もが理解した。
生存者などいるはずがない。いたとしても、正気などとても保っていられないだろう。
「……どうする? セルン。こいつは予想以上の地獄だぜ。生存者がいるとは思えない」
「……予定通り探してみよう。どちらにしろ、ハスターの様子を先に見ておきたい」
一縷の望みにかけて行動に移るが、セルンとしても生存者の可能性を信じられなかった。
唯一、心からまだ生存者の存在を信じていたのはリコリスくらいのものだろう。
「セルンさん、生存者、いるかな?」
二手に分かれて数分後、破壊され尽くした街の中を、モンスターの目を盗みつつ進んでいると、リコリスが縋るような声で聞いてきた。
「ううん、きっといるよね。絶対に、この状況でも諦めてない人がいるはずだよ」
セルンが答えるより先に、リコリスは自分に言い聞かせるようにそうつぶやく。
「リコリス。あまりは期待するな」
「でも……」
リコリスは周囲を必死に探し、建物の影に人の姿を見つけた。
「あ! あそこ!」
彼女は喜び勇んでそちらに駆け寄ると、
「大丈夫ですか? 勇者候補が来ました、よ……」
そこにあった内蔵が食い散らかされた家族の死体を見て、言葉を失う。
「……酷い」
モンスターによって捕食されたのだろう。あまりにも無惨な死体だった。おおよそ、人間の末路とは思えない。
他にも、探せば死体だけはたくさん見つかった。そのどれもが、顔に死に際の恐怖と苦痛を刻み込んでいる。
リコリスは死体を見つかるたびに拳を握る力を強くし、歯を食いしばる。
三十分後、探せどもどこにも生者の姿がないことを確認して、彼女は悔しそうに空を覆う邪悪をにらんだ。
「セルンさん、これが支配者級モンスターに襲われた街なんだね」
「そうだ。奴らの存在は滅びそのものだ。通った場所は、命の住めない世界に作り替えられる」
「十年前までは、あんなモンスターが他に二体もいたんだよね。そして倒しても、聖戦に負けて滅びが降りかかるたびにまた現れる」
そう、ハスターは強大なモンスターであると同時に、結局のところモンスターの一種でしかない。複数存在し、滅びが降りかかるたびにこの世界に現れては邪悪な風を巻き起こす。
「……滅び。これが、滅びを晒されるっていうこと」
幼い頃から閉じた世界に押し込められたリコリスは、今まさに本当の意味でモンスターの脅威を知った。
「聖戦に負けたら、これと同じことが世界中で起こる。そうなんだよね?」
「そうだ。負ければ負けるほど、モンスターは人類の生存権を奪っていく。やがては地上をすべて支配されるだろう」
だから負けられない。いつの時代も、聖戦に臨む者たちはそう思って戦ってきた。
たとえ、代わりに別の世界でそういうことが起ころうとも、だ。
「……………」
リコリスは考えても仕方のないことを考えてしまったのか、悲痛な表情を浮かべる。
改めて、セルンは危うい少女だと思う。
リコリスは基本的には正しい人間だ。そう在ろうとしている。正義感にあふれていると言えばいいだろうが、彼女の場合、その正義の境界に敵味方がない。
たとえ自分たちにとっては敵に該当する側の人間であっても、その人たちが正しい心を持っているのなら、リコリスにとってはその幸不幸に心を寄せてしまうのだろう。
前にセルンは深く考えるなと言ったが、やはりそれは無理な相談のようだった。彼女なりに消化したと思っていたが、その実、必死になって目を背けていただけなのだろう。
聖戦の真実は、正しくあろうとする人間には酷すぎる。
聖戦に正義も悪もなく、ただ勝者と敗者がいるだけなのだから。
「……リコリス。苦しいなら、やめてもいいんだぞ?」
生存者の捜索のこととも、勇者選抜のこととも取れる言い方で、セルンは言った。
それに対し、リコリスは無理な笑顔を浮かべて、首を横に振った。
「大丈夫。私はへっちゃだから」
「……そうか」
「うん。だからがんばって生存者を捜そ!」
えいえいおー、と空元気で手を挙げると、リコリスは捜索に戻る。
「トアレ、生存者はこの辺りにいそうか?」
その焦っているような後ろ姿を気にしつつ、セルンはトアレに尋ねる。
しかし返答はない。
トアレはどこかぼうっとした様子で、自分の足下を見つめていた。
「トアレ? どうした?」
「え?」
近付いて呼びかけると、トアレは今気付いたように顔をあげた。
「マスター? なにか我に用か?」
「用っていうか、大丈夫か? ぼうっとしていたようだが」
「ああ、もちろんだ。我は大丈夫、元気だぞ」
「そうか。ならいいが、気分が悪いならいえよ。この最悪の環境の中、気付いたら狂っていたなんてこともありうるからな」
「……そういうマスターは全然平気そうだが?」
「俺か? まあ、俺は前に一度ハスターの討伐に同行してるからな。あの巨体が近くにあっても、あれは倒せるものなんだと知ってるだけで、案外気は楽になるもんだよ」
「そういうものか」
セルンはこれからあのハスターと戦うというのに、ほとんど気負っていないようだった。
もちろん、余裕があるわけではないだろう。ハスターに簡単に勝てるとも思ってはいないはずだ。
ただ負けないと、絶対に負けないと、そう心に決めているだけ。
「……マスターは強い。それに比べて我は……」
「どうした? 本当になにかあったのか?」
セルンはしゃがみこみ、トアレと目線を会わせて優しく声をかける。
「心配事があるなら言ってみろ。俺たちは二人で一人の勇者候補なんだから」
「……実は」
「セルンさん!」
トアレが思い切って悩みを打ち明けようとしたところ、前方のリコリスが大きな声をあげた。
セルンがそちらを振り返ると、リコリスが十歳くらいの男の子を瓦礫の下から救出しているのが見えた。
「セルンさん、いたよ! 生存者がいた!」
「すぐに行く! トアレ、悪いが相談はあとにしてくれ!」
「……もちろんだとも」
「よし」
二人もリコリスのところに駆け寄る。
一応、暗殺者教育の一環として、人体について教育を施されたセルンが、リコリスに抱きかかえられた少年の様子をうかがう。
ぐったりとして意識のない少年は、いくつか切り傷があり、服を血に染めていたが、幸いにして命に別状はないようだった。
「大丈夫だ。息はしてる」
「この子、女の人の腕の中にいたの。きっとお母さんが子供を守ったんだね」
リコリスは生存者がいたことに、嬉しくて涙ぐむと、子供をセルンに託す。
「私、ちょっとこの子のお母さんを助けてくる。たとえ死んでいたとしても、あそこに置いておけない」
「……わかった」
セルンが意識を失った少年を預かると、リコリスは瓦礫の中から少年の母親と思しき人物を引っ張り出す。
その下半身は半ば瓦礫によって潰されていたが、幸いにして上半身は綺麗なものだった。傷もほとんどなく、服についた血は抱えていた子供からついたものだろう。
「いや待て。この子はその人の腕の中にいたって言ったな?」
「うん。そうだよ。大事そうに抱きかかえられて――」
そのとき、セルンに抱えられていた子供がぱちりと目を開いた。
そして一閃――のその手のナイフがセルンの首を狙う。
だがセルンが先んじて、子供の動きを呼んでいた。攻撃を避けると、その小さな身体を押さえ込もうと手を伸ばす。
少年は素早い身のこなしで避けると、そのまま瓦礫の上を走り去っていってしまった。
事態についていけず、ぽかんと口を開けたリコリスが、セルンに疑問の眼差しを向ける。
「えっと、なに、これ?」
「……あの子供はこの街の生存者じゃないようだ。俺を狙った暗殺者だよ」
「暗殺者? じゃあ、この人との関係は?」
「なにもないだろうな。恐らくは、俺たちに生存者だと勘違いさせようと、自分で自分を傷つけてから無理矢理腕の中に紛れ込んだんだろう。女性の上半身に傷はなかったのに、子供の方はたくさん血がついてたからな」
「……なん、で?」
リコリスは腕の中で事切れた女性を見下ろして、肩を震わせた。
「なんで、そんな人の死を冒涜するようなこと。あんな、あんな小さな子供が……」
「そういう風に教え込まれたんだろ。標的を殺すために、その場の状況を利用しろ、と」
他でもない、セルンが昔に教わったことのひとつに、今のような死体を利用したものがあった。
「こんな最悪の場所で、あんな風に動ける子供を使う奴は一人しかいない。前フランキシス男爵、バルザック・フランキシスの奴だ」
「信じられない……こんな、なんで……?」
セルンとしても信じられないことだが、あの男はこのハスターの領域で仕掛けてきたのだ。
「マスター。先程の子供、あの程度でマスターを仕留められるとは思わん。狙いはマスターではなく、別の奴かもしれんぞ」
「そうだな」
トアレの言うとおり、あの程度の仕込みならば、セルンやゼノは見抜く。
とすれば、向こうの狙いは……。
「リコリス。一度向こうと合流しよう。もしかしたら、エルジェラントが狙われてるかも知れない」
「……うん」
リコリスは女性を地面におろし、その開いていたまぶたをそっと閉じてあげてると、
「……ごめんね。間に合わなくて」
自分の無力さを嘆くように、そう謝った。
けれど、それ以上の感傷に浸ることなく立ち上がると、セルンをまっすぐ見て言った。
「行こう、セルンさん! エルちゃんになにかある前に!」
セルンは頷くと走り出す。
その肩を、空から落ちてきた雨粒が叩く。
雨は瞬く間に豪雨となると、ハスターの風を受けて嵐と化すのであった。




