第二話 監獄島の日常
『畑仕事などせぬ! 絶対にだ! 我は農具になどならぬからなぁああああ!!』
というのが、出会ったばかりの頃の神器様のお言葉である。
そんな彼女も半年経った今では、うっとりとした顔で野菜に頬ずりをしていた。
「うふふ、我が育てた野菜のなんと瑞々しく愛らしいことか。これは美味い。絶対に美味いぞ!」
「そうか。とりあえず、トアレ。そのトウモロコシは他のと分けておいてくれよ。俺はそれを食べたくない」
収穫したばかりのトウモロコシに対し、頬ずりのあとキスの雨を落としている神器の少女――トアレに対し、別の場所で野菜を収穫していたセルンは呆れ混じりの眼を向ける。
「しかし、変われば変わるもんだな。最初はあんなに農業するの嫌がってたのに」
セルンは半年前のことを思い出す。
トアレに畑仕事を手伝わせようとしたのだが、嫌がること嫌がること。
主人命令で無理矢理やらせても、手が汚れた服が汚れた髪に泥がついたと散々叫き散らし、まったく作業が進まなかった。
そこで髪が汚れないようにまとめてやり、服を汚れてもいいものに着替えさせ、軍手をつけてやらせようとすれば、可愛くないから嫌だそもそも汗をかきたくないと宣い拒絶する始末だ。
しかし今はあれである。
服装は可愛さとは無縁の繕いだらけのシャツにズボン、長い髪は手ぬぐいを使って麦わら帽子の中にしまいこみ、手を泥だらけにして野菜を収穫している。
「マスターマスター! 見てくれこれを! 我が植えたこのダイコン、すごく立派に育っておるぞ!」
両手に大きなダイコンを掲げ、ぴょんぴょんと飛び跳ねているトアレ。
これだけは最初と変わらない日焼け知らずの白い肌には、いくつもの玉の汗が浮かんでいたが、彼女の顔には不快感とは無縁の喜びの笑顔が咲いていた。
「我、これが食べたい! 今日の夜ご飯はこれを使って料理して欲しい!」
「そうだな。それと今朝海で釣ってきたブリで煮物でも作るか」
「ブリダイコン! きゃっほう!」
「あんまり畑の中ではしゃぐなよ。服が汚れて洗濯するのが大変になる」
「わかっておる!」
「ったく。これじゃ最初とは立場が逆だな」
そう言いつつも、娘の成長を喜ぶ父親の心境で、セルンは笑みをこぼしていた。
思えば、セルンももう十八歳である。結婚して子供ができていても、決しておかしくない年になった。この十年、連れ添う相手など考えたこともないが、なんの縁か子供を育てることになった。色々苦労はあるが、トアレとの二人暮らしはそう悪いものではない。
セルンは澄み渡る空を見上げ、ひたいの汗をぬぐうと、優しい表情を浮かべた。
「こんな平和な日々が、いつまでも続けばいいな」
太陽は二人を祝福するように、キラキラと輝いていた。
「――って、ちっがーう!!」
トアレが突然大きな声をあげたかと思えば、持っていたダイコンを勢いよく土に突き刺し、その間に膝をついて頭を垂れる。
「……豊作の儀式か?」
「違うわ!」
「まあ、豊作を祈らなくても、たくさん採れるし年中なんでも実るからな」
「そういうことではない! 我は反省していたのだ!」
トアレは立ち上がると、セルンに詰め寄る。
「マスター! 我が誰なのか言ってみよ!」
「トアレ」
「素敵な愛称をありがとう! マスター大好き! けど違う! 我がなんであるかを言ってみろというのだ!」
「なにって、俺の農具だろ?」
「……なにか妙な感じに聞こえたが、その通りだ。我は神器である。なのに毎日毎日やらされることと言えば畑仕事ばかり。なんだか土に触れていないと落ち着かなくなるくらい畑仕事ばかりだ!」
「そりゃまあ、畑は毎日面倒見てやらないといけないからな」
「そうかも知れないが、マスターが勇者候補に選ばれてもう半年経ったのだぞ? その間、マスターは勇者候補らしいことをなにひとつしてないではないか。我も神器らしいことなにひとつしてないし」
トアレは遠い目になると、ぶつぶつとつぶやきだす。
「我はなんのために……うぅ、存在意義が揺らぐ。我、要らない子」
「お、おう。とりあえず落ち着け。ゴボウ茶飲むか?」
「我、ゴボウ茶飲む……」
家に常備してあるお茶を持ってきて、落ち込むトアレに飲ませてやる。
少し落ち着きを取り戻したところで、改めてトアレが話を切り出す。
「とにかく、そろそろ勇者候補として動き出さなければまずいと思うのだ。半年も経てば、他の勇者候補の中から、勇者に聖別される資格を得る者が現れても不思議ではない。このままでは、なにもしないまま勇者の座を他の有象無象にかすめ取られてしまう」
「そっかー。それは大変だなー」
「他人事?! 我はあなたに勇者になって欲しいのだぞ、マスター!」
「そう言われてもなぁ」
セルンは自身のボサボサの髪をさらに掻き乱すと、周囲を見回す。
木組みの家と、その裏に広がる大きな畑。畑の周りには透明な水をたたえる小川が流れ、木々の生い茂る森が広がっている。
それだけしかない、のどかな風景だった。
「最初に言ったと思うが、勇者的行動をしようにもできることがないぞ? モンスターもいないし、困ってる誰かもいない」
「ならばこの島を出よう! イカダを作って脱出だ!」
「俺はここが地図のどこにあるのか知らなければ、どっちの方角に進めば陸地に辿り着くのかもわからない。さすがに無謀が過ぎる」
「我らの力を合わせればできる! なんなら、立派な船を造ってもよい!」
「それ作るのに、たぶん半年はかかると思うぞ」
「……それだとたぶん聖戦終わってる」
しょんぼりとトアレは肩を落とす。神器である彼女は、やはりどうしても自分の主を勇者にしたいらしい。
「悪いな、トアレ。何度も言ってるが、俺は勇者になる気はない」
だがセルンにはその気がなかった。トアレが時折、発作のように勇者になるよう訴えてくるのも、のらりくらりとかわし続けている。
今日もそのつもりだったのだが、彼女もいい加減、我慢の限界らしい。
「ふ、ふふふふっ、こうなったらいっそのこと、我らの方から次元を超えて魔王のいる世界へ攻め込んでやろうか。そうして屍の山を築き上げ、勇者としての資格を手に入れる。神器である我にはそれが可能だ」
「やめんか。代わりにこっちの世界が滅茶苦茶になるわ」
神器には異世界――即ち、魔王の住まう黒の世界への扉を繋げる力がある。しかし、なんの代償もなしに異世界へ渡れるのは本物の勇者の神器だけである。勇者候補の身でそれを実行した場合、神器に多大な負荷と、こちらの世界に天変地異が起こると言われていた。
「あと、勇者候補が異世界へ渡った場合、罰として勇者に聖別されることがなくなるらしいが、それはいいのか?」
「うぐっ、それは困る。本末転倒だ。我はどうすれば……」
「ふむ」
頭を抱えて苦悩するトアレを見て、セルンはあごに手を当てて考える。
最近は水やりか作物を収穫するばかりで、畑を耕すことが少なかったから、もしかしたら体力がありあまって欲求不満になっているのかも知れない。
「……そういえば、倒すべき敵に思い当たる節があるぞ」
「本当か!?」
セルンのつぶやきに、トアレが目を輝かせて反応する。
「もしやモンスターか? モンスターが復活したのか!?」
「いや、ある意味ではそれ以上に恐ろしい敵だよ。これを見てくれ」
セルンは先程収穫しているときに見つけた野菜をトアレに見せた。大きなスイカには、四分の一ほど獣がかじったようなあとがあった。
「今年も出たんだよ。タヌ……暴食王ぽんぽこの奴がな」
「暴食王ぽんぽこ?」
「ああ、俺にとっての最大の好敵手だ。奴は俺が油断する夜になると現れ、俺が汗水垂らして作った野菜を食い散らかしていく。しかも一番美味しい奴だけを的確にな。まさに最悪の化け物さ」
「なんだと! それは許せ……」
憤りを露わにしようとしたトアレは、その途中でふと我に返ると、
「……なんか我を適当に言いくるめようとしておらんか?」
「ないない。ぽんぽこぽんぽこ」
「誤魔化し方が雑すぎる?! というか、やはり我を便利なカカシ役として使うつもりだったのだな!」
「カカシ? いやいやいや、まんまと暴食王の奴に野菜を喰われてる時点で、お前はカカシ以下だよ」
「我がカカシ以下……だと!?」
トアレに戦慄が奔る。
「じ、神器たる我がカカシに劣る? いいい今、マスターはそう言ったのか?」
「事実だろ? 敵の夜襲に気が付かず、人にしがみついてぐーすか寝こけてたのは誰だったかなぁ?」
「ぐぬぬぬぬ……」
トアレは心底悔しそうな顔をする。神器であるからか、彼女は道具といったものに対しても嫉妬を露わにする。カカシ以下などという言葉は、彼女の矜持をズタズタに引き裂く暴言だった。
「いいだろう。我とて、手塩にかけて育てた野菜を食われては黙っておれん! 暴食王退治、請け負おうではないか!」
「そう言ってくれると信じてたぞ。さすがは俺の農具だな」
「そんなマスター照れ……あれ? 今我のことなんと?」
「だが実際、動物の中には下手なモンスターより強い奴がいるからな。十分気を付けろよ?」
「ん? ふふんっ、心配する必要はないぞ。我の力をもってすれば、動物だろうがモンスターだろうがただの雑魚である!」
腰に手をあて、トアレは平らな胸をそらす。出会いから半年が経ち、多少知識はつけたようだが、セルンからすればまだまだチョロ可愛い神器様だった。
「では我はさっそく今夜の狩りの準備をしてくる。誰であろうと、敷地内に踏み入ったものは生きては帰さないからな。マスターは安心して眠るといい」
そう言ってトアレは一度家に戻ると、麦わら帽子を置き、農作業用の服から最初に現れたときに着ていた白い一張羅に着替えて森へ向かっていく。どうやら罠でも仕掛けるつもりらしい。
しかしその途中で立ち止まると、セルンに向かって大声で叫んだ。
「夜ご飯のブリダイコンができたらすぐ呼ぶのだぞ! 我、大急ぎで帰ってくるからな!」
「はいはい。いってらっしゃい」
「うむ。いってきます!」
セルンが手を挙げて答えると、今度こそトアレは森の奥へ消えていった。
「……どうやら、今回もうやむやにできたようだな」
彼女をいい笑顔で見送ったあと、セルンは胸を撫で下ろす。
トアレも適当に獣を狩れば、溜まったストレスも発散できるだろう。クマなんかが現れてくれれば万々歳である。
ちなみに、セルンはその場合のトアレの心配はしていなかった。彼女の言葉は正しく、大型の肉食動物だろうとモンスターだろうと、彼女の手にかかれば雑魚に過ぎない。トアレの力は、神器の名に恥じない本物だ。
そんな彼女は言う。セルンこそが次の勇者にふさわしい、と。
「勇者ね。……仲間としても失格だった俺が、そんな器なわけないだろ」
セルンは自嘲する。
セルンは勇者になる気もなければ、自分が勇者になれるとも思っていなかった。
「さて、それじゃあ夕食の準備と、あとは夜食でもこしらえておいてやるかな」
収穫した野菜をカゴに入れて背負うと、鼻唄交じりに我が家へ戻っていく。
唯一、自分を勇者にしようと企む神器を誤魔化せた以上、セルンは安心しきっていた。まさか他に自分を勇者にしようと企む人間がいるなどと、そんな可能性は頭に過ぎらせてもいなかった。
そもそも、自分なんかを覚えている者などいるはずがない。これまでも、これからも、自分はこの島で静かに朽ち果てていくのだと、少なくともセルン本人は、心の底からそう思っていたのだった。
◇◆◇
その夜、静まりかえった暗い海を切り裂くようにして、大きな船が監獄島に接近していた。
「あれが監獄島……」
船の船首に立ち、小声でそうつぶやいたのは金色碧眼の少女だった。
彼女は夜の闇に沈む半月型の島を見て、そこにいる誰かを思い、熱のこもった声で囁く。
「セルン様。レナスロッテがお迎えにあがりましたよ」
その右手には、白い刻印が淡く輝いていた。