いのちのゆくえ
これは私の身に起こり得たかもしれないもう一つの世界線のお話です。つまりすべて妄想です。妄想ですが、空想ではありません。その事を重々肝に銘じて読んで頂きたいです。
※ゴア、ホラー描写はございませんが、閲覧する際はご注意ください。
父がうつ病になった。父は愛妻家だった。その妻を事故で亡くした。母は直ぐに病院に送られたが、暫く息を存えていた。父は辛うじてその瞬間を見届けることをゆるされた。命の大事を象徴するような病室の忙しさの中、父と母、二人だけが異次元の時空を共有していた。それは怖ろしく安らかで、恐ろしく哀しかったことだろう。
母は死んだ。呆気ない最期だった。
それから父は壊れていった。誰が見ても判るほど摩耗し、衰弱していった。私は東京の大学へ進学し、その為に上京していたが、父を看る為に大学を辞めて帰郷することにした。
父の目は、常に虚ろで満たされていた。時々、思い出したかのように泣き始める。私はひたすらに背中を撫でた。それが余計に父の情動を促進させる。泣きたい時は思い切り泣けばいい。人間に出来ることなんて余りにも限られているのだ。それほどに、私たちはどうしようもなく非力なのだ。
父は、食欲こそないものの酒だけは無性に貪った。それでまた泣き出した。もはや味わっているのは酒ではなく、懺悔であるのかと思えるほどに。ひたすらに、悔やんでいた。右左の選択を。母を失くしたことを。悔やんでいた。
父は徐かに壊れていった。
父を公園へ連れて行った。春の麗らかさも鎮まりを見せ、季節は幾分過ごしやすい。桜は散り、新緑が芽吹く。頬を撫でる風に川の流れの透明度を想う。父の、僕の右手を握る力はとても衰えていた。父の目は寂しかった。
陽が新緑の血を照らし、それに呼応して風に揺れる。波の音を立て、影は寄り添う。透かされた生命の眩しさが、背でせせらぐ蒼の広さを知らせている。父は仰ぐようにそれを見ていた。
そして、またゆっくりと涙を零した。私は、またゆっくりと背中を撫でた。風だけが私たちを知る。
父は、料理を決して美味しそうには食べなかった。かつては、生きていくことのひとつひとつにありがたみを憶える人だった。その感覚は最早、鉛のように淀んていた。そして、食事を終える度、「ごめんね」と私に云った。彼は、何に謝っていたのだろう。
精神病院に連れていく、ということも少し考えた。だが直ぐにその考えは棄てた。カウンセリングは仕事であって、情けではない。飽くまでも正当な経済行為だというのに、わざわざそんな信用を提示してまで、彼らは何を示したいのだろう。
父が私に話を掛けてくることはなかった。必ず私から話を掛けていた。それは本当に取り留めもない、明日になれば忘れてしまってもおかしくないような内容だった。だが忘れない。ひとつひとつの言葉が彼の選んだものであり、彼なのだ。それを忘れてしまうというのは、その人を殺してしまうということと同じだ。
それは余りに唐突だった。
父が他界した。寝室で首を吊っていた。机上には遺書が遺してあった。「これ以上、迷惑をかけたくありません。ごめんね。今までありがとう。せっかくつくってくれた料理をおいしく食べられなくてごめんね。こんなお父さんでごめんね。生まれ変わったらもう一度お母さんと出会って、あなたを生みたいです」。そう書かれていた。
愛とは、なんだろう。
相手を解ろうとするひたむき、ではないだろうか。
ときにそれは優しさとも呼ばれる。
私のそれでは足りなかったのだろうか。
相手の、喜び、哀しみ、幸せ。それを自分のことのように想えることが、愛だと私は思う。それは非常に心に負荷であり、その感情のレベルによっては自分まで潰れてしまうだろう。だが、それでその人のことを解ることが出来るなら、私は喜んでその闇に身を投げ出すだろう。
解ろうとするひたむきが、愛なのだ。
私は中学三年生の頃にうつ病になりました。その五年の闘病生活を経て私が発見したことは、命とは私たちが想像しているよりずっと重いものだというなんともあたりまえなことでした。高校二年生の時、母が交通事故に遭いました。なんとか軽症で済みました。その頃、私たち一家はある祈祷師の方に数珠をつくって頂いており、父はそれを肌身離さず身につけていました。父が、母の事故に遭った現場に駆けつけ、母が乗っていた原動機付自転車に手を触れた瞬間、その数珠がパチンと千切れたそうです。
だから私にとり、このお話は決して他人事ではないのです。
私たちが想像するよりずっと命は重いです。時間は有限です。言葉は無限です。思考は自由です。私たちを制限する唯一のものは肉体だけです。心はずっと自由です。
命に対するひたむきが、その人の心をひらかせます。
お水がとてもおいしいです。




