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短編

金木犀

作者: 日次立樹

2016年私の一番好きな作品です。

金木犀の花言葉は「初恋」「忘れられない思い出」


 それは夏がとうに過ぎ去った後、いよいよ秋の深まった頃のことでした。


 私は机に向かって書き物をしておりました。朝夕はしんと冷え込むようになって、私は友人からいただいたショールを羽織っておりました。


 一心不乱に目の前のことに取り組んでいた私が手を止めたのは、何とも心地のいい音が聞こえたからでありました。何の音だろうかと耳を澄ませますと、それは私の後ろから聞こえてくるのでした。

 私の書斎は入口の正面に大きな窓があり、窓に背を向ける格好で机が置いてありまして、後ろから聞こえる音というのはすなわち窓の外から聞こえるのでした。

 さらさら、さらさらと砂の零れ落ちるような音でした。葉擦れの音のようにも聞こえました。


 その答を知ろうと、私は窓を振り向きました。


 その窓には、夏は薄いレエスの窓掛けがかかっておりましたから、私はてっきり答えはすぐに知れる気でいました。しかしついこの間、ひどく冷え込んだ朝に私はそれを羅紗の重いものに替えたのを失念していたのでした。

 思いがけず焦らされたもので、私は何かいけないことをしている気になって、そうっと窓掛けの隙間から外を覗き見しました。


 外は雨が降っていました。秋霖の細かな雨粒が黄色い花弁を打つのがさらさらと聞こえていたのでした。小さな花は哀れ震えていました。はて此花の名は何だったでしょうか。我が家の庭に植えられている物ではありますが、私はこういったことにはとんと興味がない無粋者でした。


 コンコンコン、と書斎の戸を三度叩く音が聞こえ、私は部屋の中へ向直りました。

「どうぞ」

 入室を促すと、入ってきたのはお仕着せを着た少女でした。手には銀の盆を持っていて、その上にはコォヒィが静かに湯気を立てていました。


「どうかなさいましたか」

 私が冷たい窓の側に立っていたことを不思議に思ったのでしょう、彼女は問いかけました。


 私はどうこたえるべきか悩みました。雨を見ていただけなのです。しかしそのままに答えてしまうのは、何とも気の利かない所業であるように思われました。何せ私は心無い男でありましたから、純真な彼女の心に適う答を持ち合わせてはいないのでした。



 その少女というのは、一月前に私が引き取った親戚の娘でありました。私の二つ年上の従兄弟の娘であり、母親は従兄弟が留学先のフランスで出会ったという女でした。

 彼女の髪色は父親譲りの黒色でしたが、瞳の色は母親に似たのか、青みがかった薄いグレイなのでした。それで他の親戚連中はそれを気味悪がって彼女を邪険に扱うので、私が引き取ったのでした。


 しかし叔母や他の従姉妹たちを思いますと、彼女が謂れのない冷淡な態度をとられたのはそれだけではなかったようです。

 何せ彼女はとても愛らしい容姿をしておりました。髪色こそ黒くはありましたが、西洋人の血を引くまるで陶器のような雪肌や重たげにけぶる睫毛などはおよそそこらの娘御には太刀打ちのできないものでございました。紅を引かずとも赤い唇や彫りの深いくっきりとした顔立ちも、面白くないと思われたのでしょう。

 本当に、フランス人形のような娘なのでした。


「花を、」

 金色の。ようよう喉の奥から絞り出した言葉は、何とも卑弱なものでありました。

 喉がからからに乾いていて、少し咳込んでしまったのは幸運だったようです。彼女は何の疑いもなく私にコォヒィを渡しました。


 ふわり、鼻先をかすめた甘い香りは彼女の付けている香水か何かだったのでしょう、少し背伸びをしているのか、まるで女のような香りでした。私がそれに息を呑まなかったのは、一重にその余裕すら最早存在しないからでしかありえませんでした。

 彼女の付けている香水は、きっとあれです、名前だけは聞いたことがあるのです。この、甘い香りの。


「この花の名は、何だったでしょうか」


 少女の名は、


「金木犀です」

 先程の私と同じように窓掛けの隙間から外を覗き見て、少女は言いました。


「とても濃く、甘い香りがするのです。酔ってしまいそうなほど」


「そう」

 結い上げた黒髪が一筋、解れて白い項に張り付いていました。私にそれをすくってやる資格などないのです、彼女を人形と思えないのなら。


「私、この香りが好きなのです」

 既に亡い人との思い出を噛締めるように、少女はいうのでした。私は彼女の背をそっと押して、部屋から出るように言いました。慰めの言葉をいうことも、その肩を抱いて温めることもできませんでした。


 扉の外の嗚咽には気付かない振りで、赤い引き布の向こう側に入って窓を開けました。さらさらという音に、その音も紛れて聞こえなくなりました。



 ああ、本当に、酔ってしまいそうなほどに甘い香りです。


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