思い出の渦にのまれて
「おはようございまーす」
バイト開始30分前に到着した。ユイは昼から予約がびっしり入っていたらしい。珍しく疲れた様子で
「おはよー楓太君いつも余裕の出勤、偉いねぇ。私なんていつもギリギリなのに。今日なんて午前中から仕事入っていたからさ、遅刻しないように必死だったよ」と笑って店のヒーリンググッズを整えている。
俺も、自分の持ち場の準備を始めた。随分手馴れてきたものだ、店が混み合う時間も何となくだがわかってきた。
バイトを始めて3週間、仕事内容や環境に慣れてくる頃だ。
まさかこの時に、今夜あのような目に合うと思いもしなかった――
いつものように夕飯の注文をしてお客様が来るまでをユイと話をしながら準備をしていた。毎日、思い出の入った青い袋を届けに来る俺担当のお客さま。異形の者・妖と言われる者達。彼らは青い袋を届け、名前をログに残していく。ログをパラパラとめくりながら1日に来るお客様の人数の平均を考えていた。
「本当に、沢山の人が思い出を手放すんだなぁ。手放して新しい思い出を入れるなんて」思わず独り言のように呟いた。
「そうね、手放さなきゃ前に進めない人がそれだけ多いのかもしれない」ユイは表情を変えず答える。
「あ、ええ、そうなのかもしれないけど……人は辛いことも楽しいことも経験する為に生まれてくるって聞いたことがあるんです。辛い思いや悲しい思いから学んで、人に優しくなるとか、二度と同じ過ちを犯さないとか。どんなに辛い思い出でも時間が経つと変わってきたり。人の一生って思い出の積み重ねの部分も大きいって思うんです。手放すのは逃げているような、なんて言って分からないけど何か……あ、すみません偉そうに変なこと言ってました」
何故かそんなことを話してしまった、もしかしたら思い出を扱うことを聞いた時から好奇心と平行に湧いていた違和感のせいだったのかもしれない。その様子に気が付いたのか
「確かにね、思い出や経験は人を成長させるし、生きていく上では大切なものだと思うよ。良いことも悪いことも、悲しいこともあるのが人生だしね。でもね、皆が同じ訳じゃない。心のキャパも違う。その思い出があるために残りの人生を歩めなくなる人もいる。その中には大切な人の思い出だけれど、それがとても悲しく辛い思い出の人だっている」
「ええ、わかります。だから誰かと話し合ったり分かち合ったり――」
「楓太君、その分かち合う人がいない人は?」
「あっ――」
俺は答えられなかった。
「楓太君も、19歳になるまでに色々経験したと思う。自分の心が崩壊するような出来事はあった?もしここのお客様のような経験をしても耐えれるという自信はある?」
ユイの問いはもっともだ、俺の経験なんて可愛いものだ。部活や友人関係の悩み。試験の悩み。誰もが経験する事だろう。家庭環境も恵まれている。祖父母も健在だからまだ人を亡くした経験も無い。逃げなんて人の事を言えるはずもない。
答えられずにユイを見ていると
「楓太君が思う事って多くの人が言う事だと思うよ、悪い事ではないから気にしないで。自己啓発本とかでもよく言っているよね、辛い人生の乗り越え方や、辛いことを受け入れたり、許したりとかね。それでも解決しないのが人の……そんな人がここに来るんだと思うわ」
「俺、恵まれているってことですね。まだまだ全然わかってない」
「私も楓太君と同じだったよ、自分自身が辛いことを経験してもそれを耐えることが、当然で良い事、正しい事だと思っていたもの。思い出を売るなんて負けだって思うくらい。でも、ここでお客さんを見てきて以前と変わった。答えまでは辿り着いていないけど、少しだけ……こう言うのもアリなんだと最近思えるようになってきたんだよ」俺の顔を覗き込んできてユイは微笑みかける。
「なぁに?わかりたいの?何か悩んでいるの?大丈夫だよ」
「大丈夫って?」
「だって楓太君はここのお店のチラシが届いたでしょ。オーナーに選ばれた、この店に選ばれた人なんだから」
「そんな、選ばれた自体意味がわかんないよ。オーナーに会った事も無いのに」ユイに言うと
「それくらい、難しいことなんだもん。焦ることないよ。そう!難しいことなんだからさ、多分タイミングが来るんだと思う。さ、最初の忙しい波が来るよ!ブレイクタイムはもちろん美味しいご飯が待っているんだから張り切っていこう」ユイは、俺の背中をバシッと叩く。
「いってぇ……ユイさん、いきなり叩きすぎ!」ユイはそんな俺を見て笑い続けていた。
俺でも思い出を売る人の気持ちがわかる時が来るのかな、俺の所にチラシが届いた理由って何だろう。誰にも言ったことのない俺の心の中。満たされたことのない言葉にできないこの気持ちって関係あるのかなと漠然と考えていた。
「いかん!気分を仕事に切り替えないと」と受付にスタンバイする。
「楓太君が選ばれたのわかるわ」背後でユイが何か呟いた気がした。
本当に忙しい、簡単な仕事のループなはずなのだけれど忙しい。そして肉体労働だ。楓太は青い袋を瓶に詰めかえる為に部屋へ向かった。
「店番って書いてあったけど、店番だけじゃないよな、肉体労働だし」そう言いながらお客が持ってきた青い袋、思い出の詰まった袋を赤い瓶に入れ替えていく。何度見ても不思議だ。
サラサラと袋から入れ替え終わると、瓶には恐らく思い出の持ち主であっただろう人の名前と、思い出の種類が浮かびあがる。
今日の分の思い出を全て移し替えた時、楓太の肩が瓶が並ぶ棚にぶつかった。
ガツン――
「痛い!」と唸る前に楓太の背後に思い出の入れた赤い瓶が数本落ちるのを感じた。
まずい――
咄嗟に楓太は体勢を戻し、落ちていく瓶を受け止めようとしたが、瓶が落ちる方が早かった。
カシャーン――
音が響く、中に入っていた思い出が瓶の割れ目からも口の部分からも弾けるように零れだす。楓太はその様子を見つめながら瓶の後を追うように体制を崩し膝まずいた。
瓶からこぼれた思い出を集めて元に戻さないといけない、何故だか早く戻さないといけないと感じた。
手ですくい上げようとふれた瞬間に楓太の視界が揺れた。周りの音が聞こえない、どんどん視界が揺れていく、立ち上がろうとすれど、どこが足元なのかわからない。目が回る。ユイを呼ぼうと声を上げるが自分の声が出ているのかさえわからない。何も音が聞こえないのだ。自分が発する声さえも聞こえない。倒れないように必死で足を踏ん張る。
――何だ、この感覚……足元がぬるっとする。何かが胸を締め付ける。 何だ、何なんだ!何が起きているんだ!この胸の苦しさは?心?これは心が苦しいのか?わからない。
「誰か!誰か助けて、ユイ……さ……ん」そのまま楓太は気を失った。
どのくらい気を失っていたのだろう。目覚めると楽しく笑う男が目の前にいる。20代前半でとても優しい笑顔だ。誰を見て笑っているんだろう?
ふと、楓太は違和感を感じる。
――この目線、この距離……この男は俺を見ているというのか。
ここはどこだ?見た事も無いレストラン。訳が分からない。目の前の男は俺に何かを言っているようだが聞こえない。体を動かしたいのに思うように動かない。必死で目の前の男の言うことを聞こうと楓太は相手の口を読む。
え――
その男の口からは女の名前が読み取れた。
「麗奈、今日は君に話があるんだ……」聞き取れない。でも確かにこの男は俺に向かって麗奈と呼んだ。意味が分からない、俺は楓太だ。男だ。一体どうなっているんだ?
その瞬間今まで聞こえなかった音が一気に聞こえ始めた。テレビのボリュームのボタンを誰かが押したように大きな音。店と人々の会話が耳に流れ込んだ。体も少しは動く。落ち着いて周りを見回すと俺は全く知らない女になっていている――
「何がどうなっているんだ!」焦るが思う様に体は動かない。自分の意思とは別に体が動き、心も俺のものではないようで、まるで誰かの中に自分が割り込んだようだった。とにかく把握しようと目の前の男の話の続きを聞こうとした。もしかしたら、何かわかるかもしれない、何か聞き出せるかもしれない。男は何も不思議に思わず俺と思われる女に話し続けている。
「麗奈、この間から話すって決めていたんだ。付き合って2年、やっと海外赴任から戻ってきた。約束通り結婚しよう。いや、結婚して欲しい」
優しく包み込む眼差しでこの女性にプロポーズをしている。すると俺の意思に反して勝手にこの女性が返事をしている。この女性の気持ちが痛いほど流れてくる。だが、俺の事は全く感じていない様だ。
「くそっ、話も出来ない、体も思うように動かない。ここはどこだか、この人達が誰だかもわからない」楓太が何とかしようと体を動かし続けていたら、また目の前の場面が変わる。今度は凄いスピードだ。まるでメリーゴーランドに乗っている様にグルグルと場面が変わる。一瞬しか見えていないのに、何が起こったのかどんな言葉を交わしていたのかが分かる。やはり先程のカップルの様だ。婚約をして結婚に向かっている楽しい姿。楓太にもこの女性がどれほど男性を愛していて、楽しい毎日を過ごしているのかが伝わってくる。
「一体、どういうことなんだよ」自分の体を見ようとするが見えない。俺はこの女性の中にいるのだろうか?余りのスピードで展開していくので混乱してくる。
その時楓太は気が付いた――
「これ、思い出?この麗奈って人の……俺が瓶を割ったから、思い出に触れちゃったから?」必死に店での出来事を思い出す。
だが、思い出そうとするけれど、この女性の記憶に飲まれていくように次の場面に強制的に楓太は立ち会うことになる。
「うぐっ……」楓太は心が苦しくなるのを感じた。苦しいのは心か、息ができないくらい苦しい。そして悲しさと寂しさ、自分に対しての怒りがこみ上げる。
「なんだよ、これ!」目の前には、この女性の婚約者の姿が見える。
ベッドで横たわっている。さっきまで見ていた男性とは別人のようにやつれている。だが優しい笑顔とこの女性を愛しく思う気持ちは変わらずにひしひしと伝わってくる。
「病院か……」女性の気持ちに割り込むように楓太は現状を把握する。
目の前の男性がこの女性に語っている。
「泣かないで……どうしてこうなっちゃったんだろう。僕は君を幸せにするって約束したのに、誰よりも愛して、一生守りたい君を僕が泣かせてしまうなんて……許してなんて言えないな」力なさげに彼女の頬に手を差し伸べる。
その手を握り、泣きじゃくる女性は必死に男性に自分の気持ちを伝えようとする。心配をかけまいと必死に笑顔になろうとする。言葉にならない彼女の気持ちはそのまま楓太に流れ込む。
苦しい――こんなに愛する人を失うことは苦しいのか。見ていられない、こんな感情を味わいたくない。必死で逃げようとするがどうにもできない。
「お医者様がね、あと少し頑張れば帰れるって言っているのよ」麗奈が男性に震えた声で、そして笑顔で一生懸命に伝える。
「無理をしないで、僕はわかっているんだ。君の嘘が見抜けないとでも?」かすれた声で笑った。
「僕は君の笑顔が好きなんだ、ずっと君を笑顔にしてあげたくて結婚を申し込んだと言ったのを覚えている?この先その笑顔を僕は見れない。でもね、僕がいなくなっても泣き続けて欲しくないんだ。僕が君を泣き顔にしたいわけないだろう?だから約束して……泣くのは今日だけって」
「嫌よ、笑顔にしてくれる約束なら、そんなこと言わないで。この先も笑顔にするっていって。一緒に帰るんだから!」麗奈という女性が泣き崩れる。
楓太の感情にまた、この感情が流れ込む。逃げ出したい!見たくない!いくら願ってもまだ楓太はこの女性の中だ。
「困らせないで、約束するんだ。僕は麗奈を心から愛している。誰よりも君の笑顔が大好きで、誰よりも幸せになって欲しい。泣くのは今日で終わり、麗奈、よく見て」そう言って彼は彼女に顔を上げさせる、そして優しく口づける。
「さぁ、約束するんだ。泣かないと、そして僕が君に残した思い出を綺麗に手放すんだ」
「何を言っているの?嫌よ、忘れるわけないじゃない!忘れられるわけないじゃない!!」彼女が叫ぶ。
「麗奈!頼む。僕を思うことで君が悲しみ、前に進めなくなるのは嫌なんだ、僕を誰だと思っているの?僕が死んだあと君が泣いて迷子の様になるのはわかってる。何度も言うけど僕は君を笑顔にしたい。君の笑顔が好きなんだよ。僕は……君が僕を心から愛してくれているのをしっかり感じている。この気持ちを持ったまま僕は逝ける。だから心配しないで、これを約束してくれたら僕は安心して逝けるんだ。最後のわがままを聞いてくれないか……」
麗奈は泣きじゃくりながらも話を聞いている。麗奈の彼への思い、彼への愛の深さ。失う事の悲しさと辛さ。彼からの願い。あまりにも重すぎる。愛してきたことを、愛しているなら忘れてくれと言っているのだ。亡くなっていく彼も愛しているのに。
――愛しているからこそ、残る恋人を幸せにするために自分を忘れて欲しいなんて!
他に方法はないのか?辛すぎる。彼女の葛藤が楓太の心に突き刺さる、辛すぎて痛い。
「ねぇ、麗奈。もう僕は苦しいんだ、もう傍にいてあげられない。触れることも出来ない。約束して、そして笑顔をみせて」もう声も聞こえにくい。看護婦たちが入ってくる。麗奈という女性は何かを決めたようで、必死で笑顔を作っている。その笑顔を見て全て伝わったのか、目の前の男性が呟いた。
「有難う、その笑顔で僕は安心して逝ける。愛している……」最後まで聞き取れないが愛していると言っていたはずだ。その男性の手に力が無くなった。病室には麗奈という女性の泣き声だけが響き渡った。楓太は彼女の気持ちが辛すぎて逃げ出したかった。早く帰りたい。
「誰か!助けてくれーー」楓太は叫んだ。
その途端ものすごいスピードで楓太は暗闇に吸い込まれていった。長く暗いトンネルを抜けるようだ。周りを確認しようと目を開くと暗いトンネルの中にゆがんだ人の姿や、キラキラとした夜空のような景色も見える。
楓太はもう今自分がどうなっているのかわからなくなっている。先程の恋人の別れの苦しみを体感し、次に何が起きるのかわからないのだから当然かもしれない。もの凄いスピードで息も苦しく意識が朦朧としてきた頃、この暗いトンネルの出口が見えてきたようだった。
眩しい――と颯太が感じると同時に激しい痛みがみぞおちあたりに広がる。
「げほっ、痛い……息ができない」全く今度は何なんだ!楓太は自分がどこにいるのか確認をしようとした。考える間もなく続けざまに激痛が走る。
「痛い、げぼっ、やめて!やめてください!」また、女性の声が聞こえる。
「なんてこった、また俺は誰かの中にいるのか?さっきのような感じで人の思い出を体験しなくちゃいけないのか?」体は自分のものではないけれど痛みは感じる。
なぜ殴られているんだろう?楓太は周りを必死で確認しようとした。すると目の前には、冷酷な気持ちが読み取れない、けれど恐ろしい目をした男の顔が近づく。そして女性の首を締め付ける。
「あなた、やめて……落ち着いて!私が悪いの、うぐっ……」女性の意識が遠くなりそうになる、そのまま体を床に叩きつけられ足で顔を踏みつけられる。
「やめてだと?誰に言ってるんだお前?飯を作って子供も寝かせて待ってろと言っただろ?誰が先に寝ていいなんて許可した?あ?」
「ごめんなさい」
「だからぁ……お前は謝り方も知らないのかって言ってんだ!バカ女め!俺に対してごめんだと?すみませんだろ!」もっと激しく顔を踏みつける。
俺は恐怖を超えて怒りが湧き出てきた。これがDVってやつか!この女性も踏みつけれて何故こんな風に謝れるのか楓太は疑問に思ったが、彼女の思い出が流れてきてその謎がすぐ解けた。彼女には守りたいものがあるんだ!
「すみません、許してください。すぐご飯も温め直しますから」必死で泣きながら謝り、男に平伏し許しを請う。
「けっ」ともう一度腹を蹴り隣の部屋に去る。
男をその女性の中から楓太は見つめている。楓太の中にこの女性の思い、思い出の全てが伝わる。恐怖、憎しみ、絶望。そして愛情。彼女の思い出の中から楓太は守らなければいけないものが子供だという事も。
それにしても、なぜここまでされているのに、されたままなのだろう?逃げないのだろう?警察に逃げ込めばいいのに。楓太は不思議に思った。こんなに痛い思いもしているのに……
だが、彼女の中でいくら思っても楓太は抜け出せないし、彼女に影響をもたらすことができないことは、先程の恋人の事で分かっている。ここで時間を潰してはいられない、人の思い出の中から抜け出さなければ。
でも、どうしたら……
今まで起きた出来事を楓太は思い出した。何か帰れるヒントはないものか?さっきは1つの出来事が終わったのでトンネルの様な所をすごいスピードで抜けてきた。トンネルに戻るには、嫌でも思い出を経験して終わらせないといけないのか?
あの瓶が割れて思い出に触れたことが原因ならば……確かに、瓶1つに1つの思い出なのだから、1つ完結すれば抜けれる可能性はあるかもしれない。
あのトンネルの様な所からルートを変えれるかもしれない。チャンスを見極めないといけないとなと颯太はこの女性の中で考えた。
DV男は眠ったようでこの女性も疲れ果ててソファでうたた寝を始めたようだ。すると以前経験したようにメリーゴーランドから思い出を見るようにいろんな情景が見えてきた。
あのDV男が笑っている、この女性も笑っている。幸せを感じているのが楓太にも流れてくる。男に対して愛情を持っていたのも確かなようだ。赤ちゃんを抱く男とそれを嬉しそうに見ているこの女性、確かに幸せな日々もあったようだ。次に場面が変わって激しい罵声が聞こえてくる。あの男の声だ、殴る蹴るの暴力だ、激痛が走る。
「止めてくれ、痛い!どうして殴るんだ!辛い!悲しい!誰か助けて!」楓太は女性の中にいるので思うように体を動かせない、耳をふさぎ体を女性と共に丸めるようにして震えていた。
場面はどんどん変わり、DVがエスカレートしていく。数か月に1度だったのに週に3回は暴力を振るい始めた男。恐怖ばかり楓太の心に流れ込む。暴力の思い出が続いていたある瞬間に、楓太の心に彼女のはっきりとした思いが伝わった。
殺してやる……
――えっ?楓太は女性の声を聞いた。
そう、これは彼女の思い出、確実に彼女が抱いた感情。楓太は今まで人と喧嘩をしてむかついたとしても持ったことのない感情。
殺意――
この思いに戸惑った。なんと突き刺さるような感情、胸が悪くなるくらいの負の感情。どんなものにも表せないような感情。だけど殺すという怒りの底にはとても冷静で寂しい気持ちがあるのも感じている。
これが彼女の思い出の1つと言うのなら……
まさかこの女性はあいつを殺したというのか?嫌だ、俺は人を殺す思い出なんて感じたくない、そんな気持ち知りたくもない――
「頼む!誰か!ユイさん!ここから出してくれ!」と叫んだ時、少しだけ楓太の意思でこの女性の周りを見回すことができた。
見回す事しか出来ないが、もしかしたら女性が寝ているおかげで意識の1部を楓太が使えたのかもしれない。
楓太が周りを少し眺めていると携帯の画面が光るのが目に入った。目をこらすと文字が次々に浮かび上がっている。
――ユイだ!
楓太は直感で思った。体は動かせないが何とか画面を見つめていると
「楓太君、多分このメッセージを今見ていると思う。楓太君は人の思い出の中にいるの。もうすぐしたら楓太君は長いトンネルのような所に吸い込まれる。こちらの世界に戻るチャンスはそこだから、そしてそのチャンスは次しかないの」
「次しかない?どういうことだ」楓太は焦る、そして携帯のメッセージは続く。
「思い出はあくまでも思い出の世界。思い出を無くしていない人が長い間いると思い出に取り込まれてしまうの。今は楓太君は自分を認識しているけれど、時間が経てばわからなくなる。そこから出れるチャンスは1度だけ。そして楓太君の戻りたい強い思いだけが頼り。お願い!自分を見失わないで!暗いトンネルに吸い込まれたら私が案内をするから、必ず戻るのよ!」 ――携帯のメッセージは消えた、戻るチャンスは1度だけ。
「マジかよ、チャンスは1度……」ぶるっと身震いする。
まったく何という1日だろう。楓太は今さらながら、自分のミスを恨んだ。だが、やるだけはやらなくては!ここから帰れないなんて、俺自身が無くなるなんて嫌だ!ユイの言う通りにして戻るんだ!ユイが手伝ってくれる。そう思うと俄然今の状況に立ち向かう決心がついた。
女性が目覚めようと寝返りを打った途端に時間が進んだようだ。
何が起きているんだろう?状況を把握するまでに数秒かかった。
手のひらがぬるっと生温かい、嫌な予感がする。目の前には先程の暴力男が目を見開いている。女性の髪を掴んで厭らしい笑いを見せつける。
グチュッ――
もう1度全体重をかけて、男の腹を刺す。筋肉に包丁が食い込む。包丁の持ち手のギリギリまで深く突き刺さり指も手のひらも血と男の肉が触れる。
俺は恐怖と興奮の入り混じった激しい感情が流れ込み震えた。これほど人を憎くむとは、人を憎む気持ちはこんなにも自分を醜くするのか。そして殺したこの爽快感。こんなことで爽快なんて感じたくない。しいたげられた苦しみとそこからの開放感。こんなこと有り得ない、俺には分からない。
わかりたくない!ああ、精神が崩壊しそうだ――その時足元に気配を感じた。
子供……彼女と共に見下ろし子供を見た途端に恐怖感がわいてきた。
それは失う事の怖さだ。愛するものを守るために殺した。だがその為に警察に捕まる。子供と離れる。犯罪者の親としてもう子供に会えないだろう。そこまでの覚悟。こんなにも曲がっているのに純粋な親の愛。現実を再認識したこの女性の激しい感情の波が押し寄せる。
「やめてくれ!耐えられない。苦しい。お願いだ、そんな目で見つめないでくれ!」どうかこの子供が幸せになるように――
彼女の激しい感情の波に押されながらも楓太は、はっきりと彼女と子供の会話を聞いた。
「ママ、抱っこ。パパはねんね、ママ泣いてる?痛いの、手が赤いよ」まだ、人が死ぬという概念のない無邪気で残酷な子供の声。
「大丈夫よ、泣いてないよ。たっ君はいい子だからさぁ、ママがお迎えに行くまで待ってられるかな?」
「どこか行くの?一緒に行く」
「たっ君は子供だから行けないの、ママはたっ君の保育園に行けないでしょ?あれと同じ。ちゃんとお迎え行くから、お利口だから待ってられるかな?」
「うん!」明るく答える子供。
もう耐えられない……なぜ、この解決しかなかったのか。今さら言っても仕方がない。すでに楓太は崩壊しそうだった、こんな感情、こんな思い出!
「うぁぁぁ――」力の限り楓太は叫んだ。
楓太君――
ユイの声が聞こえた気がした、その瞬間に楓太の全身が暗闇に吸い込まれる。
「うぐっ、息が苦しい」激しい勢いで吸い込まれるので息ができない。様々な声が暗闇の中から聞こえる。
ここは以前も抜けた記憶のトンネルではないだろうか?真っ暗な中に時折、人の姿が見える。声も聞こえる。すべてが聞こえるわけではないけれどこの思い出の持ち主に関わる人々の声。
それだとしたら――
これが抜け出す最後のチャンスのトンネルだ!楓太は必死で自分を取り戻す。
「ユイさんが言っていた、最後のチャンス。どこだよ、どこから抜け出せるんだ!」
吸い込まれて移動する俺は、まるで記憶の濁流に流されているようだ。掴むものも何もない、そのうえ暗闇だ。恐怖心が無い訳ではない、だが俺はここから抜け出したい。抜け出さなければならない。ユイが言っていた、長くこちらの世界にいると思い出に飲み込まれてしまう……俺は帰れないという事だ。
「ううっ、どこだ、次に俺はどうすればいい!ユイさん!」必死でユイの顔を思い出し声を絞り出す。その時、あの聞きなれたユイの声が聞こえた。
「楓太君、そこは思い出の持ち主の記憶のトンネル、凄いスピードだけど私がこちらに戻れるようにドアを作るから、楓太君はイメージを受け取って!」
「イメージって!どういう……」
「つべこべ言っている時間はないの!とにかく私のことを思い浮かべて、そこは思い出のトンネル。思念の塊でもあるの。イメージすればその通りのものが作り出せるわ、ただ、そこは楓太君の思い出ではないから時間は限られているし、邪魔が入るかもしれない。絶対に余計なことは考えないで、帰りたい気持ち、自分を信じる気持ち、そして忘れないで、これは命令よ、私に会いに帰ってくること!」
命令か――
帰れなくなるかもしれないのに、最後のユイのひと言で落ち着いたようだ。
「わかったよ!ユイさん!」どこかわからないが、向こうの世界のユイに返事をする。激しい流れの中、様々な感情の流れの中で俺は意識を集中した。
「帰るためのドア……」暗闇のトンネルの両サイドにキラキラ光るものが見えてきた。もっと集中する。感情の流れの中に少し異質な感情を感じた。
ユイだ――直感だが確信した、この感情はユイだ、ユイが送ってきている。もっと集中する。
キラキラしたものがドアに変わっていく。両サイドに数えきれないほどのドアが次々に現れた。後はドアを開けばいいのだが、でも、どのドアを開ければいい?どれを開けても帰ることができるのか?そもそも、この流れの中をどうやってドアまで行けばいいのだろう。
「ユイさん!ドアは見えたよ。でも沢山ドアが現れたんだ。どれでもいいの?」その時予想外の答えが返ってきた。
「えっ、沢山?楓太君、ドアが沢山なの?」とても不安そうな声だ。
「そうです、今トンネルの両サイドに数えきれないほどのドアが現れたんです」答えが無い。俺は急に不安になる。再度ユイに問いかける。
「どのドアでもいいんですよね、ユイさん」なんだか不安になるとドアが不安定になる。
不安になった瞬間に、俺にも変化が起きてくる。帰りたいのに何故か眠いような、どうでもいいような気持ちになってくる。これは思い出に飲み込まてしまう前触れなのか。必死で抵抗する。
「ユイさん!ユイさん!お願いだ、声を聞かせて、なんだか俺眠くなるんだ、ドアが……見えていたドアが不安定になってきたよ」
その時、木の蔦のようなものが俺の目の前に現れた。見るとドアにつながっている。これに摑まればあのドアまで行ける。かすかにドアも開いている。頑張らないと、帰らなければ。蔦を自分に引き寄せるようにすると、ドアの向こうから声がする。
「今日は早いのね、楓太」
「やりたいことは無いのか?楓太」
「楓太はお父さんに似ているけど、好きにしていいんだよ」懐かしい俺の家族の声。
なんで母さん達の声が聞こえるんだ、お祖母ちゃんまで。蔦を引き寄せよじ登り、ドアの前に立つ。ドアの向こうには懐かしい光景が広がる。懐かしさの光に包まれる。今までの事が嘘のようだ。安心する。久々の母さんの料理の匂い。疲れていたからか腹が減る。
「あれ、俺ここにどうやって来たんだ?帰ってきたんだっけ?」よくわからないけれど、考えなくてもいい感じがする。
「母さん、腹へった」俺はそう言いながら母さんの作る夕飯を待つ。出てくる料理は全て懐かしく美味かった。
疲れたからなのか体中が重く眠気が襲う。明日の事を考えても考えられない。――大学の講義はあったかな?バイトあったかな?なんだかどうでもいい……考えなくてはいけないかもしれないが、考えたくない。いや、考えられないのだ……どうでもいい、どうでもいい……
自分の部屋で横になろうと立ち上がった時に家族の視線を感じた。全員が俺を見ている。
「なんか、今日は俺さぁ、もの凄く疲れたんだ」そう言うと傍にいた父親が
「お前は毎日、頑張るからなぁ。よくそこまで何にでも力を入れて頑張れるな!これで父さんの仕事を任せても大丈夫だな」
「そうだね、楓太はやりたいと思う事をいつも一生懸命やりぬく、本当に偉い子だったもんねぇ。お祖母ちゃんも自慢だよ。」俺を見ながら2人が話す。
違う――
この違和感はなんだ、急に不安になる。 妙な汗が出てきた。両親と祖母が一気に俺に向かって微笑みかける。
違う!何かが違う。
だが、家族は変わらず微笑み続け、俺の事を褒め続ける。彼らの言葉が体に絡まりつくようだ。ねっとりとして、俺の違和感を飲み込むように。だが、俺の心は確信していた。ここは現実ではないと。何故なら、これは有り得ない光景だから。俺はお祖母ちゃんと一緒に暮らしていなかった――でも、どうすればいいのだろう。家族が俺を囲み、甘い言葉に包まれる。抵抗していられるのも時間の問題なのかもしれない。楓太は急に不安になった。
その時どこからか声が聞こえてきた。
「お前は、今まで何もやりぬいたことなんかねぇだろ!調子に乗ってるんじゃねぇ!ぼけっとしないで集中しろっ」聞いた事も無い男の声で恫喝される。
だがその声にはとても安心感を感じる、何故だろう、知らない男の声だというのに。しかもどこから聞こえているのかもわからない。
だが、目の前の家族よりリアル――俺の心がこの声が正しいと伝える。俺はさっき入ってきたドアを探して一気に外に出る。
「うわっ――」吸い込まれる。そうだ、思い出した。俺は人の思い出の中にいるんだ!抜け出さないと帰れなくなる、思い出に飲み込まれてしまうと誰かが教えてくれた。
俺に色々教えてくれた人だ、その人の笑顔と声が頭に浮かんだ!
ユイさん――俺は会いたい人を思い出した、そして声を出す。
その瞬間、暗闇のトンネルに不安定に見えていたドアがはっきりと姿を現す。
数えきれないほどのドアが現れるが、今の俺には自信があった。俺が帰ると決めること、俺が俺を信じること。ここは人の思い出の中で、思念で見たいものを作り出すことができる。
つまり俺が帰りたいと念じユイさんのイメージとつながると、ドアが本当に帰りたい所につながっているはずだ。その先は俺の帰る場所に決まっている――
「俺は帰る!帰ると決めているんだ、ユイさんのいるあの店に。俺はやり抜くことがあるはずなんだ、俺は帰るんだーっ」決めた瞬間に俺は流れから外れ、沢山あったドアが一つだけになった……
今、俺の後ろは「先程まで漂っていたトンネルがあり、凄いスピードで思い出が流れている。帰りたい気持ち、その一心でここまで来れた。次は帰る道がつながる、この目の前のドアを開けること。
その瞬間に俺は緊張する、怖い――
さっきみたいに違うところへ出たらどうしよう、ユイは最後のチャンスだと言っていた。さっきまでの自信が崩れそうになる。
そうなのだ、俺は今まで自分で責任を負うという経験がないのだ。今まで経験していた感情が俺を襲おうとするのがわかる。汗が出る、余りの緊張で吐き気がする。
「俺って、ほんとバカだよな。意気地なしだ」呟きながらドアノブを掴んだ。
「何ここまできて、ダラダラやってんだ、誰にだって初めての時は怖いもんなんだよ。帰りたくないのかお前は?それなら勝手にしろ、だがこれは最後のチャンスだ。」またさっきの男の声が聞こえる、ドアノブを回す手が震える。
「馬鹿野郎!開けろっつてんだ!」頭を叩かれるような声だ、そしてその後に
「楓太君早く!」明るい優しいユイの声が聞こえた。
ガチャ――
ドアを開くと先程とは違う光景だ。――光が眩しい、俺って帰ってこれたのか?
瞬きをしながら周りを見渡す。あぁ、見慣れた店だ。ユイの顔が見える。俺はそのまま気を失った。
チン――食器の触れ合う音がする。
いい香りだ、コーヒーか……ゆっくり目覚めて天井を見る。見覚えのあるライト。
――ここは?【おもいでや】?
「俺、帰ってきたのか?」自分を確かめたくて楓太は飛び起きる。
「うるさい、騒ぐと美味いコーヒーが台無しだ」見るからに不機嫌そうな顔をした男がコーヒーを飲みながら言う。
「あなたは?え……ここは【おもいでや】ですよね?」楓太は確かめるようにその男に聞いた。
「あ?そうだ。」その男はぶっきらぼうに答えコーヒーを飲み続ける。
この男は誰なんだろう、ユイさんは?そうだユイさんを探そうと、辺りを見回すと男がまた楓太に言う。
「ユイは今【うまうま】に行ってる。お前は【おもいでや】にいる。お前は人の思い出の中に入り込み、戻れなくなるギリギリで戻ってきた。だ、わかったか?」
人の思い出の中に……本当に俺は人の思い出の中にいたんだ。確かに体感したのに実感が無いような。掴んだのに掴んでいないような。人を刺したあの時の感覚を思い出し、自分の手のひらを見つめていた。
「あの女は自分の夫を刺殺した。お前も見たんだろう?DVでひどい目に合っていた。子供を守るために、生きる為に殺した」男が話し出す。
楓太は気になった、その女がどうなったのか?あの時の子供はどうなったのか?でも、聞いてはいけないようにも感じたので沈黙を続けていると、それに気が付いたのか、目の前の男が話を続ける。
「罪を償い、当然子供とは会えない日々を過ごした。出所してから女は何度も死のうとしたそうだ。子供を守るため、愛するものを守るために、その愛するものを手放す道を選んだんだからな。他に方法はなかったか後悔の毎日さ。会いたい、触れたいと思っても会えないわけだ。自分の母親が父親を刺殺したなんて誰も聞かせたいとは思わないよな」
「それで、その女性がここに来て、思い出を手放したってことですか?」
「多分、辛くて全てを忘れたいと願ったんだろうな。だから店が見えた」
「今、その人は?」楓太が聞くと男は
「そんなもん、知らねぇよ。俺たちの仕事は思い出の売り買いだけだ。その後の事まで料金に入ってねぇからな。ま、辛い記憶に関しては全てここに売っちまったんだ、何とか生活してるだろう」と、あっさり言う。
「気にならないんですか?あれだけ酷い目にあっていて――」全て言い終わる前に
「ここは、慈善事業じゃねぇ!生きていると辛いことも楽しいことも起きるのが常だ。ほとんどの奴は何とかそれに自分で立ち向かって超えていくだろう。それでも無理な奴はおかしくなるかもしれないし、自分で命を絶つやつもいるかもしれねぇ。でも、それも含めてそいつの運命だ、人生だ。そしてここの店を見つけて思い出を売るのもそいつの運命、人生なんだ。わかるか?だから俺たちは思い出を買う時にしっかり話を聞いて、教えるんだよ。思い出を売るという事がどういうことか」
「しっかり話す?」
「そうだ、青い袋を持ってくる客は聞いていると思うが人の思い出を取ってくるのが仕事だろ?その前に思い出を手放す客がいるわけだ。今の話なら、DVを受けていた客の事だ。そして思い出を売るってことはどういう事か教えてやるんだ、売りたい思い出には楽しいことも、それに関わることも含まれている。手放すと二度と戻らない。今までの人間関係もおかしくなることもあるだろう。それでも手放す覚悟があるのかと」
「覚悟……」
「生きるという事は選択の連続だ。簡単な選択も難しい選択もあるだろう。その度に覚悟も必要なんだ。この女性の場合は死ねなかった、生きるという事を選択した。そして生きる為にこの思い出を売る選択をした。うちはそれを教えてやるんだ」
「誰もが自分で選択をしている」
「あぁ、誰もが毎日選択の連続だ。お前たちは大きな出来事だけを選択と思いがちだよな、それは違う。人は朝起きてからずっと選択をしている。何を着るか?何時の電車に乗るか?ちゃんと選択をしているからこうやって生きているんだ、人生が出来上がるんだ。人は大きなこと小さなこと、良いこと悪いこと、そう言うような概念で物事を見るが、今起きていることは、ただ起きていることなんだ。そこに善悪などの概念はない。それを知っていれば自分で選択していることがわかっていれば、何か選択するたびに意識をするだろう。より良く生きることが自分で出来ると思えるだろう。不安な時、迷う時、それでも自分で選択しなければならない、あと必要なことは覚悟だな。少し乱暴な言い方だが……」
「自分で選択するから、その選択をより良いものに出来るなら、一生懸命考えるかもしれない、俺は何となくと言う感じで今まで生きていたかもしれないです、そうやって考えたら違う道を選択してたかもしれないですね、あの女性も……」
「確かにな、でもそれもアリなんだよ。周りから見てどうのこうの言うより、あの女が今回初めて自分で選択して生きるって決めたんだ。周りから見たら辛く見えてもな。思い出を手放すことを背負っても生きていこうってな……ま、お前は若いんだからいいんじゃないか?こうやってここで色々と見ていたら、ほかの奴の倍で成長できるぞ」と初めてその男が笑った。
その時、あの声が響いて俺に突進する。
「あーっ、楓太君目が覚めた!良かった!」思いっきりぶつかられ、ぎゅっと抱きしめられる。
「ちょっと……ユイさん、さすがに苦しい」抱きしめられるというよりタックルに近い、もごもごしながら離れると
「だって、本当に心配したんだよ!音がしてあの部屋を見に行ったら倒れててさ。人の思い出が楓太君に入り込んでいることはすぐにわかったけど、そんなこと初めてじゃない?慌てまくってパニくっていたら、オーナーが偶然にお店に来たところだったの」そう言って男の方に顔を向ける。
「へ?オーナー?」そうだ、俺は誰かと尋ねようとする前に話をしていたんだった!
「そうだよ、ここのオーナー!如月爾さん」ユイが教えてくれる。
「すっ、すみません、きちんと挨拶も出来ていませんでした!櫟楓太です」
なんとも不格好な初対面、初挨拶になってしまった。その様子を見てオーナーと言う男はニヤリと笑い、ユイにコーヒーのお替りを頼んだ。ユイが急いで席を立つ、背の背に向かって
「こいつの分も淹れてやってくれ!あと、お前の分もな」
「あっ、はーい!すぐ用意しますね」とユイが出ていく。
オーナーは、素気ない口ぶりだが優しい声だ。確かに、俺が思い出の中で動けないときに聞こえた声もこの人だ。あの時、俺を叱りつけていたのに優しさと安心感をを感じた。だから信じて動けた。
そんなことを考えて彼の顔を眺めていたら、視線に気づいたのか
「なんだ?見つめるな、気持ち悪い。女以外に見つめられるのは慣れていない」と言い放つ。
「俺だって、そんな趣味は無いですよ!な、何言っているんですか!ただ、あの時にオーナーの、如月さんの声が聞こえて、叱ってくれて戻れたんです」と言うと
「俺のはきっかけだ、お前が帰りたいと心から思ったから帰れた。何かやりたいことがあるんだろ?心の隙間が埋まりそうな、いや、埋めたいって思ったから帰れたんだ」
「え?何で俺の事がわかるんですか?」
何か続きを言おうとするのか、如月の口が開きかけたが、その口は元の整った、それでいて不敵な笑みをのこす形に戻った。
コーヒーの香りとともにユイが戻ってきた。
「お待たせしました」それぞれに配られる。
「はーっ、美味い」やっと本当の味が戻ったようだ。オーナーは何も言わず、コーヒーを飲んでいる。それをニコニコと見つめるユイ。
最初に口を開くのは当然ユイだ。
「もうさ、心配させないでよね。あの時オーナーがいなかったらヤバかったって。連絡しなきゃとか思っているのに、私ったら体も頭も動かなかったもん」
「本当に、ゴメン。オーナーも、本当にすみませんでした。」俺は二人に謝罪した。
オーナ―はコーヒーを飲み終え、俺たちを見た。
「美味かった、ユイ、後は任せる。あとお前だ!櫟楓太、いつも助けてやれると約束はできないからな。ボケっとすんなよ!」と言い席を立つ。
ユイが言うようにオーナーは男の俺から見ても、本当に背も高く格好が良い、男らしいが優美だ、そして何よりも妖しさをも感じる。そのオーナーが店を出る間際に「お前の心の隙間が埋まるといいな、そのために帰ってきたんだから」と囁いた。
「はっ、はい!俺頑張ります」もっと気の利いた言葉を返したいのだが、これしか出ない。
ユイと2人でオーナーを見送った。
ドアを閉めて何気にユイと目が合った。ここでも先に口を開くのはユイ。
「はー。ほんまオーナーカッコいいわ」これはユイの心の声だ、関西弁モードになっている。心の声が声に出てしまっているけれどそこがユイらしい。
俺がニヤニヤしていると、気が付いたのか少し赤くなり
「な、何よ。変なこと言ってないじゃない、見た目も相変わらず格好いい。楓太くんはここでは気を失っていたから見ていないけどさ、慌てる私に次々と指示をしてくれて……どれだけ安心できたか。あー、何歳なんだろう?彼女なんていないよね?ね?楓太君、彼女いないよね?」
何でそんな話になるのか、そこがユイらしさなのだけど、俺もつい面白くなってしまい
「確かにミステリアスだし格好いい方ですね。あんな人がいたら、誰も放っておかないんじゃないかなー」とユイに言うと
「え!やっぱり!どうしよう?モタモタしてたら駄目だよね。アタックあるのみ?そんなの緊張してできないよ、気配り仕事のできる女?家庭的な女?」
「知りませんよ!もう、落ち着いてください。でも、俺はユイさんはそのままでいいと思います。そのままの、どこにも同じ人がいない、俺の目の前にいるユイさんでいいと思いますよ」そう言って自分でも驚いた。
今まで人に対して興味を持つ事も無く、自分の心のままに気持ちを伝えたことがなかったからだ。気が付いた途端に気恥ずかしくなってしまい
「さ、ほら準備しないと!いつもの忙しい時間が始まりますよ」恥かしさを隠すように店の準備を始めた。その様子を面白そうに見ているのは先程まで騒いでいたユイだ。
颯太の背中を見つめニッコリ笑い
「本当だ!もうこんな時間。準備準備!今日も頑張ろうね」と持ち場に戻る。
俺の経験したことは、誰に言っても信じてもらえない話だ、でも本当に起きていた――
ここではそんな不思議が待っている。辛いことも楽しいことも、どうせ生きるなら全身で感じて生きてみたい。逃げ出すこともあると思う。でも、オーナーが言うように、自分で選択して進んでいきたい。
まだ俺には分からないことばかり、経験だって足りない。満たされた感がわからないからこそ、満たされたいし、自分で熱くなったことも、やりきった感も知らないからこそ知りたくてここに戻ってきたんだと思う。
欲しいものは欲しい、経験したいことは経験したい。今まで正直に自分の気持ちを出していなかったのかもしれない。すべての原因を外に作っていたかもしれない。まだまだ未熟だ、それで当然なのだ。だからこそ人は求め、そこに向かって進んでいく。進化していくのだ。
人生は自分で作っていける。オーナーが言うような覚悟が常に持てるのか今は自信が無いけど、少しだけわかった気がする。本当にほんの少しだけ……
顔を上げ、時計を見ると忙しくなるアノ時間まであと少し。
ここで働けば俺が知りたいこと、求めていることの何かがわかる予感がした。これからここで起きることを考えるとわくわくする。足音が聞こえる、今日のお客様第1号だ!
「いらっしゃいませ、占いですか?それとも青い袋の持ち込みですか?」