こんな夢を観た「永遠に失われた言葉」
町の図書館から、「日本語大辞典」という、とても重要な文化財が盗まれてしまった。
「なんとしても、『日本語大辞典』を取り戻さなくてはなりませんよ、むぅにぃ君」志茂田ともるが毅然として言う。「あの本に書き並べられている語を消されては、世の中からその言葉が消えてしまうのですからね」
すでに、「牛肉をこね、固めて焼いた」あの料理の名前が失われてしまっていた。ファミレスで、それが頼めないとなると、とても困ってしまう。
「わかってるけど、手がかりがないんじゃなぁ」早くも、わたしは挫けそうだった。
「手がかりならあります」
「えっ、どこに?」
「古本屋ですよ」当然、そうに決まっている、と言わんばかりの口調である。
「なんで、古本屋?」わたしは聞いた。
「あれだけ厳重な保管室から奪われたのですよ。とても、人間業とは思えません」それが志茂田の答えだった。
「図書館で働いている人とかは? だって、あの部屋へ案内してくれたのって、受け付けの人だったじゃん」
「あり得ませんね」一蹴されてしまう。「図書に携わるというのは、単に整理し、管理することではありません。言霊を預かるに等しいのです」
「そういうものなんだ……」いつにない重々しい言葉に、自分がただの愚か者に思えてきた。
「この辺りで、一番大きな古本屋、そこを当たってみましょう」
この町に古本屋は何軒かあるが、図書館に近く、大きいと言えば、最近できた、あのチェーン店だ。
「ブッキング・オフか。あそこなら、色んな本が揃ってそうだね」わたしはうなずいた。
黄色い看板が目印の中古本専門店に入るなり、店員総出で、「いらしっしゃいませーっ!」の盛大な歓迎を受ける。
「相変わらずだよね、この店って」とわたし。正直なところ、少々うんざりしていた。
「専門書コーナーへ急ぎますよ、むぅにぃ君」そう言うと、志茂田はさっさと2階へ駆け上がる。
「なんていう本を探せばいいの?」わたしは尋ねた。
「いいえ、本ではありません。『入り口』を探すのです」
「入り口って、今、入ってきたじゃん」
「店のではなく、秘密の入り口です。『日本語大辞典』は、きっとそこにある、わたしはそう踏んでいます」志茂田は自信たっぷりに言った。
「それって、どんな入り口?」
志茂田は、奥の「この先、18歳未満の方はご入場いただけません」と書かれたブースへ向かう。
「ちょと、志茂田。そこは――」わたしは慌てて、引き止めた。
「わたしの勘に狂いがなければ、この先に違いありません」断固とした態度で入っていく。内心、単なる好奇心ではないか、と勘ぐった。
入り口の前で待っているのはもっと恥ずかしいので、仕方なくついていく。
パーティーションの脇に、店員が1人立っている。わたし達を見るや、立ちふさがるように前へと進み出た。
「お客様、この先は立入り禁止です」
「わたし達が18歳未満に見えますか?」志茂田は穏やかに答える。
「ですが、今日はダメです。えーと、その……。そう、棚卸しがあるんです」
驚いたことに、志茂田はいきなり店員の腕をつかみ、捻り上げた。
「ウソを言ってはいけません。このチェーン店の棚卸しは月末のはず。今月はまだ、始まったばかりですよ」
「イタタッ、何するんですか、お客さん! 放して下さいっ。さもないと、警察を呼びますよっ!」店員は悲鳴を上げる。
「それは好都合」志茂田はわたしの方を向き、「むぅにぃ君、警察に電話をして下さい。ここに、『シミ』が1匹、紛れ込んでいる、とね」
「シミ?」何がなんだか。
「この男は店員などではありません。シミです。古本に憑く妖怪ですよ。古本が多く集まれば集まるほど、こやつらは力をつけるのです」
店員は、薄ら笑いを浮かべた。
「なんだ、ばれちゃってたのか。だけど、この先にゃ行かせないよ。結界があるんだ。通れるもんか。そして、このオレ様も、みすみす捕まってはいないのさ」
そう言うと、体がすうっと透けていく。
図書館へは、こうやって侵入したのか。
「これを見るんです」志茂田は、後ろポケットからカード・ケースを出した。妖怪シミは、イタズラを見つかった子供のように、ドキッとした顔をする。
「お前、図書委員長だったのかよっ!」消えかけた体が、再び実体へと戻った。
「しょせんは本の虫、元の姿に戻りなさい」志茂田は、カード・ケースで九字を切る。シミは、煙と共に消失した。
「死んじゃったの?」わたしは言った。
「足元をよくご覧なさい。それが、正体です」
床の上を、銀色をした小さな虫が這っていく。
「ゲジゲジみたいなのがいる」
「ヤマトシミです。古本を食い荒らす害虫ですよ」
ヤマトシミは、本棚を登って、手近な古本の隙間に潜ってしまった。
「逃げちゃったよ、志茂田」
「放っておきなさい、むぅにぃ君。もう、ただのちっぽけな生き物です。命まで取ることもないでしょう」
シミが本来の姿に戻ったことで、結界が解けたらしい。これと言って抵抗もなく、奥へと行くことができた。
「何これっ、壁一面、文字だらけ!」わたしは目を見張った。部屋の真ん中に置かれた机には、古くて大きな革表紙の本が置き去りにされている。
「ああ、これこそまさしく『日本語大辞典』ですよ」志茂田は本を開いた。「だいぶ、文字が抜かれてしまっていますね。壁に貼ってあるのが、そうなのでしょう」
「あっ、あれ、あの文字。読めないけど、見覚えがある」わたしの頭の中には、「牛肉をこねて固め、ジュウジュウと焼いた」料理が浮かぶ。
「むぅにぃ君、それを壁から剥がして、この本に重ねてみて下さい」志茂田が指示する。
言われた通り、爪の先でめくって、シールのように剥がす。それを本の上に置くと、染み込むように消えていく。
「あっ……」突如として、忘れていた記憶が蘇った。「そうだ、『ハンバーグ・ステーキ』」
「シミめ、『言葉』を乾燥させてから、じっくりと味わうつもりでしたね。さあ、むぅにぃ君。手分けして剥がしにかかりましょう。剥がす時、文字をあんまりじろじろと見ないよう、手際よくお願いしますよ」
何百、何千もの「言葉」を、わたし達は片っ端から剥がし、「日本語大辞典」に戻していく。
それにしても、こんなにたくさんの言葉を、一時的とは言え、失っていたのか。案外、不自由しないものだなぁ。
とある「言葉」がわたしの注意を惹く。本に戻していないので読めないが、陰鬱で、ひどく嫌な感じがする。
「むぅにぃ君、手が留守になっていますよ」志茂田が声をかけるが、よほどぼんやりしていたらしい。まったく、耳に入っていなかった。
「むぅにぃ君っ、そら、文字に見入ってはいけないと言ったはずですよっ!」そう怒鳴りつけられ、ハッと我に返る。
見ている目の前で、その「言葉」がどんどん崩れていく。そしてついに、どこの国の文字でもない、絡まり合った糸くずのようになってしまった。
「えっ、どういうこと?」取り返しのつかないことをしてしまった、という恐怖が湧き起こる。
「ゲシュタルトの崩壊ですよ」志茂田が静かにつぶやく。「もう、その『言葉』はこの世には存在しません。いったい、何を消してしまったのです?」
おろおろと、わたしは考えつく限りを述べる。
「確か、国と国とがいさかい合って、武力で相手を攻めたり、攻め込まれたり……」
「なるほど、なるほど。わかりました、あの言葉ですか。人間の作った中で、とりわけ愚かなものの1つですね。消滅してくれて、いい厄介払いができましたよ」




