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イカれた小鳥と壊れた世界  作者: 左高例
32/35

31話『冷たい方程式』

 元の世界に帰れるのは小鳥かアサギのどちらか一人だけ……

 そんな選択を迫られた昨今、どこを向いても視界の数割をオッサンの幻覚が占拠している絵面が小鳥には見える。まあ普通に気にしないように会話とかしているけど常に今回はオッサンが場面にひっそりと自己主張しているということを意識して欲しい。



 *******



 イカレさんの告げた事実に食って掛かるように言葉を返したのはアサギだった。


「一人しか帰れないって──どうにかならないのか」

「どォにもこォにも。召喚陣に残った魔王の魔力を使い切って送るんで、ここには一人分しか残ってねェし」

「こう──小鳥ちゃんは体重軽いから肩車して一人分とか誤魔化すとか」

「無理抜かせ。体の中の細菌とか微生物とかならまだしも、んなことしても明らかに二体分にカウントされるって。やりたけりゃ道具袋にでも入れろ」

「人間は無理だ──太刀魚とかなら入るのに。はっ、小鳥ちゃん実は先祖に太刀魚とかいたりしない?」

「わかりましたから落ち着いて下さいアサギくん」


 どんどん思考が妙な方向へ行くアサギを制する。

 ちなみにマジックポーチに自然に存在する生きた動物は入れられないが太刀魚は何故か入る。多分ポーチの機能が太刀ということで武器に分類しているのだろう。頑張れ太刀魚。

 とりあえず落ち着かせるために甘いチョコレートのようなものをアサギの口に突っ込んだ。口に広がるまろやかな甘みにクールダウンする。まあ、実は食品ではなく甘く味付けをした粘土なのだが。

 

「ここは慌てずに、二人で帰れるトンチ的裏テクを探そうではありませんか。これまで正しい道を歩いてきたわたし達です。何らかの解決策が発見できるフラグがあるはず」

「そ──そうだな」


 粘土を飲み込みながら頷く。

 む、と一瞬考えてアサギの視線は、早速ダルくなって携帯寝袋に入り始めたイカレさんの上に止まっているヴェルヴィムティルインへと移った。


「そうだ──そいつが時間を戻す事ができるのならば一度片方を送り出した後に時間を戻し──召喚陣を再使用可能にすればどうだ」

「はい無駄ァ。さっきも言ったが使った魔力は戻らねェのコイツのリターン。つーか考えればわかるが、時間戻したら多分送還した奴も戻ってくるぞ」

「召喚陣が使用不能になるだけで状況は何も変わらないわねー」

「ダメか──」


 肩を落とす。

 小鳥が質問の声を上げた。


「召喚陣の魔力が少ないのが問題ならば、補充とかできないのですか?」

「召喚属性が違ェからなァ。俺の描いた召喚陣は俺しか補充できんし、魔王の描いた召喚陣は魔王にしかできん」

「なるほど……」

「例えばかつて死んだとされる魔王が実はこっそり雲隠れしてどっかで引き篭もりつつ漫画とか読んでだらだら過ごしてるってんならそいつ引っ張ってくりゃいいんだが。そんな異世界召喚術を隠しつつ暮らしてる知り合いなんかいねェ」

「……?」


 小鳥は疑問符を浮かべ、口元に指を当てて考えるようなポーズを取った。

 イカレさんの言葉に小鳥の持つイベントフラッグがチカチカと光る反応をして、彼女の視界にのみ小さく選択肢が映ったのだ。アイテムの効果だが、何の意味があるかはわからない。

 特に誰にも告げずに小鳥は頭に、その発言を掘り下げるべきか、全く関係ないと決め次の話題に移るべきか、それともお腹が空いたので夕飯にするか選択肢が浮かんだ。

 現実的なものを選ぶ。


「そうですね、そんな素振りを見せた怪しいキャラなんて今まで登場してませんでした」

「もしくは……そーだな、昔切り落とされたっつゥ魔王の左手。その骨でも残ってりゃさっきやったみてェに魔力を抽出できるが、んなもん持ってねェし」


 再度選択が脳裏に出現。小鳥はわけがわからないとばかりに首を捻った。

 イベントフラッグは何らかの重要な方向性を示しているのだろうか。ならば選択を間違わないようにしなくてはいけないが……事前にセーブしておくのも良いかもしれない。小鳥は即決する。


 ・骨といえばなにか道具があったような気がした。

 ・小学校の頃漢字の書き取りで「骨」を400回ぐらい書かされてゲシュタルト崩壊した記憶が蘇る。

→・今はそんな事は重要ではない。話を進めよう。

 ・今すぐおゆはんを食べなさる。


 特に悩みもせずに。大事なのは足踏みをすることではなく前に進むことなのだと信じて。


「確かにそんな曰く有りそうなアイテムなんて登場してませんでした……」

「当たり前だ。んなご都合主義があってたまるか」


 軽く馬鹿にしたようなイカレさんの言葉。再び小鳥の視界に『本当にその選択でいいですか? y/n』という選択肢が出現したがいい加減鬱陶しいのでイベントフラッグを軽く折ったら、光の粒子になって旗は運命力を霧散させ消えた。

 視界にオッサンがちらつき過ぎて面倒になっているのかもしれない。

 落胆したような吐息と共に小鳥は言う。


「現状では八方塞がりですか」

「なにか──なにかあるはずだ」


 アサギが深刻な顔で考えながら、焦れるように声を荒げた。


「ご都合主義でも安っぽい奇跡でもなんでもいい! ここまで来たんだからなにか方法があるはずだ──!」

「アサギくん……」

「いつもの奇抜な発想でなにか思いつか無いのか──小鳥ちゃん!」


 狼狽して小鳥に縋るような声をかけるアサギ。

 彼がこんなに窮している状態を見るのは初めてだった。いつもはずっと冷静で、一人の力で解決策を練っているように見えていたからだ。

 見つけた希望の芽を摘むわけにはいかない。

 全員揃えばラスボスのヴェルヴィムティルインだって倒せたではないか。今までにこの状況をどうにかする伏線があったはずだ。思い出せ。考え出せ。無ければ創り出せ。

 小鳥も真剣になり、頭の中で僅かな可能性でも希望を見出そうとシミュレートして、告げる。


「……あっちゃーこりゃダメっすわ。えへへ」

「あっさり諦めないでくれ──!」

 

 まるで解決策が浮かばなかった。

 諦めは甘美な誘惑だ。なにせ甘くて美しいのだから逆らう必要性すら無い。ようこそ、主義者たちの楽園へ。

 納得がいかない敗残者ことアサギは頭をがりがりと掻き毟った。

 諭すように言う。


「いいですかアサギくん……もはやわたし達に手はないのです。幸せなキスをしてハッピーエンドにはなりません。人生において選択しなければならない時というのは、確実に存在するのです。犠牲が出た時点で幸せでないといいますが、それは違います。自己犠牲こそ最も幸せを得る手段なのです」

「──あれ? なにか思考を誘導されてない──?」

「結局この場で大事なのは、どちらかでも目的を達成することなのです。わたしが帰るか、アサギくんが帰るか……」


 数メートルの距離で対峙しながら小鳥はどこか沈んだ様子のアサギに、宣告する。


「こうなればやむを得ません。常に勝利者は一人でしかいないのでして、しかし仲間のよしみ。穏便にどちらが帰るか交渉しましょう」

「──とりあえず小鳥ちゃん───その肩に担いでいるバズーカを下ろそうか」


 呆れたようなアサギの言葉に、とりあえず構えたやる気満々バズーカ砲を道具袋に戻す小鳥。この場合のバズーカは、早朝バズーカをもっとすごくしたものだ。

 奇襲は失敗した。だが外観からは分からないがキニーネ系の猛毒が塗られている手裏剣や針をいくらでも隠し持っている小鳥は「うふふ」と不敵に笑い構えを崩さない。

 小鳥の言うとおりどちらか一方の意見を通さなくてはならない対立状況にあるならば、相手との武力交渉も視野に入れなくてはならない。それが譲れないことなら尚更だ。

 はっきり言ってアサギが舐めプレイしてくれて一瞬の隙で仕留めなければ勝算は薄い。光の早さに追いつく魔剣士と戦うには、多少覚悟を決めた女子高生程度では月とすっぽん、黄金と青銅以上の開きがある。

 露骨に警戒している小鳥を見て、アサギは浮かない顔のまま溜息をついてこう言った。

 とても残念そうに。諦めるように。投げ捨てるように。もはやどうでもよさそうであり甘美な誘惑が自分の魂から離れるのを感じながら、こう言った。


「──そんな事しなくても君が元の世界に戻るといい。オレはまた次の機会を──探すさ」


 と、一方的に権利を放棄するのであった。

 13年間探し続け求め続けた帰る手段を譲る。様々な感情と小さな満足をごちゃまぜにしたような、下手くそな笑い顔を浮かべながらそう告げた。

 いつも何か、奇抜なことを考えて解決出来る小鳥が無理というのならばそれはそうなのだと云う無駄な信頼感があった。

 思えば、彼女を中心に物語というものは進んでいた気すらする。小鳥と出会う13年間、ヒントすら見つからなかった異世界の扉が今こうして目の前にあるのも──自分の努力や頑張りではなく、彼女に引き寄せられていたのだろう。

 そう思うと、諦めもついた。

 自己犠牲は幸せだというのならば。少女一人を自分の諦めで助けられるのならばそれもいいと自分の気持ちにそう言い聞かせる。

 アサギは枯れて散ったような思いをしながら、それでいて当然のようにそう言ったのである。

 その言葉に小鳥は、


「アサギくんがそう言うのはわかってましたが──帰るのはアサギくんの方で、わたしがこっちに残りますが何か?」

「──はあ!?」


 心底理解が出来ないといったようにアサギは疑問の声を上げた。




 **********




「やっだーあんた綺麗な指してるじゃないのよ。マニュキュア何使ってるのー?」

「『アリアンロッド』の26番『ピンクパール』ウサ。ピアノを弾くのも考えて鍵盤の色から映えて丁度いいウサ」

「いいわねー我も早く外にでて街に繰り出したいわー口紅の新色出てるかしら」

「テメエの嘴に何を塗りたくるってんだよボケ」


 とか二人と一羽は適当なところに座ってどうでもいい雑談をしているのだが、少し離れたところではアサギと小鳥がどちらが帰るかを──両方相手に譲りまくる形で口論をしていた。

 

「何を言ってるんだ小鳥ちゃん──君には待っている家族があるし学校だってあるだろう──このままじゃ留年だぞ──帰りたくないのか?」

「いやですね、帰りたくないのかって問いはそのままブーメランですよ。アサギくんだって心底帰りたいはずなのに」

「いいから君は早く帰るんだ──オレは大人で──君は子供だ──それだけで君に譲る理由になる──子供を助けるのが大人の仕事だ」

「年功序列ですよ。わたしはまだこっちに来て半年ですし、13年間耐えたアサギくんに譲るのが当然です」

「これを逃すと小鳥ちゃんが帰れなくなるかもしれない──だから──後はこの世界に慣れたオレが自分の力で帰る方法を探すから──ここは君が帰るんだ──」

「13年も時間を無駄にしたアサギくんが方法を探すと言っても説得力皆無ですよ、むしろわたしの方がいろんなコネとかで他の方法を探せるでしょう」

「待て待て──」

「いえいえ」


 平行線の議論を遠目で見ながら、まっずい干し肉を齧りつつイカレさんらは呟く。


「テキトーにアミダで決めりゃいいのに」

「個人的にはパンツレスリングが見たいウサ」

「剣で戦ったらどうかしら」


 意見を出すが実用的ではない。

 そもそもイカレさんにとってはどっちが帰っても別に構わない程度に思っている。小鳥はうざったいサイコだし、アサギは嫌味な金持ちだ。

 同時にどちらが残っても適当につるんだ関係で居られる。小鳥は役に立つ飯炊きで、アサギは時々話の会う数少ない男友達である。

 だとすればどちらが元の世界に帰るかは当人同士の話であり、それに意見するつもりも助言するつもりも無かった。

 パルも出来ればハッピーエンドがいいとは思うものの、どちらが残ってもセクハラ相手になるのでそれはそれでステキステキだと考えている。

 外野の思惑はともかく、アサギは早口で彼女を説得しようと捲し立てた。


「いいから君が使え。オレは元の世界になんて帰りたくない。日本でのオレは、無職で高校中退で30歳のプーだ。ここじゃ竜にも乗った。伝説の剣も使えた。百万もするポーションだって自由にできた。だけど日本では駐車場の警備員にすらなれないんだ。碌な思い出も日本には無いし、家族仲だって崩壊中だったなそういえば。だからオレはもうこの世界で生きることに決めた」

「これはまた唐突な嘘ですね」


 ゆっくりと歩いて小鳥が近寄った。 

 僅かに半身を引いてアサギは苦々しい顔をする。


「今更口だけ、帰りたくないなんて言っても信じるわけないじゃないですか。一番帰りたかったのはアサギくんでしょうに」

「──そんな事はない。オレは、この世界でも有名な冒険者だ。金もある。竜召喚の女の子とだって仲良くなった。ドワーフ犬耳幼女を膝に乗せるなんてプレミアム体験元の世界では味わえないぞ。リア充バンザイだ。別に帰らなくても──」


 手を伸ばせば届くような距離で立ち止まり、言い訳のようにもごもごと喋るアサギに向けて言う。


「アサギくんの着ている学ラン。ボロボロになっても何回も直して繕って、大事に着続けています。

 時々歌を口ずさんでましたよね。懐かしい日本の歌を。

 わたしによく和食をリクエストして嬉しそうに食べていました。

 映画の続編のネタバレをすると聞かないように逃げまわりました。いつか自分で観るために。

 妹さんの話をする時はとても優しい目をしていました。

 どれもこれも、元の世界を忘れていないということで──アサギくんのそんな思いは知っています」


 だから、と続ける。


「わたしを帰すという義務感で、大事にしてきたその思いを無為にしないで下さい。帰りたくないなんて嘘で、自分を諦めさせようとしないで下さい」

「でもそれは──仕方ないじゃないか!」


 アサギは叫ぶ。


「二人では帰れないんだ! なら女の子に、子供に──君に譲るべきだ! ここでオレが、君から帰る権利を奪い取っても与えられても納得はいかないぞ!

 元の世界でも一生、君を犠牲にした過去に縛られるだけだ! オレは優しさとか義務感で君に譲るんじゃない! オレが、嫌なんだ! 君を犠牲にしたらオレは幸せにはなれないんだ!」


 日本に帰りたい気持ちを強く彼は持っている。

 その思いは、小鳥よりも遥かに強いだろう。13年間、誰も信用せずに危険に身を置き続けても思いは摩耗せずに強くなっていった。

 家に帰りたかった。

 随分と白髪の増えた父親が新聞を隅まで読んで自分の情報が載ってないか探しているのを見た。

 料理の下手な母親が、未だにテーブルの自分の席に陰膳を置き、戻ってくるのを待っているのを見た。

 成長した妹が昔自分の膝の上で見ていた映画を一人ぼんやり見ているのを見た。

 自分は使わないと小鳥に話したが、魔剣で異世界の光景を彼は見ていた。見る度に──帰る決意を固めながら。

 だが。

 彼は見てしまった。

 小鳥の父親が彼女を心配して倒れるほど疲弊しているのを。母親がそれを看病しながら小鳥が帰ってくるのを待っているところを。

 そして小鳥がその光景を見て、少しだけ目に感情を浮かべ帰るという意思を告げたのをアサギは見て。

 もはやその時から、こんな状況に陥った時に選ぶ選択肢は他に無かったと思える。

 小鳥は諭すように告げる。


「大丈夫ですよ、アサギくんが先に帰っても、わたしは必ず後から日本に帰る方法を見つけますから」

「そんな確証は無い──! だから」

「ふう」


 疲れたように息を吐き小鳥は肩を落としてだらりと両腕を伸ばした。 

 訝しげに思った瞬間、刃が閃いた。

 手首のスナップだけで下方から単分子針がアサギの体めがけて飛来する。目視することすら困難なほどに細く、かつ服程度の繊維ならば抵抗すら無く貫く針が複数、1メートルほどの距離から放たれたのだ。

 少しだけ油断していた、意外な攻撃だったがアサギは咄嗟に後ろに飛び下がりつつヴァンキッシュで電磁障壁を展開。超電磁の網が針を絡めとる。 

 彼の着地と同時に複数の棒手裏剣がズボンの裾と地面を縫い止めた。


「──影縫い!?」


 なんか漫画とかで見る特殊な技を仕掛けられて困惑し判断が遅れる。

 周囲に追撃の風切り音。極細で肉すら切れるワイヤーが巻き付くように触れるのを感じた瞬間、魔剣で切り払った。僅かに滴る鋼線には毒らしき薬品が付着しているようだった。

 続けて発砲。小鳥がどこからか取り出した銃が火を吹き、彼女特製の神経弾が動きの止まったアサギに打ち込まれる。直撃すれば神経伝達を阻害する特殊な薬品が使われている弾丸で猛獣すら動けなくなる。

 混乱の最中にありつつ、アサギは距離を取るために無限光路を使用して短距離転移。下手に切り払うと破裂して神経毒をバラ撒くものだと事前に知っていた。

 わけがわからないとばかりに怒鳴る。


「何をするんだ──!」


 応える。何を考えているか、全く理解できない瞳を向けて。


「アサギくんが自発的に帰るのも嫌、わたしから譲られるのも嫌。ならばわたしはこうします。『アサギくんをやっつけて、無理やり元の世界に送り返す』」

「なん──だと──?」

「さあ、ラストバトルの開始です。イベントバトルなのでわたしが勝ちますが。アサギくん、負けたなら仕方ないと諦めて下さいね」


 当然のような顔をして、意味不明な事を言う小鳥。アサギは解せぬという顔をしながらそれでも魔剣を構えた。

 勝利者がこの世界に残り敗者が元の幸せな生活を取り戻す。お互いの主張は同じであり、それが故に対立を起こす。

 魔剣士と女子高生の最後の戦いが始まった。





 *********




 終わった。

 いや、正確には始まらなかった。


「──いい加減にしろよ小鳥ちゃん。オレは結構ムカついてるんだぜ」


 アサギは歩いて近くの召喚陣に近寄り、持っているマッドワールドの切っ先を足元の召喚陣に向けながら荒い声を出した。

 

「素直に元の世界に帰るんだ。さもなければ──この召喚陣を破壊する」


 魔剣の特性は『吸収』だ。それで召喚陣を傷つければ、僅かに残った魔王の魔力は全て奪いつくされ、召喚陣は使用不能になってしまう。

 やけっぱちになったようにアサギは鋭い目で小鳥を睨みながら言う。


「君が帰らなければオレも帰らない。君を残して帰るぐらいなら、二人揃って残ったほうがマシだ」

「……アサギくん、そうまでして」

「この世界はオレに任せて、君は先に帰れ。オレも後から戻る。絶対だ。安心しろ。だから──オレにこれを壊させないでくれ」


 悲しそうに笑みを浮かべて、アサギは言う。

 小鳥の主張はアサギに譲ると言いながらも──彼に譲らなければならない理由は無いのだ。小鳥は帰るようにアサギから言われているのだし、彼女にも帰る理由はある。そしてアサギは小鳥を先に返させなくてはならないのだ。彼女のためにも、自分のためにも。

 聞き分けの無い子供に言い聞かせるように言ったアサギをまっすぐと見返して、小鳥は静かな声で語り出した。


「アサギくん……貴方の覚悟はわかりました。でも最後に、今この場──アサギくんの決意には関係無いかもしれませんが、ある話を聞いてもらっていいですか?」


 関係ないことかもしれない、と言われたが。真剣な面持ちの小鳥を見ているとどうしても今聞かなくてはいけない話のような気がした。

 実際に小鳥が帰れば、最後の会話になるかもしれないのだ。安心させるように彼女には後から帰ると言ったが、そんな方法が見つかるかは怪しかった。本当にあるかはわからない。

 アサギは魔剣を背中の鞘に戻して頷く。


「──ああ」

「では。これは、わたしのお母さんから聞いた話なのですが──」


 小鳥は袂からメモ帳を取り出した。

 



 *****




 日常的に破壊される日常を非日常だというのだろうか。とまれ、巻き込まれて諦めさえすればそれもまた日常だ。きっと大事なのは抗うことと適当なところで諦めること──まあ当然のことではあった。それがしっかりできているかはともかく。

 けたたましい警報音を聞きながら青年は目の前に座って不敵に笑っている──まあぎらぎらとニヤついていると言っても差し支えない──バイト先の雇用主である博士の言葉を促した。


「それで博士。この警報みたいな音は一体」

「来たんや、とうとうあれが」


 勿体ぶった言い回しに青年は鼻白んだ態度を取りそうになり、一応抑える。態度を取り繕う必要のある相手かどうか一応考慮してみた。眼の前に座る脂ぎった博士──何の博士かは興味が無いので知らなかった──は自分より年上で、パートタイムで働く自分に給料を払う資本家だ。資本家ならば敵のような気もしたが、革命の時は今ではない。上っ面だけでも取り繕って雌伏せねば。

 毎回どうでもよい考えが頭を過るほど会話をするのも億劫な相手だったが、とにかく面倒なので先を促す。


「あれといいますと」

「巨女ブームが来たんやデス太郎くん!」

「来てねえよ」


 叫びだした博士のゴミのような口臭と散らばった薬品臭のする唾に顔を顰めながら彼──デス太郎青年は冷淡に返した。毎回トンチキな事を叫ぶ博士にも、己の打死太郎うちじに・たろうという名前から付けられたあだ名も気に入らなかった。   

 しかし突然興奮しだした博士は脂汗で額をテカらせながらも続けて怒鳴る。


「ちゃう! デス太郎くんも知ってるやろ? 最近評判の異次元から侵略してくる巨大生命体──通称『巨女』。政府はあいつらの暫定的正式名称を『キョジョブウム』としたんやで」

「はあ、それで」

「で、その巨女が今来てるっちゅー話や」

「どこに」

「ここに」

「……」


 警報音よりはるか遠くから、地鳴りのような足音が聞こえた──気がした。

 俺は無言で博士の部屋のテレビをつけると緊急報道がされていた。遠距離カメラから撮影した映像。身長にして30メートルぐらいの巨大な女性が歩いていた。街歩きの女性とかわらないカジュアルな衣服を来た巨人がアスファルトを砕き足元のクルマを蹴り飛ばし踏み潰し、電柱をへし折りながら悠然と笑みさえ浮かべて足を進めている。

 巨女。それは人類の敵。ある日突然、どこからとも無く世界に現出したその巨人種族は多くの現代兵器を無効化しつつ人間社会に大きな被害を及ぼして来た。身長は和田クラスから確認された中で最大100Mを越えるものまで出現して建物や交通機関を破壊、極めて残虐性高く人間へ残虐な殺戮を行うなどしている。

 一方的に被害を齎す災害的怪獣ではあるが、日中しか活動できないのか日没とともに異界に消えてしまう為に、首都機能が一時的に麻痺したり街が壊滅したりと被害は出ているものの今だ人間は絶滅していないのだったが。

 



 *****




「──ごめんちょっと待って。何の話だそれ?」

「お母さんに聞いた話を元に作った来たるべき巨女ブームに先駆けたオリジナル小説ですが」

「来ねえよ巨女ブーム! っていうかなんで今それを話すの!? まったく関係無いよね!?」

「だから関係ないかもって断ったじゃないですか」


 マジで関係無い話をしたというのに何故か不満げに口を尖らせる小鳥である。

 頭を片手で抱えながらアサギは叫ぼうとした。

 それを先んじて小鳥が手のひらを向ける。


「すみません、これはちょっとした冗談です。本当の、わたしの話を聞いてくれますか?」

「───ああ」

 

 若干疑わしげな顔になっているが、アサギはなんとか頷いた。困難な選択だったが、やり遂げた。


 小鳥はメモ帳を投げ捨て、己の心に浮かぶ、自分自身の言葉でアサギに思いの丈を伝える──




 *****




 すき家でうな丼を食っていたら隣のゾンビから文句をつけられた。

 いや、それが文句だったのかは私には分からないが、半ば朽ちた指でこちらを指差して叫んでいるのを見て店員が慌てて警察に通報したことは確かだ。

 ゾンビの目の前には牛丼が置かれていた。おそらくは、自分で注文したのだろう。日本のファストフード事情はゾンビですら客として受け入れる懐の深さを持っている。

 そこでうな丼を食べただけで私はゾンビから怒られたのである。

 いかに店側が快適にサービスを提供しようとも、客の質が向上しなければ食事の時間は快適にならないことを物語る。

 誰が悪いのか。うな丼を食べた私か、牛丼との比較で劣等感を感じたゾンビか。それともそうならざるを得なかった社会のシステムの問題なのか。

 だとするのなら、この社会を打倒しなければならない。システムの不具合に気づいた私がしなければ、誰がするというのだろうか?

 これからの大変さを思えば、うな丼すらも半分ほどしか喉を通らなかったが決意は硬かった。


 私は社会打倒のはじめとして、駆けつけた警察官をトレイの角で殴りつけた。公僕と資本家は、まあ概ね敵である。

 彼の体重を魂分21g減らす決意で振るった革命の意思は警察官の命を奪うまでは及ばなかった。

 むしろ、ゾンビということでアメリカ人のようにショットガンを持ち出していた警察官を激昂させるだけであった。

 アメリカ人のように銃を持ちだした者は、アメリカ人のように撃ちたがるという名言を残したのは、確か薬中で死んだベネズエラの映画監督だったと思う。

 牛丼屋に相応しいスプラッタな具材が撒き散らしそうになった私を救ったのは、半分だけうな丼を食べる私へ文句をつけたゾンビであった。

 アメリカ人警官の腕に果敢に噛み付き、毒呪いウイルス的なもので即座にアメリカ人を殺してしまったのだ。

 私とゾンビはもはやうな丼と牛丼の関係ではない。

 体制へ立ち向かう同士だ。革命戦士だ。


 直ちに混乱したもう一人のアメリカ人と、通報したアメリカ人……おそらくは牛肉を提供する店員だからアメリカ人に間違いないだろう、五分五分ぐらいで……をも呪い毒ウイルスで殺害たらしめた。毒呪いウイルスだったか? まあ、どちらでもいい。

 私はゾンビに目配せをした。彼は目が腐っていたが純粋な光を灯したそれで応え、確かに頷いた。頚椎が腐敗で折れただけかもしれない。

 ここから社会への反乱が始まるのだったが、キチガイとゾンビは揃っているがコンピューターが足りない。システムへの反乱にはコンピューターが必要なのだ。

 あいにく私はパソコンが苦手だ。特にあの、データーだったりデータだったりと文字を伸ばすのか伸ばさないのか、どちらが正しいのかはっきりしないのが苦手だ。デジタルな存在の癖に。

 ならばパソコンもパソコーンとか呼んでいいのではないだろうか。俄然、ロボっぽくなったぞパソコーン。

 ともあれ、コンピューター役としてすき家のレジを持っていくことにした。

 必要な役目でありながら現金も備える。私達三傑衆の中で一番役に立つ気がして嫉妬に駆られた。ゾンビもそうであるらしかった。



 

 *****




「──はいストップ。今度は?」

「わたしが考えたハリウッド系の小説です。映画化希望」


 相変わらず真顔で云う小鳥。彼女にまともに付き合った時点で負けである。

 アサギはこみ上げる頭痛と共に叫びを放つ。


「いい加減に──!?」


 そして、膝をついた。

 我慢していた頭痛が急激に訪れたのだ。 

 脳が半分弾け飛んだかと思った。痛みを超えて、完全に脳機能が麻痺したような状態になった。視界が半分以上ブラックアウトし、全身の神経どころか心臓すら止まりそうなほどだった。

 指1つ自分の意思で動かせなかった。

 即死しても意識があるならば今のような状態なのではないだろうか、とアサギが思うほどだ。

 喘ぐように必死に半開きの口から、ひゅうひゅうと息を漏らす。声は出なかった。ただ、死にそうだと思った。

 音だけが聞こえる。小鳥の、突然崩れ落ちたアサギを意外とも思わない声だ。


「いや、まあ実は全部時間稼ぎだったわけですが」

「───な」


 なにを、と聞こうと思ったが声を出しているかすらアサギには自覚できなかった。

 言葉は続く。


「ドラッガーちゃんから貰ったあのお薬。副作用を後回しにするわけですが……無限光路の転移は凄まじい負担になるんですよね? それを今日何度も使ったわけですから、薬の効果が切れればこうもなりますよ」

「──!」


 そうだ。例の薬を飲んだことを忘れていたが──精神と反応速度を光速以上にまで高めて自由に超光速で動きまわった反動が、今訪れたのだ。

 通常駆動ではここまでならない。ヴァンキッシュと無限光路の超過駆動同時使用は──初めて使う領域だった。

 アサギの体の末端から小さな光の粒が薄く剥離するように現れ始めた。体全体が青白く幽玄に光る。

 頭痛で苦しんでいるというには妙な現象だった。頭痛を感じるごとに体が光に溶ける症状を寡聞にして彼女は知らない。

 さすがにこうなると小鳥も首を傾げる。


「あれ? なんかアサギくん……ヤバくねですか?」

「ンだこりゃ。どォなってんの?」

「イカレさん」


 イカレさんが肩にヴェルヴィムティルインを載せて近寄ってきた。

 ヴェルヴィムティルインがその疑問に答える。


「馬鹿ねー人間の体で神の領域に全身突っ込んで好き勝手やったのよ? その場で消失しなかっただけマシだったぐらいだわ。

 体の構成物質がレイズ物質に入れ替わって情報崩壊を始めてるから──このままじゃ死ぬわよ、この子」

「レイズ物質?」

「世界を埋め尽くしている特殊にして基本物質よ。あらゆる空間と時間と重力を司る最小の粒子。そこまで分解されたらアウトね」

「───」


 アサギは自分の体が少しずつ光に溶けていくのを感じた。

 それは苦痛からの開放という温かみであり、胸の奥に虚無が発生したような寒さを感じる。

 無理をしすぎた。今に限ったことではないが、間接的に小鳥や仲間を助ける為に物質の耐えられる領域を凌駕してしまった。限界を超えれば歪が生まれる。

 そもそも──彼の体は既にぼろぼろだったのだ。


 無限光路の過剰使用により脳は魔法素粒子の影響を受けて半分以上変質されている。

 ヴァンキッシュの長期間使用により神経束は機構と融合しており、首と肩に同化したマントはもはや外す事もできない。無理に外科手術などで切り取れば彼は半身不随になるだろう。

 更にこれまでの異世界での戦闘や治癒の為に飲んできた薬物は彼の内臓を溶かし、粘膜から容易く出血するほど血液系も異常を来たしている。ストレスや怒りやギャグで目や口から血を流していたのではなく、もはや体が限界なのである。

 それをアサギはずっと前から自覚していた。命を削ってでも故郷に戻ろうと、必死にもがいていたのだ。

 小鳥にここで譲っても、一年と寿命が持たない事を識っていたが──今、ここで終わりは訪れるようである。

 

(──死ぬのか、オレは)


 心に諦観が過った。

 身動きも取れないが確かに存在が希薄になっていく事を感じる。髪の毛の先から、衣類まで分解されていく。唯一マッドワールドだけは残るようだが。

 声が聞こえた。


「ちょ、それはマズイですって! アサギくん、染みるかもしれませんがちょっと我慢して下さい!」


 続けてバシャバシャと浴びせるようにアサギの顔にポーションがかけられる。

 幾多の種類もあり、高級品も混じっているが手当たり次第回復系の薬を使った。状態異常回復薬も最大体力増強薬も精神力向上薬もどんどん使う。

 それでも、


「治らない……ど、どうしましょう!?」

「──?」


 アサギがふと疑問に思ったのは──いつも飄々として無感情気味な小鳥の声がやけに焦っている様子だったからだ。

 いや、目の前で仲間が死にそうだから焦るというのは正しい反応なのだが。

 この女子高生は普通ではないのでそんな反応をするとは思えない。

 高確率で偽物だ。ニセ小鳥だ。アサギはおのれ偽物とばかりに、今まで動かなかった首を上げて視線を動かした。何故か、ゆっくりとだが体が動いた。

 そこには消えそうなアサギをどうにかしようと切迫している、鳥飼小鳥が居た。アサギが初めて見るような表情で必死に道具袋から彼を助けるための道具を探していた。スタンガンによる電気ショックはマジで止めてと思ったが。

 

「だ、大丈夫ですよアサギくん死なせませんから。ええと、イカレさん魔力ブーストをお願いします! 一か八か『レジデントエビル』を発動させてみます!」

「いやありゃ無理だろ。超高等複合属性魔法だぜ。失敗したらそれこそ血肉がデカイ花火みてェに弾け飛ぶらしィからよ」

「ボク、そんな危険な魔法食らってたウサか……」

「パルくんの歌でどうにか出来ないですか!?」

「ちょっとした体力回復はともかく……体を治す系の奇跡は神様が違うウサからどうすることも……」


 小鳥がおろおろしているのを珍獣を見るような目で、消えゆくアサギは見ていた。

 なんでこんなに気をもんでいるのだろうか、と自分の体の状態を度外視して不思議に思った。いつも意味不明な天然さで恐るべきマイペースの彼女が、考えすら纏められずにうろたえている。


(……ああ、オレを心配しているのか)


 当然の結論にようやく考えが至った。

 自分が小鳥を死なせないように必死になるみたいに。

 小鳥も自分を死なせたくないのだ。

 ふと今までの冒険で死にかけたけどあっさりした淡白な反応をされていた事を思い出したが、まあ折角なので忘れることにした。その時は死ななかったわけで。


(というかこの子が心配するぐらいだから実際ヤバイ)


 慌てふためいている少女を見ていたら、いつの間にか死への諦観が消えていた。

 死んで堪るか、とも思えた。

 っていうかなんでオレ死のうとしてたの? マジわかんない。雰囲気に飲まれたの?

 死ぬ気とかさらさら無いって。生きて絶対家に帰る。おそばとか食べる。


「オレは──死なん──!」


 根性を入れて声を出した。


「そ、その意気ですアサギくん! あのその誰かいい意見のある方っ!」

「待て、我にいい考えがある」

「司令官!」


 ヴェルヴィムティルインが格好良い声で提案した。思わず小鳥も司令官扱いした。

 仕方ないな、愚民共はと前置きして、


「簡単なことだ。存在情報が不確定になり崩壊を起こしているのならば情報の再構築をしてやればレイズ化現象も元に戻る」

「と言われますと」

「召喚陣を潜らせるのだ。あれは魔力で存在情報を完全なる状態に組み立てる事ができる。召喚された物体が傷ひとつ無いのはその為であるが。そして人間という存在を召喚・送還できる方法はただ1つしか無い」

「つーまーりィ、この異世界送還陣を使えばいいっつーこったなァ?」

「左様」

「なるほど……けっ計画通りですねっ!」

「今更キメ顔してもウサ」


 話は決まったとばかりに、イカレさんはひょいとアサギの襟首を掴んで召喚陣の上に置いた。体の構成物質が入れ替わっているせいか、酷く軽かった。

 アサギは絞りだすような声で言う。


「待て──だがそれをしたら小鳥ちゃんが──帰れなく──」

「アサギくん」


 小鳥はしゃがんで、膝をついているアサギと目線を合わせて言う。

 殆ど視界は黒く塗りつぶされてもう彼女の表情も見えなかったが、言葉は聞こえる。


「アサギくんと最初に出会った時、見ず知らずの死にそうなわたしを助けてくれましたよね。それから一緒に冒険しても、いつもわたしを助けてくれていました。本当に感謝しているんですよ」


 だから、


「今回ぐらいは、わたしがアサギくんを助けてもいいじゃないですか。大事な人を助けたいんです」

「──……!」

「アサギくんを死なせたくありません。また一緒に、映画を見に行きましょう。今度は日本で」

「小鳥──」


 アサギは息を吸うことすら困難になってきた口を開いて、声を出す。

 もはや彼にはそうすることしか出来なかった。動いて無理やり彼女をふん縛り送り戻すことも召喚陣を破壊することも新たな方法を探すことも時間的にも肉体的にも限界だった。

 だから懇願するように、叫んだ。


「絶対だ──! 必ず、帰って来い──!」

「うふふ、大丈夫ですよ」

 

 そっと頬に触れる冷たい手のひらをアサギは感じた。

 

「幸せなキスをしてハッピーエンド……それはまだ先になりそうですが」


 そして──

 アサギの口にちょこんと何かがくっついて、離れた。


(───)


 彼の思考すら止まった。何も見えなかったがこれは──

 声だけが聞こえた。







「や、やったウサ! アサギさんの初キッスを奪ったのはこのボクことパル・ザ・ファニーバニー! ウサー!!」






「うおおおお消えろ黒歴史──!!」




 残りカスに近い全身の力を使って床へ、記憶よ消えろとばかりに頭を叩きつけるアサギ。

 アサギの不意をついての初キッスは男の娘。

 ここぞという場面で最悪だった。三十路で初めてのキスが男相手とかいう負け組ステータスが深くアサギの生き様に刻まれた。それは彼の一生を苛む後悔となるだろう。幸せになるには大きすぎる犠牲だ。もはや涙が涸れる。

 床に沈んだままブツブツと呪詛を呟いているアサギを気持ち悪そうにイカレさんは見ながら、


「あー。じゃあもう送還やっからな」


 ポケットからメモ紙片を取り出す。


「確かこれがミス・カトニックから聞いた俺でも使える送還用の呪文だったな。なんか知らんがあいつ妙にこういうのに詳しィんだよなァ」

「ほう。怪しいですね」

「ともかく」


 そうして朗々と呪文を読み上げる。頭から煙のようなエーテルを吹いて倒れているアサギはもはや何も喋らなかった。


「『始まりと終わりに繋がる九つの物語よ。巡礼の道を歩け潔癖たる女。逸脱した言葉にて道を語れ男。境界の教えは形而上形而下に還る。歪曲した亜空を彷徨う運命の持ち手よ。自己相似す魂の往く先。因果を結べ。存在を了承せよ。開け、汝廸むべき扉。転異術式……【保持し呼ばれる場所へ】』」


 虹色の光が召喚陣を輝かせる。

 魔王の魔力が一時的に活性化されて異世界へと扉が繋がるのだ。

 アサギの体を虹光が包み、魂を依代にした彼が還るべき世界へと彼を送る。

 最後に。

 彼は顔を上げて、もう目も見えないし言葉も聞こえなくなったが、口に出した。おそらくは、相手も同じ事を言っていると信じて。それはほんの短い別れの言葉であり、再開の約束の言葉だ。



「じゃあ、また」

 


 そして──彼の姿は虹の彼方へと消え去った。

 身じろぎせずにそれを見送った小鳥は消えた後に小さくもう一度「また……」と呟いて他の仲間二人へ振り向いた。

 いつも通りの何を考えているかわからない笑顔のようなものを浮かべて、言う。


「さて、今回の冒険は終わりです。戻りましょうか」

「そォだな」

「……本当に、良かったウサか?」

「ええ、だって」



 小鳥は何も後悔はないといった爽やかな顔を浮かべて、遠くを見ながら言う。





「あの召喚陣が本当に故郷の日本に通じてるとも限りませんから無闇に使うの危なそうでしたし。何かあっても大丈夫っぽい戦闘力高いアサギくんに譲るのが正解です」


「おい」

「邪悪ウサ」


 

 リスク回避だった。

 確かに思わせぶりにあったから間違い無いと話を進めていたが、別に日本行きとかそんな事は書かれていないし調査もしていなかった。

 まあ、ただ。

 ここまで頑張ったのだから正しい結果に繋がっている。きっとアサギは元の世界に戻れたと小鳥はそう信じている。

 消えたアサギに問う様に、誰にも聞かれない小さな言葉を呟いた。


「……そうでしょう?」

「せやな」

「あ……このオッサン喋るんだ……」


 小鳥の側に佇むオッサンの幻覚だけがそれを聞いて──しかも返事をした。

 とりあえず帰って夕飯にしようと小鳥はぼんやり思う。どうにもこうにもいつも通り、彼女の異世界の日常は続いていく。人生とはそんなもんである。










 *********










 虹色の空間を進む。小鳥がいつか、時空乱流の中のようだと表現した事をアサギはその無重力的移動空間を進みながら思い出した。

 自分が異世界ペナルカンドに出現した時はどうだっただろうか。もう13年も前のことなのでよく覚えていないし、未だに原因もわからない。近くに召喚士も召喚陣も無かったことは記憶にあったが。

 光に溶けて消えそうだった体が次第に熱を帯び始め、再構築されていく。

 鮮明になりつつある意識の中、彼は思う。

 

(……複雑だ)


 死にたくないという思いと小鳥を助けたいという思いがあり、結局彼女に助けられて自分は元の世界にまで戻る事となった。

 あの少女が心配だ。

 だが、彼女は必ず戻ると約束し──自分は勝負に負けて条件を飲んだようなものだ。緊急的な措置だったが、小鳥の思惑通りに。

 後悔していいのか、素直に帰れることを喜んでいいのか──複雑な思いだった。

 目を閉じたまま片膝を立てた体勢で彼は悩み──やがて空間を抜けた。


 まず感じたのは日差しだ。次に音。人が大勢歩き、車が走り回る。そして排ガスの混じった空気をアサギは吸い込んで、咽そうになった。

 異世界での一番の大都市帝都でも感じない雑多な都会の匂い。

 アサギはうっすらと目を開ける。自分の足元にはマンホールに偽装された召喚陣があり、アスフォルトが広がっている。すぐ近くを洋服を着た日本人が、うずくまるアサギをやや訝しげに──或いは露骨に視線を向けないように通り過ぎている。

 周囲には圧迫するようにビルが立ち並びその根本には道に溢れるように商品が並んだ店などがある。

 東京・秋葉原。

 完全なる術法を使用した転移による効果は召喚物の魂に作用されて最も都合の良い年代に合わさるのだが、きっかりアサギが世界から消えて13年目の東京であった。

 懐かしい日本。アサギは何も考えられず──ただ立ち上がって風景を眺めていた。

 様々な感情が胸に溢れるようだった。喜びもあり、そして小鳥と一緒に帰れなかった悲しみもあった。

 それでも自分は戻ってきたのだ。ここに。平和な日本に。

 が。

 ヒソヒソと声が聞こえた。

 なにか自分を指さして周囲の人が囁いている。


「何アレ。コスプレ?」

「マントに剣とは今時珍しいでござるな」

「ぶふぉっ。超勇者っぽい人発見なう。トップゲラインパルス」

「ファンタジーラノベのキャラかよハバラ」


 アサギはイラッとした。

 いやまあ、いきなり秋葉原の町中に学ランマント魔剣装備のツンツン髪スタイルな青年が、自然と格好いいポーズでなにか感じ入っていたら注目もされるだけの話ではあるのだが。

 すっかり異世界スタイルに慣れたため彼は何故嘲笑されているのか理解不能だ。

 軽くコミュ障も患っているアサギは周囲の人すべてが自分を馬鹿にしていると思い込み過度のストレスを感じた。

 自分が哀れにも死にかけて情けを受けて元の世界に戻ってきた事を馬鹿にしているのか?

 少女1人助けられずに自分だけのこのこ帰ってきたことを馬鹿にしているのか?

 まさかファンタジーラノベを馬鹿にしているのか……!?

 アサギは本来、面倒見のいい甘いところのある性格だが。

 実は結構沸点は低い上に被害妄想の気がある。


 腰から魔銃ベヨネッタを抜いて真上に向けて数発、五月蝿い周囲を黙らせる為に威嚇射撃した。


 この時のアサギはバイオレンス世界で生活しすぎて、うっかり日本の常識を失念していたのだ。

 帝都では威嚇射撃程度また冒険者同士の喧嘩か、で済まされていたので。ナメられたり因縁つけられたりするとその場でリアルファイトが始まる腐敗と自由と暴力のまっただ中にある世界だった。

 呪いの銃弾を吐き出す散弾銃の悲鳴を圧縮したような銃声。それには恐慌作用フィアー・エフェクトが僅かに付加されている。日常的に戦う冒険者なら僅かに怯む程度なのだが。

 平和な日本の一般人たちは、一瞬呆けた後に血相を変えてパニックを起こした。それがただの散弾銃を振り回す犯罪者でも同じ状態になるだろうが、魔銃の効果で効果は倍増。

 恐怖は大衆を脅かすが、それを跳ね除け怒りを覚える職種もある。

 近年の秋葉原での犯罪を警戒して取り締まっている警察の皆様だ。運が悪いことに特別警戒期間だったその時は、あっという間に散弾銃をぶっ放す凶悪犯が居るという情報は広がり、驚くほどの速さでアサギは包囲された。

 周囲の反応に対して、


「──やらかした」


 アサギは顔を引き攣らせた。

 続けた彼が行ったのはマジックポーチから1つアイテムを取り出すことだ。

『無貌の仮面』という名前のアイテムで装着すると顔が外からはのっぺらぼうのように見える。しかし装着者は呼吸も視界も遮られないような魔力があるため問題はない。混乱・暗闇無効に他者からの印象を薄くする装備効果もあるがそれはともかく。

 つまりは、顔を隠した。 

 

(ここで捕まるわけにはいかない)


 アサギは冷や汗を流しながら思った。ジリジリと警官たちが包囲網を狭めていく。パトカーが何台も停まっており、サスマタを構えた警官が複数見えた。


(ここで捕まったら信じて送ってくれた小鳥ちゃんに申し訳ないし家族も行方不明になったオレが逮捕で発見とか酷すぎる。

 それに警察ってあれだろ? 所持品検査とか言ってレアアイテムをガメたり賄賂を要求してきたりムショに入れた犯罪者のケツに水魔法ぶち込んで粉砕したりするのが三度のメシより好きな国家ヤクザ※。捕まるわけにはいかない……!)


 ※帝都では一部そうだった。

 と言うよりも普通に捕まりたくないので自分を納得させるように言い聞かせる。誰だって警察に捕まりたくなど無い。逃げ切れるのならば誰もが逃げる。人類は皆、逃亡犯の可能性を秘めた獣だ。アサギは自己正当化判定に成功。

 

(まったく、ちょっと町中でショットガン威嚇射撃しただけでオレは何も悪いことをしていないというのに……!)


 とむしろ被害者意識になった彼に敵はない。


『武器を捨て抵抗を止めなさい! 両手を上げて後ろを向き──』


 遠巻きに全ての道を塞いだ警察がアサギに呼びかける。

 彼は無貌を向けながら当然のように背中の魔剣を抜いた。


「いいだろう、まずは警察という言葉が気に入らない───!」


 反社会的な事を叫びながら魔剣士は駈け出した。

 突然の特攻に「止まれ!」と命令を出す。拳銃を構えた警官も居たが、冒険者の中でも名前を馳せた魔剣士は怯まない。

 サスマタで捕まえようと突き出される。

 黒い刃が瞬時にサスマタを半ばで断ち切った。ぎょっとした警官をすり抜ける。押しこむように他の警官が殺到するが身体能力を何倍にも増強しているアサギは捕まらない。軽く跳躍して警官の肩を足場に包囲を飛び越える。

 さすがに現代日本で目立ちながらヴァンキッシュによる飛行はできないと思っていた。時間をかければ警官は増える一方だ。今のうちにさっさと逃げる。

 道を塞いでいたパトカーをすれ違いざまにマッドワールドで切り裂き走行不能にした。ちなみに、パトカーは1台250万円から350万円ほどする。

 

「フ──」


 切った後捕まったら弁償かな、罪も既に大分重くなったよなとアサギは考え。


(──ますます捕まるわけにはいかないな、これ!)


 足を早めてダッシュで逃走する。

 警官の包囲網から更に遠巻きに様子を伺っていたギャラリーも、犯人と思しき人物が長剣片手に突っ込んでくることに悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らしたように逃げ始める。

 これは使える、とアサギはベヨネッタを空に向けてガンガン撃ちまくり恐慌を煽る。思った通りあちこちに逃げたり警官に縋り付いたりする大衆の動きで逃げやすくなるし、人ごみも散らせる。


『応援を要請! 犯人は散弾銃以外に刃物を所持! パトカー二台走行不能! ヘリを要請! SATも呼べ!』

『俺は嬉しいぜあんな凶悪犯をこの手で逮捕できるなんてな……!』

『日本の警察舐めんなファンタジー!』

 

 ああ、警察凄い怒ってるよ。ごめんねとアサギは思いながら路地へ入り追跡を逃れようとする。

 走る速度はちょっとした車並に素早いのだが彼の体力も限界はある。

 マジックポーチから取り出したのは──異世界で拾った原付きだ。獣脂を燃料にしたそれに乗り狭い路地を反射神経に任せて縦横無尽に走り回る。大きな道路に出たらあっという間に追いつかれる為に狭い道を選び、逃げる。


「チ──! 帰ってきて早々にやることが無免許暴走運転だとはな──! 落ち着いたら免許を取ろう──!」


 勿論発見された警察に盗難車両だと思われて更に罪は重くなっていくのだったが。犯罪者に魂を注ぎ込まれるカブも大変だ。

 カブに乗ったりポーチに戻して走って逃げたりまた出したり手品のようなことを繰り返す。パトカーに追われて周囲の電柱を二三本切り道を塞いだり順調に悪事を重ねていくアサギ。電柱は完全に破壊されているので工事費込1本50万円はする。電線も切れて周辺が停電となりそっちからも損害請求されるかもしれない。捕まったらだが。


(オレは捕まるわけにはいかないんだ──!)


 パトカーをベヨネッタでパンクさせたり道を塞ぐ警官隊を閃光手榴弾で無力化したりしながら、一応重い怪我人は出さずに心がけて逃げる彼に対して凶悪犯罪者からテロリストへ警察の認識が変化しつつある。

 異例の速さで警察特殊強襲隊SATまで現場に装甲車で出動して機関銃や狙撃用ライフルまで持ちだされていた。

 さすがに神田川を渡る際に、時間稼ぎに橋をメテオラスタッフで粉砕したのもまずかったかもしれない。ハンマーで壊したと判断されるわけもなく、爆発物までもっていると思われている。

 とんでもない状況に陥りつつあるアサギも、とにかく家に帰るより夜まで逃げ続けなくてはならないと判断する。こんな事ならば気配を消す薬『ヴァニシュでーす!』を切らしておくべきではなかった。

 とにかく、こっちに出現した秋葉原のある千代田区から川を渡って実家のある台東区側にはいけたのだ。後は夜を待って実家に匿って貰おう。幸い顔は見られていない。


「居たぞ! こっちだ!」

「ッ──!」


 見つかった警官にポーチに入れていたアイス・シュアルツ製お菓子のようなゲル状物体を投げつけて昏倒させて逃げる。なお、これで分析不能の化学兵器まで所持していると判断された。凶悪犯すぎる。





 ********





「ふっはーすっかり暗くなっちゃったなー」


 台東区の外れにある一軒家のことだ。

 夜闇に明かりを煌々と照らす玄関の扉を捻りながら、だぶだぶの男子用学ランを着ている少女は家に入った。

 まだ大丈夫だと油断していると、驚くほど早く夕飯の時間帯になる。その日も高校の部活動、映画研究部で学園祭用に制作している『ゾンビ映画を撮影するゾンビオブザデッド』という作品の手伝いをしていたらあっという間に暗くなったのである。

 本来なら多少暗くなっても撮影の興が乗るだけなのだが、血相を変えた顔で担任の教師が早く帰宅するように促したのだ。どうしたのだろうか。ゾンビ役をやっていた部員なんて特殊メイクのまま帰されたぐらいだ。ゾンビの真似しながら帰るヨ! と妙に張り切っていた。

 帰り道、妙に多くパトカーや警官の姿が見えたことに関係しているのかもしれない。そう思いながらとある一般女子高生、浅薙佐奈あさなぎ・さなは帰宅を告げた。


「たっだいまーっす」


 その声にドタバタと居間から走る騒動が聞こえた。

 玄関まで慌てて走ってきたのは彼女の母親だった。


「佐奈! あんたこんな時間までどこにいたの!?」

「ふぇ? いっや学校で部活ってたー」

「携帯電話も持って行ってないし心配させて……!」

「あー今日忘れてったや。もういっつもおかーさんは心配性だなー」


 苦笑しながら肩を竦めた。

 13年前。彼女の兄が突然帰宅中に失踪していら母親はすっかり神経質になってしまったのだ。

 当然ではあるが、いつもその事を気に病んでいても大抵は取り越し苦労なのであって心配される佐奈はそれなりに大変だ。

 ところがいつもの様子ではなく母はしっかりと玄関の鍵を閉めてチェーンロックもし、佐奈の手を引いて居間へ連れてきた。


「どしたのー?」

「佐奈、ニュースを見なさい」


 テーブルに座っている佐奈の父親が促す。ニュースが流れていて、ヘリから撮影した東京の映像が流れていた。

 続けて煙を吹いたパトカー。鋭利な刃物で切り裂かれている。地面に横たわる複数の電柱。完全に破壊された橋。クレーター。物々しい防弾服を着て銃を構え歩きまわる機動隊。えらく物騒な映像が続いた。

 どこか低血圧な印象を覚える女アナウンサーが緊張感の無い薄笑いを浮かべながら解説をしている。


『こちらは現場の山田朝子です~、わあ見てください。この電信柱刃物で切ったんですよぉ。凄いなあ私もできるかなあ』


 どこか抜けてる様子で報道をしているが被害は甚大である。

 テロップには凶悪犯潜伏とあり、女アナウンサーが間延びした声音で説明している。緊急速報にはまったく向いていないように見える。


『犯人は散弾銃、鋭利な刀剣類、手投げ弾などの爆発物を所持しているようです~続けて情報が入りました。台東区で危険な化学薬品のようなものが使用されたという情報があり、警官一名が病院に緊急搬送。周辺は封鎖された模様。犯人と思しき人物を見つけても近づかずに安全を確認して通報して下さい~。あと夜間の外出も避けて下さい~。繰り返します──』


「うっわ……まるで第三次世界大戦みたいだね。ランボーでも出たのかな」

「ランボーだかガンジーだか知らんがとにかく危険なようだ。明日の学校は父さんが送って行こう」

「まったくもう心配させて……ほら、携帯はちゃんと持つんだよ」


 母から家の中だというのに携帯を渡されてスカートのポケットにしまった。

 それにしても本当に妙な事件が起こったものだ。病院に搬送される程の被害者は謎の化学兵器を顔面に受けた警官が倒れている以外は出ていないという点もまた嘘のような話に思えた。もっとも、パトカーや電柱などの被害総額は軽く1000万円を超えているようだったが。

 犯人の特徴は黒髪で顔をマスクで隠し黒い学生服のようなものを着ている。マントを付けて剣を背負っている。散弾銃を持ち盗難車のバイクで逃走……3000名の警察官が未だに行方を追っているという。

 

「黒い学生服ねえ。学生なのかな。うちの男子制服も学ランだけど」

「学生がこんな凶行を起こしたり武装してるとは思えんが。もしそうなら親の顔が見てみたいな」


 父は視線を新聞に戻しながらそう言った。

 男子用の制服といえば、と佐奈は自分が着ている袖の余った大きな学ランを見下ろした。夏場でも羽織るように着ているそれは、兄が使ってた予備の学ランであった。女子なのにそんな奇異な格好をしているのは、変人の多い彼女の通う学校でも目立ち番長とか言われているが。女子で一番だらしない着こなし番付に入っている。

 佐奈は幼い頃に兄が帰ってこなくなった時は随分泣いて、この学ランもガビガビに鼻水や涙で汚していた気がする。思い出して、居なくなった兄が着ていた学ランはどうしたのだろうと気になった。

 まだ着ているわけもないか。生きていれば今年で彼は30歳になるはずだ。幼い頃に見た記憶の兄の姿をおじさんにまで成長させて、胸中で笑った。

 食事時は兄を想い出すことが多い。未だに母が兄の分まで食事を作るからだろう。用意していると本当にある日当然のように帰ってきて食卓に座る兄が現れるかもしれないと想像する。

 その時は笑って、何事もなかったかのようにこう言ってやるのだ。「おかえり兄ちゃん」と。


「──さっご飯ご飯。今日の晩御飯はっ?」

「鴨南蛮そばと天ぷらよ」

「おかーさんの料理の腕はともかく豪華ー!」


 などと、兄が居なくなってはいるものの平和な家庭ではあった。

 


 がた、と音がした。



 4人がけのテーブルに座っていた3人の家族は動きが止まり音の原因へと視線をやった──というか目の前に居た。

 突然。何もない空間から湧き出したように。

 1つの椅子の上に男が立っていた。

 黒い学ランを着て、マントと剣を背中につけ、片手に散弾銃を持った仮面の男。

 空間に墨を零したように漆黒の魔剣士が現れた。

 彼は片手で軽く頭痛を堪えながら、息を荒げる。


「ぜえ──ぜえ──クソっ、この世界警察多すぎるだろ……なんで全部の路地に武装した警官隊が配備されてるんだ……装甲車や大型トラックで道を塞ぐから……つい破壊してしまった……

 ゾンビっぽいのとか歩いてて思わずぶん殴ってしまったし……いつから東京はこんなに物騒に……?」


 などと空間転移で現れた危険人物は供述して、ふと口を半開きにしている3人の善良な市民を見つけて、「ん?」と呟き──そして、喜んだように手を広げた。

 それは彼にとって特別な人達だった。ずっと会いたかった、大事な家族。

 やっと会えた。

 13年の月日を越えて、2つの世界の距離をも超えて、元の居場所に戻ってきた。

 泣きそうになりながら仮面の下で笑顔を浮かべる。すると無貌の仮面も機能が応えたように、のっぺりとした面ににたりとつり上がった笑みを浮かべた真っ赤な口が開いた。

 ずっと言いたかった言葉を言うのだ。犯人・浅薙アサギはかすれそうな声で言う。

 ああ──




「───ただいま」 

  




 佐奈は流れるような動きで携帯電話を開きダイヤルした。




「もっもしもし警察ですか」




 まあ、人生なんてこんなもんだった。




                   (つづく)

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