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「……………………え?」
俺の言葉を真剣に、一文字も漏らさず聞いていたクリスタは、長い長い沈黙の末、たった一文字で心の全てを支配する一つの感情を表現した。
そしてその端正な顔の形をゆっくりと変える。元々吊り気味の目がさらに吊り上ってくる。
ああ……これは……
(爆発するな)
俺は周りへの迷惑を考えて、開きかけた、クリスタの小さな、花びらのように可憐な唇に縁どられた口を手のひらで塞ぐ。
「何をバカなこっ――むぎゅっ!」
クリスタはいきなり口を塞がれ驚いている。振り払おうと暴れかけたところを、俺は耳元に口を寄せて小声による説得を開始する。
「怒らない、叫ばない、騒がない! 公爵令嬢であり優等生でもあるお前なら約束は守れるはずだ。な、クリスタ? お前はこんな人がいるところで約束を破って周りに迷惑をかける様な阿呆じゃないよな? な?」
低く、クリスタを信用していますよ風味を出しながら甘い声を演出して説得する。以前こうやって綾子さんに黒歴史を無理やり掘り起こされたが、今度はそれを真似してみることにしたのだ。ああ……それにしてもあの時の事は思い出したくないな……。
「…………」
クリスタは、涙目で鋭くこちらを睨みながらも落ち着き、手を離すようにと、俺の手をたおやかな人差し指でトントンと叩く。
「ぷはっ!」
俺が手を離してやると、クリスタは思い切り息を吸って呼吸を整える。
さきほどおしぼりで入念に手を拭いたのは、他人の口元に、食事前に汚れた手を押し付けるのはどうかと考えたからだ。
「……ふぅ……落ち着きましたわ。……さて、詳しくお聞かせ願ってもよろしくて? いや、詳しく聞かせなさい」
クリスタは息を整えると、早速俺に詳細を求めてきた。特に後半なんかは雰囲気が剣呑になっている。
「……その前に、ある程度飯を腹に入れてからの方がよくないか?」
俺はそう言ってテーブルに並べられる二つの定食を指し示す。
クリスタは焼き鮭がメインのローカロリーのメニュー、俺は天ぷらがメインの割とがっつりしたメニューだ。
「……それもそうですわね。一刻も早く知りたくはありますが、ひとまずはお食事といたしますわ。頂きます」
「そうしてくれ。そんじゃ頂きます」
それぞれ手を合わせて、トレイに乗せられた箸を使ってそれぞれの料理に口をつけていく。
味噌汁、白米、天ぷら、焼き鮭、醤油……これら和食や調味料は皆、異世界では文化の違い故に食べられないとされてきたものだ。大体のファンタジーがヨーロッパ圏の文化であり、この世界もその例に漏れない。俺はこれらの食品について半ば諦めていたのだが……我らが綾子さんのおかげでこうして食べられる。
味噌も、天ぷらも、醤油も、広めたのは綾子さんだ。作り方や使い方まで世間一般に広め、さらにはこうして学食に出されるレベルには世間に馴染んでいる。
他、様々な、日本を筆頭に食を中心とした地球の文化、技術、考え方などを広めている。
世界最強の魔法使いの言葉と言う事もあり、ネームバリューも相まって一気に世界へと広まったのだ。
このように、異世界で地球の技術や文化を持ち込んで世間に貢献し、多大な信頼や尊敬や利益を得ることを『NAISEIチート』と呼ぶのだが、綾子さんはそれを見事に実践して大成功を収めた。
これらの和食は、そのあたりは地球と変わらないようで、さっぱりとしていて主に女性に人気の様だ。和食中心の料理店なんかも街に沢山出てきて、ここ二十年とちょっとで一大ブームを築いたそうだ。まだ中心は洋食だが、そのうち一般の食卓でもそれなりの割合で和食が出るだろう、とのことだ。
異世界で活躍する際、こうした『NAISEIチート』は創作の世界ではよく行われている。俺は大した知識はないものの、テレビで聞いたことはある程度の知識はあるため、ある程度の事は出来たはずだ。だが、綾子さんがほとんどやってしまったので俺に手を出せる余地はない。
まぁ正直、俺がやってもここまで上手くいかなかっただろうし、そもそも味噌や醤油があるだけ感謝したい。俺はこれらの造り方なんて分からないからな。
しばらくお互いに無言で箸を進める。クリスタは綾子さんが来て和食を広めた後に生まれたお嬢様なだけあって、箸の使い方も優雅だ。なんというか、一緒に食事していて自分が恥ずかしくなるレベルである。
「さて、それでは詳細を教えてくださいますの?」
半分ほど胃の中に収め、ある程度空腹も落ち着いた頃、クリスタが改めて質問してくる。その顔には笑みが浮かんでおり、知的好奇心が刺激されているのだろうなぁ、と分かる。
「まぁ確かに、気になると言えば気になるよな」
無属性魔法。
これは一般に認知されていない、『あるかもしれないと言われてきたが、今のところ使えた例がない』魔法だ。
普通、魔法は六つの属性があり、体内魔力をその属性に変換させて発動する。
そこで、変換なしで魔法を使った場合はどうなるか、という考え方が、無属性魔法があるかもしれない、という案の発端だ。
属性に変換するのではなく、『性質を変換』するのが無属性魔法だ。
属性変換も性質を変換する行動の一種だが、無属性魔法の場合は『属性に縛られない』のだ。
例えば昨日の『筋力を上げる魔法』は、どの属性にも当てはまらないものであり、魔力を『筋力を上げる』という性質に変換したが故に出来る事なのだ。
俺が男なのに魔法が使える、ということは世間一般に認知されているが、この無属性魔法については秘匿されている。理由としては、この無属性魔法が『未知の魔法』であり、一気に広めると良からぬことが起こるだろう、という予想が成り立つからだ。学校に通う以上バレるのは仕方ない、と綾子さんが言っていたが、ここならばバレても信頼が置ける上に優秀な先生たちが守ってくれるし、もっと言えば綾子さんの庇護の下でもある。この、ある程度安全な場所で『ワンクッション』挟み、徐々に広めていく方法を選んだのだ。
この後、魔法の実技系の科目が遠からずあるだろう。少なくともその時にはクラスのみんなと先生にばれ、そこから噂好きの年頃の女子集団の中である以上、一気に学園内に広まるだろう。しかもそれが使えるのが『男である』俺である以上、さらに加速するだろう。
さらに、そんな生徒が休日とかで街に出かけた際には十中八九街中にまで噂は広がるだろう。外との連絡もある程度可能な学校でもあるので、そこを通じて研究者の娘さんあたりが親に知らせれば、そこから一気に広まる可能性もある。
だが、学校と言う安全な場所のワンクッションを置くことで、広まりすぎる前にある程度の対策が取れるのだ。
どうせバレないようにするなら学園に通わなくても、と思うかもしれない。実際、学園に通わなくとも勉強にゆとりを持ってついていける程度の教育なら綾子さんの元で受けさせてもらえる。ならばわざわざ学園に通わなくてもいいだろう。
だが、それに関しては綾子さんが許さなかった。
曰く、
「勉強と言うのは一緒に競い合い、高めあう同級生がいることでより高みへと進むものなのだ。なるほど、確かに個人で勉強すればそれぞれに合ったペースで進められるだろう。だが、人間は比較対象があり、競争相手がいることでより能力を発揮するものだ。未だに地球から学校や塾が消えないのはそう言った理由があるのだよ」
とのことで。つまり皆で勉強しなさい、バレて悪目立ちするぐらいは我慢しなさい……ということだ。
こちらは綾子さんの脛をかじっている身なので逆らう事も出来ずこうして学園に通っているのだ。
「なんというか……大変ですのね」
そんな感じに説明すると、クリスタは頭を押さえてそう低い声で言った。
ちなみに、この話をするせいで綾子さんとの関係も話さざるを得なくなった。綾子さんと個人的な関係がある、というのはそれだけで国から目をつけられるレベルなので黙って貰っておくことにした。
「まぁ、他言しないことはこのクリスタの名に誓いますわ。……けれど、そのうちアヤコ様を紹介して下さる程度のお礼はあってもよろしくなくて?」
とはいえ、こんな感じに対価も要求されたが。
今回は相手が今後も深くかかわるだろう相手と言う事で、嘘はほとんどなしにして話を進めた。どこかでボロが出たら危ないからである。
嘘をついたのは綾子さんに拾われるまでの過程のみだ。異世界からぽんと来ました、というのは突拍子も無さすぎる(今更感は否めないが)ので、魔物に襲われていたところを散歩中の綾子さんに助けてもらい、その後で綾子さんから魔法が使えることを教えてもらい、ついでにすねかじり生活をしている、と説明した。
身内や家族についてはもう皆死んで、天涯孤独の身ということにしてある。そうすれば後に変なところに気付いても追及はし辛いだろうし、実際天涯孤独のみであるため信憑性はそこそこあるだろう。嘘の中に本当の事を混ぜると有効、というのは本当だったようだ。
「そうでしたの……無属性……それはこの私ですら思いつきすらしないのも無理はございませんわ。それならば対して悔しくはないですわね」
クリスタはどうやら謎が解決して上機嫌なのか、やけにポジティブシンキングだ。
「いいか、絶対に他言無用だぞ。言っては何だが綾子さんとその身内、この学校内では俺とお前だけ、二人だけの秘密だ」
無属性に関してはいっそバレても問題ないが、綾子さんは個人的友人兼恩人である、というのは無属性魔法以上に大きな話だ。恩人である、程度なら綾子さんは日常的に人助けをしているため自慢話程度だが、同郷であり(この点については少し嘘をついているが)、趣味が合う友人でもある、というのは大きい。世界最強の魔法使いに個人的な頼みが出来る人間である、と見做されるからだ。
今まで机上の空論とされてきた、前例のない無属性魔法よりも、個人的な友人であると言うだけで脅威認定される綾子さん……普通、逆ではないだろうか。
「そうですの。二人だけの秘密ですわね。ふふふ、分かりましたわ」
クリスタは、何故か心底嬉しそうな、花が開くような笑顔でそう言った。