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涙、雨のいろ

作者: やしろ



 二年生になって、柳太郎りゅうたろうと同じクラスになった。

 十年以上も「お隣さん」をやってきて、初めてのことだ。

 小学校のときは普通の友達で、中学校に上がると極端に接点がなくなって、高校に入った頃にはしゃべることもなくなっていた。中学のときはいちど、一緒に帰っただけだ。

 同じクラスになったからといって、私は必要以上に柳太郎に近づいたりはしないし、「柳太郎」と呼んだりもしない。

 男女の幼なじみって、そんなもんだと思う。

兼田かねだくん、ノート」

 手を差し出すと、柳太郎は眉間に皺を刻んで、机から顔を上げた。

 そんなに睨むことないのに。

 たまたま日直だった私は、数学のノート提出が遅れている柳太郎に声をかけただけだ。

 最近の柳太郎は、声をかけるたびに険しい顔をする。なれなれしくするなと暗に釘を刺しているのか、他人行儀だと責めているのかさっぱりわからない。

 でも私は柳太郎とは呼ばない。幼い頃、舌足らずな声でその名を呼んでいた癖で、いま口にしても妙なイントネーションが残ってしまう。それがやけに甘えているように聞こえて、嫌だ。

 だから私は絶対に呼ばない。

 変な意地だと思う。だって私は、こうやって柳太郎の近くにいるだけで涙腺が弱ってしまう。目尻の奥から、ゆるゆると熱いものが込み上げてきそうになる。

 いまでは、どんなふうに柳太郎と遊んでいたのかすっかり忘れてしまった。柳太郎にまつわるのは、涙の記憶だけだ。どんなときも、泣きたいときはいつも柳太郎が傍にいた。仲良しの友達が引っ越したときも、犬のコロがいなくなったときも、転んで怪我をしたときもいつだって。

 柳太郎はいつも、なにも訊かず、黙って泣かせてくれた。そうして私が泣き止むと、雨宿りが終わったかのようにふいとどこかへ行ってしまう。柳太郎の隣では、いつでも素直に泣けた。柳太郎の傍に寄ると、安心感と奇妙な懐かしさが相まって、涙が出そうになる。

 だから私は柳太郎に近づかない。



 いままではたまに会うからよかったのだ。名前で呼べたし笑顔で話せた。柳太郎に彼女がいようといまいと、ふたりの日常が一瞬交錯するだけの快い邂逅だったのだ。

 それが同じクラスになってしまうなんて拷問以外のなにものでもない。

 「同級生」という仮面を被らなければならない。柳太郎だなんて、そりゃもう、ほかの理由がなくても絶対に呼べないのだ。

 考え事をしていたら、カシャンと眼鏡ケースを落っことした。私は授業中だけ眼鏡をかけている。そうど近眼というわけでもないが、離れたところにいる柳太郎の表情が見えなくてすむのはありがたい。

「はい」と後ろの席の藤原くんが眼鏡ケースを拾ってくれた。

 ありがとう、と受け取ると、なにぼんやりしてんの、と言って藤原くんは私の髪を軽く引っ張った。

 頬に触れそうな指に、一瞬どきっとしてしまう。とにかく、藤原くんは女の子になれなれしい。ただ、からっとした態度なので、嫌悪感は感じさせない。だから、男子には羨ましがられるタイプだろうなあと思って、私は口の中で軽く笑った。

 私か柳太郎のどっちかが藤原くんみたいなタイプだったらよかったのにな、と少しだけ思った。

 もしそうだったら私たちはきっと、教室内でも「幼なじみ」でいられたのに。



 静かな窓から眺める夕焼けは、なんだか開放感があって気持ちがいい。

 ゆるやかに風を浴びながら、私は図書室から外を眺めていた。

 ふと窓際に人影が落ちて、私は振り返る。

椿つばき

 静かな声が名を呼んで、私の身を強張らせた。柳太郎が立っていた。

「な、に」

 かすれた声で私は返事をする。いままでなら普通に会話を交わして、普通に別れられたのに。「クラスメイト」になったせいで、柳太郎との距離の取り方を忘れてしまった。

「おまえ、俺になんか言いたいことないの?」

 変なことを訊かれたと思った。たぶん、柳太郎と話すとき、この頃はいつも泣きたくなるのを我慢しているからだと思う。きっとしかめ面で柳太郎を見ているのだろう。

 傍に寄らないでほしいな、と思った。ずいぶん伸びた背丈に、心臓の鼓動がおかしくなってしまう。一緒に帰った中学生のときも、いまよりも低かったその身長を横目に、ちょっとだけ、どきっとしたことを覚えている。でもなかったことにした。そのとき柳太郎には彼女がいたし。

「ないよ」

 なんでもないふうを装って、涙を堪えながら私はそっけなく答えた。



 特別棟の掃除当番を終えて階段を上ると、そこに柳太郎がいた。軽く腕組みをして、クリーム色の壁にもたれている。愛想の欠片もない横顔が、ちらりとこちらを向いた。

 私は気づかなかった振りをして目を伏せる。

 傍を通り過ぎようとしたら、大きな一足がさっと行く手をふさいだので、顔を上げざるを得なくなった。

 そろりと見上げた柳太郎は、やっぱり不機嫌な顔をしていた。

「避けるなよ、椿」

 私は黙ってまた顔を伏せ、首を横に振った。一声でも上げようものなら涙が出そうだった。

 我ながら最低な態度だ。

 怖かった。怖くて、柳太郎の目を見ることが出来なかった。そこにどんな怒りが、軽蔑の色が潜んでいるかと思うと。

 柳太郎から逃げたいくせに、嫌われたくはない。矛盾している。

 いたたまれなくなって、私は逃げ出した。逃げ場を失った足は、上の階へと向かう。

 屋上の冷たいコンクリートに足を踏み出し、息を切らして私は扉にどんと背中をつけた。

 堪えていた涙がほろほろと落ちて、地面に染みを作った。

 ――わかってしまった。

 柳太郎が私を泣かせるんじゃない、柳太郎が私の泣きたい気持ちを解放させるのだ。

 私は泣きたかったんだ。寂しかった。柳太郎に会いたかった。話したかった。それを押しとどめていたのは、なけなしの理性だ。私たちはもう、幼い子供ではない。まだこんなにも泣き虫な私を、重いと思われたくなかったのだ。

 柳太郎に、嫌われたくなかったんだ。

「あれ、佐原さわらさん」

 ぐすんと洟をすすったとき、すかんと明るい声が響いた。泣き顔を晒したことに慌てながら背筋を伸ばして視線を合わせると、そこに藤原くんが立っていた。

「どうしたの?」

 藤原くんは一歩近づいた。頭がうまく働かない。

 答えられずにためらっていたら、後ろからぐいと腕を引かれた。



「藤原、おまえ、ちょっとはずせ」

 追いついた柳太郎の声が、頭の上から聞こえた。その響きは、この上もないほど不機嫌で、すごく怖かった。

 いいよ、と藤原くんはにっこり笑って、あっさり引いた。

 薄情者、と私は胸のうちでこっそり呟いた。だって、こんな雰囲気で柳太郎とふたりきりにするなんてひどい。

 藤原くんが去って、扉が閉まる音の余韻が消えた。

「……椿、こっち向け」

「やだ」

 思わず、拒絶の声が出た。瞬間、空気がさらに重くなる。

「リュータロ、怒ってるもん」

 ばかみたいだ。涙を制御しかねたせいで、感情のコントロールができない。柳太郎に、甘えたくなんかないのに。

「怒ってるよ」と言って、柳太郎は無理やり私を向き直らせた。

 柳太郎の指が、私の顎の先をかすめて、髪に触れる。

「やだ」私は身体を捻った。泣いたあとのみっともない顔なんか、見られたくない。

「やだじゃねえよ、藤原には触らせたくせに」声のトーンがさらに低くなる。「藤原の前では泣いたくせに」

「リュータロ、言ってることがわかんな――」

「嫌なんだよ」

 柳太郎の荒々しい声が、私の声を遮った。やっぱり、すごく怖い。

「おまえが、俺の知らないところで泣くのは嫌だ」

 思わず顔を見た。その瞳に捕らわれそうになって、私は慌てて目を逸らす。

「そんなのリュータロに関係ない」

「椿」

 その声は険しく、鋭かった。切り捨てようとするごとに、柳太郎は私を追い詰める。

「私、べつにリュータロのものじゃないもん」

「俺は」荒々しく息を吐いたあと、柳太郎は落ち着きを取り戻すかのように少しだけ目を閉じた。「俺は――俺が、おまえをいちばん大事にしたかったんだよ、ずっと」

「そんなの、そんなの勝手だ」涙はそろそろ限界みたいだ。視界が歪んできた。「だって、リュータロ、彼女いたもん」

「大事にしてたから、手を出さなかったんだろうが。小坊、中坊のガキが自分の気持ちなんか判断つくかよ。本気だって、自分で見極められるまで手を出さないつもりだった」

 大きな手が、私の顔を柳太郎の胸に押し付けた。指先が、私の後頭部をゆっくりと撫でる。

「俺だけは、おまえを泣かさないつもりだったからな」

「……泣かせてるもん、いま」

 そうして、私はわっと泣きだした。

 初めて触れた柳太郎の胸は懐かしい匂いがした。カッターシャツ一枚を隔てた柳太郎の身体は、硬くてしなやかだった。鼻先が白いシャツをかすめて、柳太郎の腕の熱さが背中にじんわり伝わった。柳太郎の頬が、私の額に擦り寄った。

 涙は、みるみるうちに柳太郎の胸元に溶けていった。

 うっかりすっきりしてしまった私は、ようやく我に返った。

 泣き止んだはいいが、柳太郎のシャツを握り締めた指先が強張って動かないのがひどく恥ずかしい。私の気持ちはどうなんだと責めたかったのに、ぜんぶすっ飛んでしまった。

 柳太郎はずるい。

 そろっと顔を上げると、柳太郎の手が私の頬にするりと添えられた。

 ゆっくり近づいてくる顔を、私は慌てて掌で阻止する。

「なんか、な、流されてない?」

 私がそう告げると、柳太郎は意地の悪い笑みを口元に浮かべた。

「気のせいだ」

 嘘だ。



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