ひいな
犬や猫が入っていることを想像していたが、まさか人形とは。
1日の仕事を終え、明日は休日だからとスーパーで出来合いのおかずと酒、つまみのつもりでポテチも買い、帰路に着く途中だった。
給料日だからと、買いすぎてしまった。袋が重い。早く帰りたい。
逸るような思いでマンションに向かっていたところ、それを見つけた。
門の前に、『みかん』のロゴが入った段ボールの箱がある。
こんなもの、今朝は見かけなかった。段ボールはおそらく昼間に降った通り雨で濡れたのだろう、形が少し歪んでいる。私が出勤した後に置かれたものかもしれない。
恐る恐る近づき、箱の中身を見ようとしたが、蓋は閉じられていて、そこに『ひろってください』と子供の字で大きく書かれている。
――捨て犬か、それとも猫か。
どちらにせよ無責任なことだ。一度は家族に迎えておいて、いらなくなったら『拾ってください』とは。
ふと、心の中がざわつく。
うちのマンションは、1匹までならペットを飼うことができるし、なにより私は動物が好きだ。ペットを飼うだけの金銭的余裕もあり、部屋も無駄に広い。
そう思って蓋を開け、そっと中を覗く。そこにいたのは、犬でも猫でもない、小さな人形だった。
おかっぱ頭の少女で、まるで日本人形のような顔をしている。だが身につけているのは着物と下駄ではなく、ピンク色の可愛らしいワンピースに、レースが綺麗な白い靴下と、真っ赤なワンストラップシューズ。
全身かなり汚れていて、ワンピースの裾が縦に大きく裂けている。靴もボロボロだ。
人形がまるで犬猫のように捨てられている状況に、私は不気味な違和感を覚える。
しかし、人形の瞳はキラキラと輝いていて、まるで「拾ってくれ」と懇願しているように見えた。
「……この子も、…………のかな」
蚊の鳴くような声でボソッと呟き、私は人形を抱き上げる。
……たまには、童心に帰って人形を愛でるのも、悪くないかもしれない。
私は人形を抱き、マンションの中へ入っていった。
カーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。
ベッド脇をちらっと見ると、机に置かれた電子時計がまもなく7時になるのが見えた。いつもならもっと早くにアラームが鳴るが、今日は休日。
昼過ぎまでのんびりしていようが、誰にも文句を言われる筋合いは…………。
「おねえちゃん! 朝だよ!」
思考を妨げるように寝室の扉が開き、同時に元気すぎる声が耳に響く。
私はその声が誰のものかすぐにわかったが、無視して布団に潜った。
すると声の主は、勢いよくベッドの上に飛び乗り、そのまま私の身体へよじ登る。
「おねえちゃん! 朝だってば、起きて!」
「……重い。あんた10歳なんだから、少し加減してよ。姉を押しつぶす気?」
妹の重みで少し苦しいながら、私はなんとか返事をした。
だが妹は全く私の上から動こうとせず、口を尖らせながら反論してくる。
「だって、朝だよって言ったのに、おねえちゃんが起きないから」
「当然でしょ? 土曜日よ? 休日よ? いつも頑張っている姉ちゃんには、休息が必要なの。あんたも一緒に寝る?」
半分冗談で、半分本気でそう言いながら、妹に手を伸ばす。が、妹は身を捩って抵抗した。
「もう! おねえちゃんったら忘れたの? わたしのお洋服、買ってくれる約束でしょ!」
「……そうだっけ?」
前日までの記憶を思い返しながら、頭を半分上げて妹を見る。
自分で整えたのか、おかっぱ頭は寝癖ひとつなく綺麗だ。
ピンク色の可愛らしいワンピースを着ているが、裾には縦に大きく裂けたのを縫い合わせた跡がある。
……そうだ、これは昨夜、私が繕ったのだ。
直したはいいが、あまりにボロボロだったので「新しく買ってあげる」と、縫った時にそう言ったのだった。
「そうだった、ごめん。すっかり忘れてたわ」
「早く行かないと売り切れちゃうよ! 早く起きて!」
そう言って急かすように私の身体を揺さぶる。
焦っているのは可愛いが、まだ店も空いていないうちから「売り切れる」などあり得ない。
「お店が開くのは10時よ。そんなに焦らなくても大丈夫」
笑いながら私が言うと、妹は一瞬ポカン、としてから「あ、そっか」と納得する。
「じゃあ朝ごはん! わたしお腹すいた!」
店に連れて行けとせがんだと思ったら、今度はお腹がすいたから起きろと騒ぐ。
まったく、朝から元気な妹だ。
「はいはい。用意するから、まずは降りなさい。これじゃ動けないわ」
「はぁい」
妹は満面の笑みで答えると、ようやく私の上から降りた。
私は大きな欠伸をしながら起き上がり、ベッドから降りる。
「おはよう! おねえちゃん!」
「おはよう」
太陽のような顔で見上げてくる妹が可愛くて、私はその頭を撫でくりまわす。
お互いに立っていると、妹の頭がちょうど私の胸元に来て、撫でやすい。
妹は私に撫でられて、まるで犬猫のように気持ちよさそうな顔をした。
本当に、可愛い妹だ。
2つのワンピースを手に、妹は眉間に皺を寄せて「うーん」と唸る。
妹の右手には、いま妹が着ているのと同じようなデザインのピンクのワンピース。左手には、妹が着ているのとはデザインが違うが、可愛らしい黄色のワンピース。どちらも妹によく似合いそうだ。
妹は真剣な顔をしていて、そのあまりの真剣さに、私は思わず吹き出した。
「あ! おねえちゃん、ひどい! いま笑ったでしょ!」
「ごめんごめん。あんまり真剣だから、つい」
謝罪しつつ、ムキになる姿も可愛くて私は笑いが止まらなかった。
「もう! おねえちゃんは服に興味ないかもしれないけど、私には大事なことなんだからね!」
妹はそう言うと、頬をぷう、と膨らませる。
日本人形のような顔の妹が頬を膨らませると、まるでおかめのお面みたいでますます可愛らしい。
確かに、妹と違って私は服に興味がない。私は「サイズが合えばなんでもいい」のだ。
仕事がある日は毎日スーツなのでコーデを考える必要はないが、休日は服を選ぶのが心底面倒で、面倒すぎて、同じようなスウェットのセットアップを色違いで何着も購入し、着回している。
今日は上がグレーで、下が黒のスウェットだ。
しかし、妹には妹なりのこだわりがあるようだ。それを笑ってしまったのは、確かに悪かったかもしれない。
「馬鹿にしたわけじゃないの。ただ、可愛いなって思って。迷うなら、両方買ってやろうか? 昨日給料日だったし、好きなの買ってあげるよ」
「本当!? ありがとう! じゃあね、あと1つ気になってる服があって、それもいい?」
「いいよ。あと、靴も見ておいで。もうボロボロでしょ」
妹の足元を指さして言うと、妹も傷だらけの赤いワンストラップシューズを見て「確かに」と呟く。
「ありがとう! おねえちゃん大好き!」
妹は両手の服を私に手渡すと、「気になっている服」とやらに向かって走り出した。
「走ったら危ないわよ!」と私が叱れば、妹は「はぁい」と返事をし、歩みを遅くする。
本当に素直で、可愛い妹だ。
服と靴、ついでに靴下や下着なども購入すると、時刻はもう正午になっていた。
腹の虫と共に「お腹すいた」と私の手を引っ張る妹を連れて、私たちはフードコートへと向かう。
休日の正午で流石に人が多かったが、運良く空いている席を見つけたので、そこに買った服を置き、私たちは食べたいものを決める。
私はかなりの偏食で、食べられるものが限定されてしまうのだが、妹はあまり頓着がないらしい。私が「ラーメンにしよう」と言えば、「じゃあ私もラーメンにする!」と一緒に注文に向かった。
私はチャーシューメンと餃子を注文し、妹はおもちゃ付きのキッズセットを注文する。
「あんた10歳なのに、おもちゃなんて欲しいの?」
「10歳だっておもちゃで遊んでもいいでしょ!」
揶揄うように私が言うと、妹は口を尖らせる。
その様子を見ていた店員が、微笑ましそうにクスッと笑った。
「可愛らしい娘さんですね。うちは息子3人なので、羨ましいです」
「あ、いえ。その、妹なんです」
「おねえちゃんはお母さんじゃないよ?」
私が訂正し、妹が首をかしげると、店員は目を剥いて驚いていた。が、すぐに頭を下げる。
「し、失礼しました! てっきり親子かと……」
「あぁ、いや。気にしないでください」
確かに私と妹はひとまわり以上歳が離れているし、私は実年齢より年上に見られることが多いから、親子と間違われても無理はない。
なにより、私たち姉妹はあまり似ていないのだ。誘拐と間違われるよりは遥かにマシだ。
私たちが注文を終えると、ベルを持って先ほど確保しておいた席に戻る。
妹と向かい合うようにして座ると、私のすぐ後ろで、高校生カップルらしい男女の会話が聞こえてきた。
「ねぇ、これ知ってる?」
「え、どれ?」
周囲には人が多く、ガヤガヤとしていたが、カップルの会話だけはなぜか鮮明に私の耳に届いてくる。
彼女の方が、スマホか何かを彼氏に見せているらしく、少しの沈黙ののち彼氏の「あぁ」という声が聞こえてきた。
「このブログか。最近バズり始めているやつだろ?」
「そう! これがね、どうやらガチらしくて。この前友だちがマジで見たって!」
「はぁ? 嘘だろ?」
「本当だって!」
「信じらんねー」
ゲラゲラと笑うカップルの声が、耳元に響く。彼らの会話の内容は、もう「若者」とは言えない私には半分も理解できず、なぜ笑っているのかもわからない。
そんなことよりも、目の前で落ち着きなくソワソワしている妹の姿を見ている方が面白かった。
「そんなに待ち遠しい?」
「え?」
足をブンブン振ったり辺りをキョロキョロと見たりと忙しなかった妹は、私の問いにピタッと動きを止める。
「そんなにソワソワしなくても、すぐ来るよ。おもちゃ」
「あぁ、うん……って、おねえちゃん、またからかって! ラーメンでしょ!」
「あ、バレた?」
「もう! おねえちゃんの意地悪!」
妹は頬を膨らませてプイッとそっぽを向く。その姿が可愛くて、膨らんだ頬を指でつつきたい衝動に駆られたが、手元のベルが鳴ったので私は席を立った。
いつの間にか、カップルの話題は全く別のものに変わっていた。
「ただいまぁ」
玄関の鍵を開けて、部屋の中に入る。休日に妹と楽しく過ごした分、月曜日がいつもより長く感じた。
「おねえちゃん、おかえり!」
バタバタと足音を立てて、走ってくる声。妹は、買ったばかりの黄色いワンピースを着ていた。
私の胸に抱きついてくる妹を受け止め、頭を撫でる。 甘えん坊で、可愛い妹だ。
「ただいま。ごめんね、遅くなって。お土産にアイス買ってきたから、夕飯の後に食べよう」
「やった! おねえちゃんありがとう! あと、お仕事おつかれさま!」
「うん、ありがとう」
私たちはリビングに向かうと、アイスを冷凍庫にしまってから、風呂の支度を始める。
妹はもう10歳なのに、「ひとりでお風呂に入りたくない」と言うので私が帰るまでずっと待っていたらしい。
寂しがり屋で、本当にしょうがない妹だ。
一緒に風呂に入り、私は妹の頭からつま先まで全身しっかり洗う。
時折「くすぐったい」と笑う顔が、本当に可愛い。
私が自分の身体を洗っていると「背中洗ってあげる!」と妹が言うので、その言葉に甘えて背中を洗ってもらった。
健気で優しい妹だ。
それから湯船でくつろいだ後、風呂から出て身体を拭く。
髪も簡単にタオルで拭いてから部屋着に着替え、妹の髪を乾かそうとドライヤーを手に振り返ると、いつの間にか妹は脱衣所を出ていた。
「あ、あの子まさか、先にアイスを食べようとしてるんじゃないでしょうね」
タオルでは拭いたが、まだ妹の髪は濡れていた。そのまま冷たいものを食べたら、風邪をひいてしまう。
なにより、いまは夕食前だ。
「おーい! …………?」
妹を呼ぼうとしたところで、私はありえないはずの感覚に陥った。
……妹の『名前』が、思い出せない。というより、わからないのだ。
まるで、妹にはもともと『名前』が存在していないかのように。
……いや、そんなはずはない。そんなこと、ありえない。
ずっと一緒のはずの妹の『名前』がないだなんて。
「……だって、いつもは、ちゃんと…………」
……『いつも』?
その単語に、私はまたもやありえない感覚に陥る。
――妹ができたのは、つい3日前じゃなかっただろうか?
「おねえちゃん?」
妹の声に、私はハッと我に返る。
いつの間にか戻ってきていた妹が、キョトンとした顔で私の前に立っていた。
「どうしたの? いま呼んだ?」
「あ、ああ。えっと。髪、乾かさないと風邪引くよって」
「風邪? ……あぁ、そっか」
妹の返答は、まるで「身体を冷やしたら風邪をひく」ことを知らないかのように聞こえた。
「おねえちゃん、やって!」
……いや、考えすぎだろうか。
コロッと表情を変えて甘えてくる妹に、私は疑念を飲み込んだ。
「も、もう、しょうがないな」
甘えた口調で鏡の前に立つ妹を笑いながら、私はドライヤーを握る。
……そうだ、きっと疲れているんだ。だからおかしな錯覚に陥るんだ。
必死でそう言い聞かせながら、妹のまっすぐな髪を乾かした。
この子は本当に甘えん坊で、素直で、可愛い、私の『妹』だ。
……『妹』……?
いつも通り振る舞おうとする私の脳裏に、飲み込んだはずの疑念がぶり返す。
――私には、兄しかいないはずだ。
鏡越しに、妹の顔を見る。
おかっぱ頭に、日本人形のような顔。改めて見比べても、私と妹は似ていない。
顔だけでなく、好みも。
私は酒のつまみになりそうなしょっぱいお菓子が好きだが、妹は和菓子やケーキ、アイスなど甘いお菓子が好き。
私は服に興味がないが、妹は服にこだわりがある。
私はかなりの偏食だが、妹は基本なんでも食べて、嫌いな食べ物がない。
同じ家で育ったはずなのに、なぜこうも違うのか。
……同じ、『家』で?
なぜか引っかかる。「違う」と、自分で自分の言葉を否定する。
妹の顔をぼうっと眺めていると、私は、あることを思い出した。
……そういえば、『3日前に拾った人形』は、どこにやっただろうか?
「……ない」
食事の後、私は自室であの人形を探していた。
しかし、どこにも見当たらない。
拾った日のことを振り返って、どこにしまったか思い出そうとしたが、思い出せなかった。
それどころか、人形を『拾った』ことは覚えていても、その後の記憶が不鮮明で、思い出そうとすると霧のようなものに邪魔されてしまう。
酒やつまみを買ったことは覚えているので、酔ったせいで記憶が飛んだのかと思ったが、そもそもあの日、私は買った酒を飲んだのだろうか。
……いや、飲んでいない。
『なにか』をするのに時間を取られて、飲む暇がなかった。
かろうじてそこまでは思い出したが、その日私が『なに』をしていたのかは、まだ思い出せない。
……けれど、これだけは言える。
私には兄がいるだけで、妹はいない。
……あの子は『妹』じゃない…………かもしれない。
確信のようなものはあるのに、いまひとつ言い切れないのは、私があの子を、まだ『可愛い』と思っているせいなのか。
「……『拾った人形』に、いないはずの『妹』……なんか、どこかで見たような……」
私はベッドに腰かけると、スマホで『人形 妹』と検索した。
しかし、出てきたのは『妹に人形をプレゼントした』という誰かの投稿や、ライトノベルやマンガのタイトルなど。
私の違和感に合致するような内容は見当たらなかった。
「さすがにもう少し絞らないと駄目か」
私は再び検索欄に戻り、検索ワードに『拾った』という言葉を付け加えようとした。
『ひろ』まで打ち込んだところで、予測変換に現れた『拾ってはいけない』という言葉に、私は目を止める。
胸の辺りが、ザワザワと騒ぎ立てた。
まるで、心の中でもうひとりの自分が「これだ」と叫んでいるようだ。
恐る恐るタッチし、検索する。
結果の一番上に出てきたのは『絶×都市伝説』という、個人ブログだ。
――ねぇ、これ知ってる?
フードコートで聞こえてきた女子高生の声が、なぜか脳裏に蘇る。
ページを開くと、記事のタイトルに私の心臓は大きく跳ねた。
『絶対に拾ってはいけない人形・ひいな』
おかっぱ頭に、日本人形のような顔をした少女の人形で、心に深い孤独を抱えている人間の前に、ある日突然現れる。
『拾ってください』と書かれた段ボールに入っているが、絶対に拾ってはいけない。
もし拾ってしまったら。
「……持ち主の『妹』として、その家にもともと居たかのように溶け込んでしまう……」
背筋が、冷たくなる。
そうだ、私はこのブログを知っていた。
昼休憩中に、中途で入った同い年の同僚が見せてきたのだ。
ホラーは苦手なので最後まで読めなかったが、頭の片隅に、その人形の記憶が確かにあった。
にわかには信じられない。
けれど、ブログにある『深い孤独』に、私は心当たりがある。
そして、あの人形の顔は。
……『妹』に、そっくりだった。
「……ありえない」
ありえない。口に出すと同時に、心の中で何度も繰り返す。
だって、このブログは明らかに作者の創作だ。人形はあくまでただの人形で、孤独を感じる人間の前に現れるのも、きっと人形を見つけた人間がたまたまそうだっただけで。
そんな非現実的なこと、あるはずがない。
――本当だって!
私の心の声を否定するように、再びあの女子高生の声が脳裏に響く。
――この前友だちがマジで見たって!
「……うそだ」
ありえない。ありえない。
あの子は私の妹だ。
……私には兄しかいない。
可愛くて素直な、妹だ。
……兄さんは私に冷たかった。
甘えん坊で、寂しがりで、ひとりではお風呂にも入れなくて。
……兄さんは優秀で、母さんのお気に入りだった。
太陽のような笑顔で、私に笑いかけてくれて。
……兄さんも母さんも、一度も私に笑ってくれなかった。
ちがう。ちがう。
私は、私は……!
「おねえちゃん?」
扉の前で声がして、私はビクッと身体を震わせた。
そこには、不安そうな顔の『妹』がいた。
『妹』は私の顔を見ると何かを察したのか、心底残念そうな、寂しそうな顔をする。
「……思い出しちゃったんだね、おねえちゃん」
それは、もはや答えだった。
「こんなに早いのは、おねえちゃんが初めてかな。前の『おにいちゃん』は、1週間で思い出して、どこかに逃げちゃったから」
「あ……あんた、本当に……!」
確信した途端『可愛い妹』が、まるで『得体の知れない化け物』のように見えた。
甘えん坊で寂しがり屋の『妹』じゃない。
人の寂しさにつけ込み、騙して、取り込もうとする。『化け物』だ。
しかし、『化け物』はただ悲しそうに笑うだけで、こちらに近づこうともしなかった。
「……ごめんね。おねえちゃんを怖がらせようとか、ひどい目にあわせようとか、そんなつもりじゃないの。わたしはただ、『おねえちゃん』や『おにいちゃん』の寂しい気持ちを、なくしてあげたいだけなの。わたしは、そういうものなの。そうするようにできてるの」
「……」
『化け物』の口から語られる言葉に、嘘は感じられなかった。
自分はただ人間の孤独を癒すための『人形』で、そのためだけに存在していて、それ以上のことはできないのだと。
「そうするように、望まれて生まれたの」
『化け物』は……いや、もう『化け物』には見えない。ただの少女だ。
人間のように涙を堪えて下を向く子の、どこが『化け物』なのか。
少女は『人間』ではないかもしれないが『化け物』ではない。誰が少女にそうするよう『望んだ』のかはわからないが、少女が、ただ人間の寂しさを癒すためだけに生まれたのだと言う言葉は、真実のように聞こえた。
ふと、思い出す。そういえば、ブログの最後の数行を、私はいまも昔も読んでいない。
スマホの画面をスクロールして見ると、そこには、人形『ひいな』の正体が書かれていた。
おおむね、少女の話と一致していた。
『ひいな』は持ち主の孤独を癒すためだけに存在している。そして『ひいな』自身も深い寂しさを抱えていて、そばにいてくれる『姉』もしくは『兄』を求めている。
『ひいな』を捨てると、持ち主は再び深い孤独に苛まれる。
『ひいな』に名前を与えると『ひいな』は『人形』から『人間』となり、一生持ち主の『妹』としてともに成長する。
捨てるか、名付けるか、選ぶことができるのは持ち主だけ。
選びたくないのなら、絶対に『ひいな』を拾ってはいけない。
「……名前」
私は、なぜ急に真実を思い出したのか、ようやく理解した。
『ひいな』はあくまで『人形』の名前であり、個に対する『名前』は存在しない。
『ひいな』は人間に『名前』を与えられることで、初めて『人間』になれる。
私は先ほど『妹』を呼ぶために名前を口にしようとした。もともと存在しない『妹』の名前を思い出そうとしたために、綻びが生じた。
『名前』こそが『人形』を思い出すトリガーとなっていたのだ。
「……名前を付けなかったら、あんたはどうなるの?」
「どうもならないよ。また人形に戻って、誰かに拾われるのを待つだけ。おねえちゃんの人生からも、頭からも、わたしのことは消える。それだけ」
少女はなんでもないかのように言い放つ。
先ほど少女は『前のおにいちゃん』と言っていた。
私の前にも『ひいな』を拾った人間がいたのだろう。
……しかし、少女が名前を得ることはできず、人形に戻ってしまった。
そんな経験を、この少女は何度繰り返してきたのだろうか。
「……人形でいる間、お腹は空くの? 寒さや暑さは、感じるの? あんたおしゃれ好きなのに、人形の間は着替えとかできるの?」
どうしてこんなことを聞くのか、私にもわからなかった。
『妹』ではないと確信した時はあんなに恐ろしかったのに、いまは恐れどころか、この悲しい少女の未来を憂いている。
だが少女は、静かに笑っていた。
「ただ、声が聞こえるだけ。『寂しい』とか『苦しい』って心の声。あと、喋りかけてくれる人の声とか。おねえちゃんが私を拾ってくれた時も、聞こえてたよ。『この子も、寂しいのかな』って、言ってくれたよね」
「――っ」
――この子も、寂しいのかな。
人形を拾った日、誰に言うでもなく呟いた言葉。
兄にも、母にも、ブログを見せてくれた同僚にも埋められない。私の心にぽっかりと空いた大きな穴。
『ひいな』は、それを埋めるために私の前に現れた。そして『ひいな』も、ひとりで寂しい心を誰かに癒してほしかったのだろう。
私が見てきた『妹』は、素直で、可愛くて、甘えん坊で、そして寂しがりで……。
……捨てるか、名付けるか。選べるのは持ち主である私だけ。
私は、答えを出した。
スーパーの袋を下げて、マンションの一室へ向かう。袋の中には、夕食の材料とおやつの団子が入っている。
鍵を開けて中に入ると、リビングの奥からバタバタと足音がした。
もう15歳で背も大きいのに、相変わらず子供みたいだ。
玄関まで走ってきたそれは、私の姿を見つけると太陽のような満面の笑みを浮かべた。
「おかえり、お姉ちゃん!」
「ただいま、ひな」




