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ホラー短編 『あなたはだぁれ?』

作者: かおもじ
掲載日:2026/06/06

 大学二年生の春。

 この古いアパートの二階に越してきてから、ちょうど一年が経った。


 極々普通に大学に通い、駅前でバイトに行き、終われば帰る。

 たまに大学友達と出掛ける事もあるが、基本的には夜は家にいる。


 特に変わりはない。

 どこにでもある、ありふれた大学生の日常。


『自分の部屋は』の話だけれど。


 隣の部屋は空室だ。

 なのに、いつも同じ時間、壁の向こうの同じ場所から物音が聞こえてくる。


 ドン!

 ガタン。

 バタバタ。

 ギィ……ギィ……。


 そうしてその後、微かに、しかし必ず聞こえる女の声。


『…………こ………あ……………れ……』


 最初はひどく気になったし、気味も悪かった。

 だが、一年という月日は、人間の恐怖心すらも摩耗させるらしい。

 いつしか俺は、その奇妙な音に完全に慣れきってしまっていた。


 ある日のこと。

 深夜に急に小腹が空いた俺は、ふらりとコンビニへ出かけた。


 その帰り道。

 なんの気なしに、アパートの二階――自分の隣室の窓へと視線を這わせた。


 影が、見えた。

 薄暗い窓の向こう側。天井よりは大分低い位置。でも、確実に何かがゆっくりと揺れている。


 人だ。

 首を吊った、人影だった。


 その時、俺は初めて理解した。

 毎夜毎夜、同じ時間、同じ場所で聞こえてくるあの音の意味を。

 あれは、踏み台を蹴飛ばす音なのだと。


 どうやらあの影は、自ら命を絶ったあの瞬間の行いを、いつまでも密室で繰り返しているらしい。


 普通ならば、ここで背筋が凍り、ゾッとするのだろう。

 だが、俺の心は自分でも驚くほど、逆に穏やかになっていた。


 正体がわかったからだ。

 見えない恐怖より、理由のある現象の方がよほど安心できる。


 所詮、隣の部屋の事だ。

 こちらの領域に踏み込んでこないのなら、いつも通り気にしなければいい。


 そう考えた俺は、それ以上気にすることも無く、真っ直ぐに自室に戻るのだった。


 ◇ ◇ ◇


 翌日。

 夜も更けた頃、またいつも通り音が聞こえ始めた。


 ドン!

 ガタン。

 バタバタ。

 ギィ……ギィ……。


 そうして、微かに聞こえる女の声。


『…た……こ………あ…た………れ……』


 何ら変わらない、いつもの音。

 普段のようにやり過ごせばいい。


 ――何故だろう、今日はやけに気になる。


 昨日アレを見たせいだろうか。

 何か。

 違和感。


 ……よそう。考えた所で仕方ない。そう自分に言い聞かせ、無理やり眠りについた。


 ◇ ◇ ◇


 更に翌日。

 夜が更け、いつもの時間がやってくる。

 俺は無意識のうちに息を潜め、意識を凝らして、音を確かめていた。



 ドン!



 やっと、理解した。

 音が――近い。


 隣の部屋ではなく……そう、自分の部屋の中で響いたような、そんな距離感。


 ――そもそも、首を吊る人間が、最初にあの『ドン』という重い音を立てるだろうか。


 踏み台を蹴飛ばしたのなら、最初に響くのは『ガタン』という音のはずだ。


 では、壁を震わせるあの最初の音は、一体、誰の、何なのだろう。


 冷たい思考が、ゆっくりと頭の中を巡っていく。

 このアパートは壁が薄い。隣の生活音すら筒抜けになるほどに。


 ――もし、あの『ドン』という音が、隣の部屋から鳴ったものではなかったとしたら。


 たとえば。

 この部屋に住んでいた、前の住人が。

 何かの拍子に、たまたま壁に強くぶつかってしまった音だったとしたら。


 たとえば。

 その時、壁の向こうの隣人が。

 自分の部屋にあるのと同じ、古いペンダントライトの電球を替えるために、踏み台の上に登っていたとしたら。


 『ドン』と、唐突な大きな衝撃音。

 驚いた隣人は、足を滑らせる。


『ガタン』と、踏み台が倒れる。

 不運にも、倒れ込んだ先に垂れ下がっていた照明の太いコードが、輪を描くようにその首へ深く絡まってしまう。


『バタバタ』と、空中で必死にもがく。


 やがて絶命し、『ギィ……ギィ……』と宙で揺れ続ける。


 密室での出来事。


 状況だけを見れば、それは突発的な自殺としか判断されなかっただろう。


 だが、違うのだ。

 彼女は、自ら命を絶ちたかったわけではない。

 ただの、理不尽極まりない事故。


 だとしたら、彼女はいつまでもあの密室で、何を繰り返している?

 何を、探している?


『わ………こ………あ…た………れ……』


 微かに思い出すその声。

 あれは苦悶の呻きなどではない。

 執念と怨嗟を孕んだ、明確な問いかけだった。


『わたしを、ころした、あなたは、だぁれ?』


 違う。俺ではない。

 あの音を出して彼女を理不尽な死に追いやったのは、俺の前に住んでいた住人だ。


 俺は全く関係がない。


 だが、暗闇の中で永久の怨念を募らせる彼女に、そんな理屈が通じる訳がない。


 一昨日。


 コンビニからの帰り道。


 俺は無防備にも、窓の向こうで揺れる彼女を見つめてしまった。

『正体がわかった』と愚かにも安堵しながら。


 その時、彼女もまた、歓喜と共に理解したのだ。

 壁の向こう側にいる、自分を殺した『犯人』の姿を。


 俺じゃない。俺じゃないのに。


 そんな声なき叫びは、完全に凍りついた部屋の空気の中で虚しく溶けていく。

 見えない恐怖より、理由のある現象の方が安心できる。

 そんなものは、ただの驕りだった。


 ガタン。


 背後で、堅い音が響く。


 壁の向こうからではない。

 俺のすぐ後ろからだ。


 ひどく冷たい空気が、首筋にまとわりつく。

 もう、振り向く事は出来ない。


 バタバタ。


 耳元で藻掻くような音が聞こえる。


 妄想だ。幻聴だ。自分に言い聞かせる。言い聞かせ続ける。


 なのに、何故だろう。


 ギィ……ギィ……。


 いつもは壁向こうから聞こえるはずの、その音が、どうしても後ろから聞こえてくるのだ。


 首筋に、何かが纏わり付く。


 白い、白い、何か。


 ――あぁ、良かった。


 もう、声は、聞こえない。


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― 新着の感想 ―
Xからきました。 いいねやフォローありがとうございます! こわいです! 怖いのニガ手ですが「先に短い作品から」と思いつい読んでしまいました。 このあと代表作を読みにいきますね(^^)
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