ホラー短編 『あなたはだぁれ?』
大学二年生の春。
この古いアパートの二階に越してきてから、ちょうど一年が経った。
極々普通に大学に通い、駅前でバイトに行き、終われば帰る。
たまに大学友達と出掛ける事もあるが、基本的には夜は家にいる。
特に変わりはない。
どこにでもある、ありふれた大学生の日常。
『自分の部屋は』の話だけれど。
隣の部屋は空室だ。
なのに、いつも同じ時間、壁の向こうの同じ場所から物音が聞こえてくる。
ドン!
ガタン。
バタバタ。
ギィ……ギィ……。
そうしてその後、微かに、しかし必ず聞こえる女の声。
『…………こ………あ……………れ……』
最初はひどく気になったし、気味も悪かった。
だが、一年という月日は、人間の恐怖心すらも摩耗させるらしい。
いつしか俺は、その奇妙な音に完全に慣れきってしまっていた。
ある日のこと。
深夜に急に小腹が空いた俺は、ふらりとコンビニへ出かけた。
その帰り道。
なんの気なしに、アパートの二階――自分の隣室の窓へと視線を這わせた。
影が、見えた。
薄暗い窓の向こう側。天井よりは大分低い位置。でも、確実に何かがゆっくりと揺れている。
人だ。
首を吊った、人影だった。
その時、俺は初めて理解した。
毎夜毎夜、同じ時間、同じ場所で聞こえてくるあの音の意味を。
あれは、踏み台を蹴飛ばす音なのだと。
どうやらあの影は、自ら命を絶ったあの瞬間の行いを、いつまでも密室で繰り返しているらしい。
普通ならば、ここで背筋が凍り、ゾッとするのだろう。
だが、俺の心は自分でも驚くほど、逆に穏やかになっていた。
正体がわかったからだ。
見えない恐怖より、理由のある現象の方がよほど安心できる。
所詮、隣の部屋の事だ。
こちらの領域に踏み込んでこないのなら、いつも通り気にしなければいい。
そう考えた俺は、それ以上気にすることも無く、真っ直ぐに自室に戻るのだった。
◇ ◇ ◇
翌日。
夜も更けた頃、またいつも通り音が聞こえ始めた。
ドン!
ガタン。
バタバタ。
ギィ……ギィ……。
そうして、微かに聞こえる女の声。
『…た……こ………あ…た………れ……』
何ら変わらない、いつもの音。
普段のようにやり過ごせばいい。
――何故だろう、今日はやけに気になる。
昨日アレを見たせいだろうか。
何か。
違和感。
……よそう。考えた所で仕方ない。そう自分に言い聞かせ、無理やり眠りについた。
◇ ◇ ◇
更に翌日。
夜が更け、いつもの時間がやってくる。
俺は無意識のうちに息を潜め、意識を凝らして、音を確かめていた。
ドン!
やっと、理解した。
音が――近い。
隣の部屋ではなく……そう、自分の部屋の中で響いたような、そんな距離感。
――そもそも、首を吊る人間が、最初にあの『ドン』という重い音を立てるだろうか。
踏み台を蹴飛ばしたのなら、最初に響くのは『ガタン』という音のはずだ。
では、壁を震わせるあの最初の音は、一体、誰の、何なのだろう。
冷たい思考が、ゆっくりと頭の中を巡っていく。
このアパートは壁が薄い。隣の生活音すら筒抜けになるほどに。
――もし、あの『ドン』という音が、隣の部屋から鳴ったものではなかったとしたら。
たとえば。
この部屋に住んでいた、前の住人が。
何かの拍子に、たまたま壁に強くぶつかってしまった音だったとしたら。
たとえば。
その時、壁の向こうの隣人が。
自分の部屋にあるのと同じ、古いペンダントライトの電球を替えるために、踏み台の上に登っていたとしたら。
『ドン』と、唐突な大きな衝撃音。
驚いた隣人は、足を滑らせる。
『ガタン』と、踏み台が倒れる。
不運にも、倒れ込んだ先に垂れ下がっていた照明の太いコードが、輪を描くようにその首へ深く絡まってしまう。
『バタバタ』と、空中で必死にもがく。
やがて絶命し、『ギィ……ギィ……』と宙で揺れ続ける。
密室での出来事。
状況だけを見れば、それは突発的な自殺としか判断されなかっただろう。
だが、違うのだ。
彼女は、自ら命を絶ちたかったわけではない。
ただの、理不尽極まりない事故。
だとしたら、彼女はいつまでもあの密室で、何を繰り返している?
何を、探している?
『わ………こ………あ…た………れ……』
微かに思い出すその声。
あれは苦悶の呻きなどではない。
執念と怨嗟を孕んだ、明確な問いかけだった。
『わたしを、ころした、あなたは、だぁれ?』
違う。俺ではない。
あの音を出して彼女を理不尽な死に追いやったのは、俺の前に住んでいた住人だ。
俺は全く関係がない。
だが、暗闇の中で永久の怨念を募らせる彼女に、そんな理屈が通じる訳がない。
一昨日。
コンビニからの帰り道。
俺は無防備にも、窓の向こうで揺れる彼女を見つめてしまった。
『正体がわかった』と愚かにも安堵しながら。
その時、彼女もまた、歓喜と共に理解したのだ。
壁の向こう側にいる、自分を殺した『犯人』の姿を。
俺じゃない。俺じゃないのに。
そんな声なき叫びは、完全に凍りついた部屋の空気の中で虚しく溶けていく。
見えない恐怖より、理由のある現象の方が安心できる。
そんなものは、ただの驕りだった。
ガタン。
背後で、堅い音が響く。
壁の向こうからではない。
俺のすぐ後ろからだ。
ひどく冷たい空気が、首筋にまとわりつく。
もう、振り向く事は出来ない。
バタバタ。
耳元で藻掻くような音が聞こえる。
妄想だ。幻聴だ。自分に言い聞かせる。言い聞かせ続ける。
なのに、何故だろう。
ギィ……ギィ……。
いつもは壁向こうから聞こえるはずの、その音が、どうしても後ろから聞こえてくるのだ。
首筋に、何かが纏わり付く。
白い、白い、何か。
――あぁ、良かった。
もう、声は、聞こえない。




