円安で笑う女
高見早織は満足げに外国為替レートの画面を眺めていた。一ドル百五十五円。
「順調ね」。
彼女は誰にも聞こえない声でつぶやいた。大臣執務室の窓からは、国会議事堂の威容が見える。経済安全保障担当大臣として、彼女は「日本の未来」を語る立場にあった。しかし、その未来予想図には、国民の生活苦は描かれていなかった。
田中俊也は、その日も遅くまで残業していた。経済安全保障室の若手官僚として、彼の仕事は膨大な資料の作成と分析だった。同僚の佐藤が疲れた声で言った。
「また円安が進んでいる。輸入物価がまた上がりますね」
「大臣は『円安は必ずしも悪くない』って会見で言ってたけど、庶民には地獄だよ」。
田中は黙っていた。言いたいことはあったが、この場で口にすべきことではなかった。
その夜、偶然目にした大臣の金融資産報告書の修正版に、田中は目を疑った。外貨建て資産が大幅に増加していた。時期を見ると、円安が加速し始めた頃だった。調べれば調べるほど、疑念は深まった。大臣の資産報告には、複数の外貨建て投資信託と、海外不動産投資が含まれていた。すべて合法的な投資だった。しかし、タイミングが問題だった。円安政策を推進する立場にありながら、自らは円安で利益を得る。これは利益相反ではないのか。
翌日、高見早織は記者会見で堂々と語った。
「円安は一概に悪いものではありません。輸出企業にとっては追い風となり、日本経済全体の活性化につながります。私たちは長期的視野に立って、経済安全保障を推進していく必要があるのです」。
記者たちはメモを取った。誰も突っ込んだ質問はしなかった。田中は会見の様子を省内のモニターで見ながら、違和感を覚えていた。輸出企業が潤う一方で、中小企業や一般家庭は原材料費や生活費の高騰に苦しんでいる。その現実を、大臣は本当に理解しているのだろうか。それとも、理解した上で無視しているのか。
田中は悩んだ。内部告発すれば、自分のキャリアは終わる。官僚として積み上げてきたものすべてを失うかもしれない。しかし、黙っていれば、この矛盾を容認することになる。先輩の山口が声をかけてきた。「田中君、最近元気ないね」「いえ、大丈夫です」「無理するなよ。この仕事、真面目にやりすぎると心を病むから。理想と現実のギャップってやつさ。政治家なんて、みんなどこか矛盾を抱えてる。それでも国は回っていくんだ」。本当にそうだろうか、と田中は思った。
一方、高見早織は次の一手を考えていた。さらなる円安誘導策を財務省と調整中だった。「国益」という名目のもとで、実際には特定の業界と、そして自分自身の利益を守るために。彼女にとって、政治とはそういうものだった。理念を語りながら、実利を追求する。矛盾などではない。それが現実主義というものだ。
田中は決断した。匿名で経済誌の記者に資料を渡した。合法的に入手できる公開情報だけを、整理して提供した。あとは記者の判断に委ねた。二週間後、記事が出た。
「経済安保大臣、円安で資産増 政策と私益の境界線は」。
記事は慎重な筆致で書かれていた。違法性を指摘するのではなく、倫理的な問題提起にとどめていた。しかし、インパクトは十分だった。
国会で野党が追及した。高見早織は冷静に答弁した。
「すべて法令に則った適切な資産運用です。政策判断とは一切関係ありません。このような言いがかりは、重要な経済安全保障政策の議論を妨げる悪質な印象操作です」。
彼女の支持者たちは拍手を送った。しかし、世論は揺れた。ネット上では賛否両論が渦巻いた。「合法なら問題ない」という声と、「道義的におかしい」という声が対立した。田中は静かに事態を見守った。自分がしたことが正しかったのかどうか、まだわからなかった。
高見早織は結局、大臣を続投した。支持基盤は強固だった。スキャンダルは一時的な波紋を呼んだだけで、やがて人々の記憶から薄れていった。別の話題が、別の騒動が、それを上書きした。円は、さらに安くなった。田中俊也は、その後も官僚として働き続けた。理想を失わずに、しかし現実とも折り合いをつけながら。
ある日、スーパーで買い物をする高齢者を見た。値札を見比べながら、ため息をついている。これが、政策の向こう側にある現実だった。数字やレートの背後には、常に人がいる。生活がある。そのことを、権力の座にある者たちは、どれだけ理解しているだろうか。田中は帰り道、空を見上げた。明日もまた、国会議事堂では会議が開かれる。「国益」が語られる。そして、誰かが笑い、誰かが泣く。円の価値は下がり続けた。しかし、人間の尊厳の価値は、決して下がってはならない。そう信じることだけが、田中に残された希望だった。
貯金するだけ無駄だね。
立ち止まれば、インフレが背中を刺す。投資しなければ、死ぬ時代だ。




