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アイビスの紫の瞳が淡く輝いた。
瞬間、失われていたはずの両腕、両脚が逆流する光の糸に絡め取られ、時間を巻き戻すように蘇り始めた。
血潮は大地に吸い込まれ、切断面は逆再生のように繋がり、肉が盛り、骨が組み直されていく。
まるで「失われた未来」を奪い返すかのように、完璧な肢体が蘇る。
狂信者の女はその光景を目の当たりにし、両手を広げて震えた。
「あぁぁ……! あああああああぁぁぁぁ……っ!! これこそ神……! わたくしの、わたくしだけの神……! やはり! やはりこの世に奇跡は存在した!!」
涙と涎を垂らしながら、女は身をよじる。
「どうして……どうしてわたくしを見捨てたのです!? ですがいいのです! 何度でも、千度でも万度でも……罰してください! 罵ってください! わたくしは泥の中でも喜びを見つけましょう!」
アイビスは冷え切った声で吐き捨てた。
「哀れな人。自分を屑と呼んで悦ぶなんて……信仰じゃない。ただの依存よ」
女は頬を紅潮させ、息を荒げて笑う。
「ええ、ええ! 依存でも、屑でも! 構いません! だって屑のわたくしに光を与えてくださるのは、神だけだから……! 神に罵られることこそ、生きる証……!」
「では、もっと言ってあげる」
アイビスは一歩、二歩と女に近づく。
「あなたは無価値。生まれたこと自体が間違い。救いを願う資格すらない」
女は歓喜に打ち震えた。
「は……はぁぁぁっ……! 無価値……! 間違い……! ああ、なんという祝福! わたくしは神の御言葉によって否定され……それでもなお存在を許される……!」
アイビスの紫の瞳が一閃し、女の動きが止まった。
振り上げた鈴の動作は、時間に縛られ、延々と遅れていく。
一秒が十秒に、十秒が一分に、やがて永遠へと伸びて――その腕は凍りついたまま動かなくなる。
アイビスは至近まで歩み寄り、囁いた。
「祈ることしかできないなら……永遠に祈っていなさい」
背後に浮かんだ巨大な砂時計がひっくり返り、女の身体を吸い込んでいく。
その口はなおも必死に動いていた。
「かみよ……かみよ……かみよ……」
「わたくしを罵ってください……わたくしを踏みにじってください……」
「かみよ……かみよ……」
声は時間の檻の中で繰り返され、外の世界には届かない。
永遠に、自分だけに響く祈りを繰り返し続ける。
アイビスはその姿を見下ろし、皮肉な笑みを浮かべた。
「信仰とは便利なものね。……どれだけ踏みにじっても、勝手に幸福を見つけて縋りついてくれるのだから」
その冷徹な紫の瞳には、もはや哀れみすら宿ってはいなかった。
*
霧が晴れた広間の中心で、アルドリックは地に伏していた。
黒い焦げ跡が肩から腕に広がり、呼吸は浅く途切れがちだ。
その姿を見て、アイビスは足音をわざと響かせながら近づいた。
紫の瞳が冷たく彼を映す。
「……天才と呼ばれた男が、この程度?」
吐き捨てるような声。
彼女は掌を掲げ、時間の糸をつまむように指先を震わせた。
逆流する気配とともに、アルドリックの体の傷が巻き戻されていく。
裂けた皮膚は縫い合わされるように閉じ、砕けた骨が軋みながら元の形を取り戻す。
「っ……!」
アルドリックの喉から苦悶の声が漏れる。治癒は救いであるはずなのに、彼にとっては拷問のようだった。
「黙りなさい。泣き声くらいなら、もっと盛大に上げなさいな。……みっともなくて笑えるわ」
アイビスの唇が冷ややかに弧を描く。
やがて修復が終わると、彼女は手を離し、まるで汚れ物を払うように掌を振った。
「私……貴方には期待していたのよ。ずぅっと、ずぅっとね。私を超えようと本気で足掻く人なんて、他にはいなかったもの。……でも結局はこのざま」
アルドリックは荒い息を吐き、必死に立ち上がろうとする。
その様子を見て、アイビスは小さく笑った。
「立ちなさい。せめて私の視界にいる間は、無様に足掻いて見せなさい」
「……見てろよ、アイビス。必ず、お前を超えてみせる!」
一瞬、アイビスの瞳に微かな揺らぎが走った。
皮肉げな笑みを浮かべながら、彼女は囁く。
「……そういうところが、癪に障るほど愛おしいのよ」
その声の直後、彼女の表情から冷徹な仮面がふっと剥がれ落ちた。
瞳に宿った光は、あの冷たい紫ではなく、儚さ、優しさを帯びている。
「……アルドリック……?」
かすれる声。まるで長い眠りから目覚めたかのように。
次の瞬間、アイビスの体が力を失い、崩れ落ちる。
「――アイビスッ!」
アルドリックは反射的に手を伸ばし、その華奢な体を抱き止めた。
「……何で一瞬だけ、元に...どうなってやがる」
その言葉は、怒りでも皮肉でもなく、安堵の吐息に似ていた。
アルドリックの腕の中で、アイビスは静かに眠るように目を閉じていた。
荒い息を整えながら、彼はその体を抱きしめる。
――その時、背後から足音が近づいてきた。
「……無事か、2人とも」
低く短い声。
振り返ると、霧の中からオキタが姿を現した。
衣のあちこちに裂け目が走り、刀身には黒い血が滴っている。
「お前の相手をしてた魔導師とやら……俺が斬った」
それだけ言うと、オキタは淡々と刀を払って血を落とし、鞘に収めた。
アルドリックは一瞬言葉を失い、それから苦笑を浮かべる。
「……そうか。助かった」
オキタは答えず、ただ視線を落とす。
アルドリックの腕に抱かれたアイビスの顔を見て、ほんのわずかに目を細めた。
「……何があったんだ」
その一言を残すと、彼は広間の中心――黒い石柱の立つ場所へと歩みを進めていった。
霧の中で、ようやく三人が再び揃った。
*
どれほどの時が経っただろうか。
重苦しい沈黙の中、アイビスのまぶたがわずかに震え、紫の瞳が開かれた。
しかしそこにあったのは冷徹な光ではない。
怯え切った子供のように揺らぎ、何かから必死に逃れようとする色だった。
「……っ、ぁ……や……」
喉がひゅっと詰まり、声にならない悲鳴がこぼれる。
その瞬間、体が跳ねるように痙攣し、過呼吸になり、汗が滲んでいた。
アルドリックは慌てて彼女を抱きとめる。
だがアイビスは支えられることすら恐怖と感じたのか、必死に身をよじり、弱々しく突き放そうとした。
「……触るな……やだ……こないで……!」
冷酷に人を見下していた女帝の声とは思えない。
涙と唾液でぐしゃぐしゃに濡れた顔は、誰が見ても惨めで、無様で、ただ一人の少女に過ぎなかった。
だが拒絶しながらも、震える指先は宙を掻き、掴むものを探していた。
誰かの手を、温もりを――心の奥底では求めてしまっている。
アルドリックがその手を握ると、アイビスは「やだ……やだ……」と繰り返しながらも、力なくしがみついた。
涙で濡れた睫毛が震え、嗚咽が途切れ途切れに漏れる。
胃の中身を吐き出したあと、全身の力が抜け、彼女は支えがなければ倒れてしまうほど弱々しかった。
「……いや……いやぁ…………わたし……こんなの……」
それは誰に聞かせるでもない、ただ自分自身を罵倒するような呟き。
絶対者の仮面が剥がれ落ち、残ったのは惨めに泣き喚き、矛盾に引き裂かれる一人の少女だけだった。
アルドリックは彼女を抱き寄せ続ける。
その腕に抵抗する力はもうなく、アイビスは拒絶の言葉を口にしながらも、結局その胸にすがりつくしかなかった。
やがて、落ち着きを取り戻したアイビスは、冷たい地面に手をついたまま震えていた。吐き気の残滓が喉を焼き、涙で濡れた頬は酷く熱い。
「……ごめんなさい……私……」
言葉は掠れ、途切れ、情けなさしか残っていなかった。
アルドリックはゆっくりと腰を落とし、彼女と同じ目線に立つ。怒鳴りたい衝動をぐっと飲み込み、代わりに硬い声で告げる。
「……謝るな。惨めだろうが、弱かろうが……生きてるだけで十分だ」
アイビスは震える唇を噛み、視線を逸らした。自分の弱さが情けなく、恐ろしく、認めたくなかった。だが――その肩に置かれた手の温もりが、ほんの少しだけ心を繋ぎ止める。
「……それでも……私、怖いの。もう……立ち上がるのさえ……」
「怖ぇなら俺が隣にいる。お前が崩れ落ちそうになったら、俺が引き上げる。だからお前は俺が崩れ落ちそうになったとき、俺を引き上げてくれ。....強くなるしかないんだ!」
アルドリックは真っ直ぐに言い切る。その声音には揺るぎない力があった。
紫の瞳がかすかに潤み、アイビスは彼を見上げた。
「……それって……二人で?」
「ああ、二人でだ。俺一人でも、お前一人でも無理なら……二人で強くなるしかねぇ」
少しの沈黙ののち、アイビスの喉から小さな笑いが漏れた。涙に濡れた声は、けれど確かに希望を宿していた。
「……ふふ。ええ……じゃあ、約束よ。二人で強くなるって」
アルドリックは頷き、力強く彼女の手を握り返した。
二人の姿は、勝者のそれではない。敗北と惨めさを抱えたまま、なおも立ち上がろうとする者の姿だった。
アイビスとアルドリックの手が固く結ばれているのを、少し離れた場所からオキタは黙って見ていた。
その眼差しには皮肉も嘲笑もなく、ただ静かな観察の色だけがある。
「……ったく、俺のことを忘れんなよ」
ぼそりと吐き出した声は、いつものように荒っぽい。だが不思議と、そこに棘はなかった。
アイビスはアルドリックに支えられながら立ち上がる。まだ足元は頼りないが、瞳には微かに光が戻っていた。
「……ありがとう、オキタ」
「礼は要らん。お前らが立ち上がるなら、それでいい。俺は決めた、武士として最期まで....!」
そう言い捨てて、彼は背を向ける。だが歩みはゆっくりで、二人がついてこられるのを待つようだった。
アルドリックは深く息を吐き、アイビスの肩を支えたまま前を見据える。
「……進もう、三人で!」
「……うん」
かすかな笑みを浮かべ、アイビスは頷いた。
三人は霧の中を並んで歩き出す。
敗北の痛みも、恐怖の記憶も、まだ胸に焼き付いたまま。だがそれでも――三つの影は、確かに同じ方向を向いていた。