己との戦い
村は静かだった。
子どもたちは声を潜め、大人たちは重い足取りでそれぞれの仕事に戻っていく。
オークの群れは一掃したので、今後ある程度は無事だろうがミレーユがいなくなった以上戦力が乏しく、ある程度の準備が整ったら他の集落へと合流しに行くそうだ。
どうやらこの世界の中心部行けば行くほどまだ未開の大地が広がっているらしい。神話としてかつてのアイビスらこの世界の中心に王座していたとか。
この世界の謎を解き進み、アイビスの記憶を取り戻すためにも世界の中心部に行くのが手っ取り早いのは間違いないのだが、ミレーユが守り切ったこの村を放っておくのも気が引ける。
「……行くか」
アルドリックは短く言い、杖を背に回した。
だが村に残るという選択肢は、誰の頭にもなかった。
黒い剣士は、ただの通り魔ではない。あれが現れた理由も、なぜこの村を襲っていたのかも、次にどこを狙うかも分からない以上、立ち止まっていられなかった。
村を離れると、道はすぐ森に沈み込む。
陽光は梢に遮られ、地面は湿り、腐葉土の匂いが濃くなる。
歩くたび、靴底がぬかるみに沈み、小さな水飛沫が跳ねた。
「空気が重い……」
アイビスが小声で言う。
森の奥から、時おり聞こえるのは鳥でも獣でもない、低い泡立つような音。
それが近づくたび、オキタは腰の刀に手をかけ、視線を走らせる。
「この先だ」
アルドリックは足を止め、古びた大きな地図を広げた。
丸い水面の記号と、消えかけた文字。
『ヌマ』――地図を描いた者が途中で手を止めたかのような、不自然な筆跡。
「沼……? でも、この匂いは……」
アイビスは鼻を押さえた。甘いような、鉄のような、言葉にできない悪臭が風に混ざっている。
「ただの沼じゃないな」
オキタの目は細くなる。
その眼差しは、過去に何度も死地を踏み越えてきた者のものだった。
やがて木々が開け、視界の先に濁った水面が広がった。
水面は風もないのに小さく波打ち、中央からゆっくりと泡が立ち上る。
その泡が弾けるたび、空気がさらに重く、湿った膜のようにまとわりついてくる。
「ここを……渡るの?」
アイビスの声は僅かに震えていた。
だが、アルドリックは水面を見据えたまま頷く。
「世界の中心部に行くためにも、ここは通り抜けなくては行けない」
オキタは一歩、泥に足を踏み出す。
その瞬間――水面全体が、不気味に脈打った。
そして、空も木々も霧のように溶け、視界が真っ白に染まっていく。
*
湿った土の匂いが鼻をつく。
気がつくと、オキタは夜の街道に立っていた。月明かりはなく、遠くに揺れる灯がぼんやりと浮かんでいる。
その灯の方から、ひとつの影がゆっくり近づいてきた。
「……近藤さん」
自分でも驚くほど、小さな声が漏れた。
近藤勇が、そこにいた。
あの頃と同じ隊服、同じ真っ直ぐな背。だが、その顔には深い影が落ちている。
「総司。元気そうでよかった……悪いな、お前の最期を見届けられなくて」
「……近藤さんだって……ごめん……助けに行けなかった。俺が……俺が刀を振れていれば……」
風も、虫の声もない。ただ、互いの視線だけがぶつかり合う。
――次の瞬間。
背後から無数の声が押し寄せた。悲鳴、怒号、血の匂い。かつての戦場の音が、闇に溶け込んで響く。
「俺はあの時、皆を守れなかった。自分の死に、満足なんかできない……最期まで戦いたかった」
近藤の声は低く、重かった。
「総司、覚えているか? 武士として恥じない死を迎えよう……と」
オキタは小さく息を吐き、かすかに笑った。
「ああ……そうか。やっぱり俺は一度、死んでいたんですね」
近藤は何も言わなかった。
その代わり、闇が足元から這い上がり、オキタの身体を絡め取る。
それは後悔と迷いを具現化した黒い鎖で、抜刀どころか呼吸すら奪う。
「お前が帰ったところで、俺たちはもういない。それでも進み続けるのか?」
近藤の瞳が、心の奥を暴くように光った。
オキタは目を逸らさず、真っ直ぐに見返す。
「今度こそ俺は最期まで戦い抜きたい。仲間を守るため……武士として」
「……そうか。約束だぞ、幕末最強の剣士――新撰組一番隊組長、沖田総司よ!」
鎖がわずかに緩む。だがすぐに、さらに強く締め付けてくる。
これは刀では断てない。
オキタは深く息を吸い、目を閉じた。
冷たい鎖も、近藤の影も、すべて心で受け止める。
――砕けた。
乾いた音とともに鎖は粉々になり、闇が霧のように消えた。
目を開けると、近藤の姿はもうない。ただ月が、静かに照らしていた。
手元に重みを感じる。そこには、かつての愛刀・菊一文字則宗があった。
「……ありがとう、近藤さん……新撰組のみんな!」
*
――水音がした。
ぽつり、ぽつりと、落ちる雫の音。
目を開けると、そこは底知れぬ湖の上だった。
水面は星も月も映さず、ただ果てまで黒く続く。
それでもアイビスは、まるで固い大地の上に立っているかのように沈まなかった。
「……ここは、どこ?」
声は澄んで響くが、返事はない。
次の瞬間、遥か彼方からひと筋の光が近づいてきた。
光は人の形を取り、やがて鮮明になっていく。
銀白色の髪が背に流れ、青紫のグラデーションが淡く揺れる。
深い紫の瞳は感情の波を欠き、ただ底なしの知識と時を湛えていた。
純白のローブには星座や時計の紋様が刻まれ、衣の裾が湖面に触れても波は立たない。
――それは、自分だった。
だが記憶の中には存在しない、自分。
「……あなたは?」
「問う必要はない。私はお前だ」
同じ声なのに、響きは冷たい。どこまでも静かで、揺らぎを知らない。
「どうして……」
「お前は弱すぎる。記憶も力も失ったままでは、私の名を汚すだけだ」
その言葉と同時に、湖面が裂ける。
暗い水の底から、無数の光の鎖が飛び出し、生き物のように蠢いてアイビスの手足に絡みついた。
「くっ……!」
鎖に触れた瞬間、身体の奥から何かが吸い取られていく。
力だけじゃない。心の芯まで削り取られるような感覚。
「守れるか? お前に仲間が救えるか? 何度も、また、失うだけだ。お前はただの足手纏い。邪魔だ」
声は刃のように突き刺さる。
アイビスは視線を落とす。
何も思い出せない――自分が何者だったのかも。
でも、胸の奥のどこかで、小さな光が瞬いた。
――笑っている顔があった。
自分を信じてくれた声があった。
それだけは、鮮明に覚えている。
「……私は」
弱い声。だが、その奥には熱があった。
「私は、今の私として……守りたい人がいる!」
瞬間、足元から白い光が噴き上がる。
鎖はその輝きに弾かれ、粉々に砕け散った。
“かつての自分”が、わずかに瞳を見開く。
「……その言葉、忘れるな」
湖面が波紋のように広がり、世界が白く塗りつぶされていく。
*
――目を開けた瞬間、世界が止まった。
音も、風も、呼吸すらも消え失せ、空は青白い静寂に染まっている。
足元には、鏡のように光る水面が広がっていた。どこまでも続くその水は、空と溶け合い、境界を失っている。
「……ここは……」
アルドリックが呟いた時、遠くに人影が現れた。
それはゆっくりと近づき、やがて全貌を現す。
銀白色の髪は背中まで流れ、青紫の光が淡く揺れる。深い紫の瞳は無表情のまま、しかし底に無限の時を秘めているようだった。純白のローブには星座と時計の紋様――時を超える者の証。
「……アイビス……?」
かつての、彼女だった存在。
だが返ってくる声は冷たく、氷よりも鋭い。
「お前は私を超えることはできない」
その瞬間、世界が軋んだ。
空が砕け、光が無数の破片となって降り注ぐ。水面は逆巻く渦と化し、嵐のような魔力が四方から押し寄せる。
アルドリックは反射的に魔法陣を展開する。
だが――
「遅い」
わずかな詠唱の間に、紫の光が閃き、彼の防壁が粉々に砕けた。
次の瞬間、衝撃波が全身を打ち抜く。
後方へ吹き飛ばされながらも、アルドリックは杖を構え直す。
「……まだだ!」
火炎、氷槍、雷撃――ありったけの魔術を重ね放つ。
しかし。
彼女はそれらすべてを指先ひとつで消し去った。まるで、最初から存在しなかったかのように。
「その程度で私に挑むのか。滑稽だ」
冷ややかな声が、精神を削る刃のように響く。
アルドリックは息を荒げ、額の汗を拭う暇もなく詠唱を続けた。
だが魔力が触れる前に、時そのものが止まり、彼の動きも、言葉も、力も凍結される。
「理解したか。お前がどれほど足掻いても、私の前では無力」
彼女の瞳は、勝者のそれでも憎悪のそれでもなかった。ただ冷たく、揺らがない。
時間が再び流れた瞬間、膝が崩れた。
体が言うことをきかない。
魔力の底が、完全に抜け落ちていた。
アルドリックは苦笑し、唇の端を血が伝うのを感じながら、かすかに呟く。
「……これが、本当の……アイビス……」
その時、彼女の足元に波紋が広がり、幻影がわずかに揺らめいた。
だがすぐに、それは元通りに冷たい姿へと戻る。
「立ち上がれないのなら、ここで終われ」
彼の意識は闇へと沈み、最後に見たのは、星と時計の紋様が輝くローブの裾だった。
――湿った風が頬を撫でる。
アイビスはゆっくりと目を開けた。視界の先には、黒く濁った水面と、ゆらゆら揺れる葦があった。
胸の奥で、まだあの光が静かに鼓動している。
「……戻った、のか」
傍らにはオキタが立っていた。衣の袖口が泥に濡れているが、その眼差しは迷いを吹き払ったように澄んでいる。
彼の腰には、見覚えのない刀――いや、彼だけが知る懐かしい刀が佩かれていた。
「お前も見たんだな、自分の中の何かを」
オキタはそう言って、僅かに笑った。
その笑みの奥に、言葉では届かない重さが隠れていることを、アイビスは感じ取った。
その時、水面が小さく揺れ、アルドリックが姿を現した。
濡れた外套の裾を引きずり、無言でこちらに歩み寄る。
その顔は白く、唇の端には血が滲んでいる。
「大丈夫?」
アイビスが声をかけても、彼はしばらく答えなかった。
だが、やがてかすれた声で呟く。
「……強すぎた。あれは……俺じゃ勝てない」
沼の奥から、かすかに音が聞こえる。
水が蠢くような、あるいは何かが呼吸するような、低く湿った音。
それは三人の足元の泥を震わせ、空気を重くしていく。
「……行こう」
オキタが先に足を踏み出す。
泥がぐちりと音を立て、冷たい水が靴の中に染み込む。
アイビスも、アルドリックも、その背を追った。
沼の中心に向かう細い木道は、朽ちかけていて、踏み外せば一瞬で暗い水に飲まれそうだった。
頭上では、雲が低く垂れ込め、日差しを完全に奪っている。
その闇の中で、アイビスは自分の胸に手を当てた。
まだ脈打つ光――それが何なのかは、わからない。
けれど、たしかにそれは、自分を前に進ませるためにある。
やがて、霧の向こうに黒い影が見えた。
沼の中心――そこにあるのは、ただの島ではなかった。
岩肌に奇妙な刻印が走り、中央には倒れた石柱のようなものが突き立っている。
その根元から、沼全体を覆うように黒い靄が広がっていた。
「……ここだな」
オキタの声は低く、鋭かった。
三人は一歩、また一歩と、影の中へ踏み込んでいった――。
*
やがて、足音が沼の水面に響かなくなった。
靄の奥は、不自然なほど静まり返っている。
そのとき、同時に三つの影が霧の中から姿を現した。
一人は、背中まで伸びた白髪を束ねた老剣士。
もう一人は、青黒い長衣を纏い、古の呪符を全身に貼りつけた魔導師。
最後の一人は、純白の衣に身を包んだ女――時を司る巫女。
「……来るぞ」
アルドリックが構えた瞬間、三方向から殺気が溢れた。
三人は同時に踏み込んだ。
その瞬間、霧が生き物のようにうねり、彼らの間に厚い壁を作った。
呼びかけても返事は届かず、互いの姿は一瞬で闇に飲まれる。
視界が晴れた時、オキタの足元は苔むした石橋の上だった。
橋の向こうから、背筋を伸ばした老剣士が歩いてくる。
抜刀の気配すらないのに、空気が張り詰める。
次の瞬間、距離が消え、一閃が迫った。
オキタは既に踏み込み、わずか四合で相手の刀を弾き、首筋に刃を止める。
老剣士は静かにうなずき、霧へと溶けた。
――一方、その頃。
アルドリックの足元に黒い魔方陣が広がる。
炎と氷の双槍が次々と襲いかかり、彼は雷で応戦する。
だが、敵は空間を歪ませ、全てを飲み込んでいく。
胸を貫く冷たさと熱が同時に走り、膝が折れた。
視界が揺れ、意識が闇に引きずり込まれた。
ーー闇を切り裂くように、鈴の音が響いた。
澄んでいながらも、どこか血の匂いを含んだ音色。
音を辿ったアイビスの前に、純白の衣を纏う女が立っていた。
長く艶やかな黒髪が腰まで流れ、細身の指先には小さな銀鈴が揺れている。
だがその唇は、笑っているのか泣いているのか判別できない歪な弧を描いていた。
「やっと……やっと会えました、わたくしの神よ……」
女は両手を胸の前で組み、ひざまずくように身を傾ける。
その瞳は紫に濁り、光の代わりに狂気が宿っていた。
「神よ……どうしてあの時、わたくしを置き去りになさったのです?
あぁ、でも、許します。何度裏切られても、わたくしはあなたのために血を流しましょう」
女は立ち上がると、舞うような動きで間合いを詰めた。
その足運びは踊りにも似て美しく、しかし一歩ごとに鈴の音が刃のように響く。
アイビスは後退しながら構えるが――紫の瞳が全てを見透かす。
振るう前の手首の僅かな動きで、アイビスの体には激痛が走る。
数合のうちに自分の視界から両手足が消え失せ、想像を絶する痛みと熱さが感じる。
「あ゛ぁぁァ゛ァぁぁぁぁぁ゛!!!!!」
「……あぁ、神よ! なぜそんな目をなさるのです?
かつてのあなたは……あぁ、美しかった……
冷徹で、遠く、わたくしの手が届かぬ高みにおわした!」
女は笑いながら泣き、泣きながら笑う。
その声は甘く、しかし耳に焼き付く毒を含んでいた。
「戻ってきてください……わたくしの、唯一無二の神よ……!」
アイビスのこめかみを、針で刺すような激痛が貫いた。
視界が白く染まり、世界が震える。
胸の奥から、何かが――いや、誰かが目を覚まそうとしていた。
女が鈴を振りかざす瞬間、アイビスの紫の瞳が、かつての冷徹な光を宿す。
――そこで、闇が落ちた。
「私に触れるなーー下衆」