立ち塞がる者、立ち続ける者、立ち上がる者
谷底の闇は、霧よりも深く、底知れぬ静けさを湛えていた。
その静けさの中で、水が滴るような音がひとつ、またひとつと響く。
だが、それはやがて不自然なほど規則的になり――最後には、耳鳴りのような低い振動に変わった。
「……なんだ、この音」
アルドリックが呟く。
足元の石板が細かく震え、白い霧が渦を巻くように谷底から吸い上げられていく。
霧の中心には、光でも闇でもない、奇妙な“空白”が浮かんでいた。
形はなく、縁だけが揺らめき、そこからじわりと影のような触手が伸び出す。
オキタの目が細まった。
「……あれは嫌な予感しかしない」
「根……か?」
触手が岩肌をなぞるたび、苔が黒く変色し、瞬く間に石そのものが軋んだ。
そこから漂うのは、鉄と血と、嗅いだことのない薬草の腐敗臭。
「……嫌な予感がする」
オキタが背を向ける。
「撤退するぞ。谷の北側に小さな集落が見えた。それに……思い返せば戦いづめだったな。傷も心も、そろそろ休めるべきだ」
「お腹すいたぁ」
アイビスが力なく同意する。
「でもあれ、放っておいていいのか?」
「倒せる力があるならやってみろ。俺はごめんだ」
短い言葉に、経験と警戒の色が滲む。
アルドリックも一瞬だけためらったが、触手の一本が岩を粉砕するのを見て踵を返した。
三人は山道を駆け抜ける。
谷を離れるにつれ、腐敗臭は薄れ、かわりに焚き火と麦の甘い香りが鼻をくすぐった。
やがて、岩陰に寄り添うように並んだ十数棟の木造家屋が見えてくる。
煙突からは細い煙が立ちのぼり、遠くで子どもの笑い声がかすかに響いた。
「……生きてる村か」
アルドリックが呟く。
この世界に来てから、荒廃した廃墟ばかりを見てきた彼にとって、人が暮らす音と匂いは、それだけで奇跡に思えた。
門とも呼べない木の柵の前に、赤髪の若い女性が立っていた。
陽を受けて燃えるような短髪、緑がかった灰色の瞳。
鎧ではなく旅装束に近い軽装、槍が地面に突き立っている。
彼女は三人を見ると槍に手をかけ、低く問いかけた。
「……あんたら、どこの者だ?」
「通りすがりだ」
オキタが淡々と答える。
女は視線を鋭くし、次にアルドリックの杖と腰の魔石袋へ目を移した。
「その妙な棒……何に使う?」
「……武器だが?」
アルドリックが答えると、女は小さく鼻で笑った。
「武器? 棒でどうやって戦うんだ? 殴るのか?」
「……魔術だ」
「まじゅつ……?」
まるで本当に聞き慣れない言葉のように、首を傾げる。
魔術という概念すら知らない――彼女がどの時代、どの世界から来たのかは分からなかった。
オキタが口を挟む。
「警戒するな。俺たちはただ、休める場所を探してるだけだ」
女はしばらく三人を観察し、やがて肩の力を抜いた。
「……怪物じゃないなら、まぁ入っていいさ。食事ぐらいは出してやる」
門をくぐると、家々の間を香ばしい匂いが流れた。
大鍋で肉と野菜が煮え、焼きたてのパンが木棚で湯気を立てている。
アルドリックは思わず深く息を吸い込んだ――旅の中で嗅ぐ“生きた食事”の匂いは、久しぶりだった。
「そういや、名前を聞いてなかったな」
アルドリックが問うと、女は口元に笑みを浮かべる。
「ミレーユだ。槍の腕にはそこそこ自信があるが……魔術とやらは、ちんぷんかんぷんだな」
暖かな食堂に案内され、四人は木の長卓に腰を下ろした。
土壁に吊るされたランタンが、琥珀色の光を揺らす。
村の子どもが、大きなパン籠を抱えて走り回っている。
「はい、スープだよ」
年配の女性が大鍋からよそってくれたのは、湯気立つ鹿肉と豆のスープ。
ローズマリーの香りが鼻をくすぐる。
「……うまそうだな」
オキタが湯気越しに目を細める。
アルドリックは杖を立てかけ、スープを一口啜った。
塩気は控えめだが、肉の旨みと香草の爽やかさが口いっぱいに広がる。
「うまい……これ、焚き火だけで煮たのか?」
「そうだが?」
ミレーユが首を傾げる。
アルドリックは少しだけ微笑み、掌をかざす。
――ふっと、スープの表面に淡い金色の光が散った。
香りが強まり、味もさらに濃くなる。
「なっ……何をした!?」
ミレーユがスプーンを握りしめる。
「ただの味付けだよ。魔術で、素材の香りを引き出しただけだ」
「……信じられないな」
だが、彼女は疑いながらもスープを口に運び、思わず表情を緩めた。
「……悪くない」
食事が進むうちに、村のざわめきが少し落ち着いた。
長卓の端では、子どもたちがパンをちぎりながら笑い、外では犬が短く吠える声がする。
そんな穏やかな空気の中で、ミレーユはふと視線を落とした。
「……この村は、よくここまで持ったもんだな」
オキタが、鹿肉を噛みながらぼそりと呟く。
「何の話だ?」
「森の匂いが変わってる。血と灰……最近、大きな戦いがあっただろ」
ミレーユはスプーンを置き、わずかに眉をひそめた。
「……ああ。オークの群れだ。数は多くないが、何度も襲ってくる。奴らは食い物だけじゃなく、家畜や人間まで奪っていく」
「村の兵は?」
「兵なんていない。自分たちで守るしかないんだ」
アイビスが心配そうに首を傾げる。
「そんなの、ずっとは持たないよ……」
「分かってるさ」
ミレーユは、スープの底をかき混ぜるように匙を動かした。
「だから――次に来た時に決着をつけるつもりだ。奴らの巣を突き止めて、叩く」
「一人でか?」
オキタの声には、呆れと少しの興味が混じっていた。
「私の槍は……人より速く、深く届く。昔からそうだった。理由は分からないがな」
言葉の端に、彼女も気づいていない血の記憶のようなものが滲む。
アルドリックはパンをちぎりながら、少し身を乗り出した。
「その戦い、俺も手伝おう。魔術なら、数でも力でも補える」
「まじゅつ……本当にそんなもので勝てるなら、ありがたいが」
「試してみるか?」
アルドリックが掌に小さな火花を散らすと、ランタンの炎が一瞬だけ膨らみ、部屋の影が揺れた。
ミレーユは目を細めたが、否定はしなかった。
オキタは椅子の背にもたれ、外の夜空をちらりと見やる。
「……どうせ暇だ。少しなら付き合ってやる」
そう言いながらも、その目は戦場を測る兵士のように冷静だった。
ミレーユは器のスープを飲み干し、椅子から立ち上がった。
「なら決まりだな。夜が明けたら森へ出る。奴らの巣まで案内する」
その声は静かだが、迷いはなかった。
外の風が窓を揺らし、遠くで梟の声が響く。
この村の夜は、平穏に見えて実のところ嵐の前触れのようだった。
アイビスは緊張からかやや呼吸が浅く見える。
アルドリックは膝に置いた杖を握り締める。
オキタは目を閉じ、腕を組んだままでいる。
やがて、薄く笑った。
「そういや、この村の道……獣の足跡がやけに多かったな」
「……気づいてたのか」ミレーユが低く呟く。
「ああ。数も大きさも、普通じゃない」
ミレーユはしばし沈黙した後、淡々と告げた。
「オークだけじゃない。森の奥には“黒い影”がいる。見た者は少ないが……村を襲った奴らは、必ずそいつの方向から来る」
アイビスの顔がこわばる。
「それって……群れの主みたいなやつ?」
「かもしれない。けど、確かなことはわからない」
アルドリックは、意図的に笑みを作った。
「なら、まとめて片付ければ話は早い」
その瞬間、外から犬の短い吠え声が二度、三度と響き――途切れた。
ミレーユが槍を掴み、窓際に駆け寄る。
「……来た」
夜の闇の中、木柵の向こうに影が蠢いていた。
最初は獣の群れかと思ったが、月明かりが差した瞬間、それらが二足で立ち、黄緑色の瞳を光らせているのが見えた。
オークだ――しかも十や二十ではない。
村人たちの叫び声が上がり、物音が一気に騒然と変わる。
オキタは刀を抜き、アルドリックは杖の先に魔力を集めた。
ミレーユは槍を回し、短く息を吸った。
「迎え撃つ!」
次の瞬間、外から柵を打ち破る音と共に、闇が村に雪崩れ込んだ。
オークたちは咆哮と共に突進してきた。
地面を蹴る足音が大地を揺らし、湿った獣臭が一気に広がる。
先頭の一匹が棍棒を振り下ろすが、ミレーユがそれを槍で受け止め、刃先を返して喉笛を貫いた。
返り血が夜気に蒸発する。
オキタは音もなく背後に回り込み、抜刀と同時に二匹の首を斬り落とす。
刀身に血が飛ぶが、その動きは淀みなく次の敵へと移った。
しかし、数が多い。
柵を破った穴から次々と侵入し、村の中央へと雪崩れ込もうとしていた。
村人たちも農具や弓で応戦しているが、押し返すには力不足だ。
アルドリックは素早く状況を見渡し、目を細めた。
(正面から削るだけじゃ間に合わない……なら、動きを止める)
彼は杖を地面に突き立て、低く呟いた。
「《束縛の根》」
足元の土が震え、オークの足元から無数の黒い根が生え出した。
それは瞬く間に敵の脚を絡め取り、棍棒を振り上げたまま硬直させる。
前線の十数体が一斉に動きを止め、村の入口に“壁”のように立ち尽くした。
「今だ!」
ミレーユが駆け出し、槍を突き込む。
拘束された敵は反応も遅れ、一突きごとに沈んでいく。
だがアルドリックは満足していなかった。
奥のほうで、さらに大きな影が動く。
(――あれが群れのリーダーか)
彼は杖を横に振り、今度は詠唱を省略して炎を凝縮させた。
それはただの火球ではなく、極限まで圧縮された“赤熱の槍”だ。
「灼槍」
放たれた炎の槍は空気を裂き、柵の向こうの巨体を直撃した。
爆ぜる衝撃と共に、夜空が一瞬昼のように輝く。
その爆風で後続のオークたちが吹き飛び、侵攻が完全に止まった。
村の戦士たちは一瞬呆然とし、すぐに歓声を上げた。
ミレーユは汗に濡れた額を拭い、振り返る。
「……あんた、本当に人間か?」
冗談めかしたその声には、驚きと感嘆が混じっていた。
アルドリックは肩をすくめ、杖を軽く回した。
「天才ってやつだ」
その時――夜風が急に冷たくなった。
戦場に漂う血の匂いを押し流すように、ぞわりと肌を刺す気配が降りてくる。
オキタが顔を上げ、月明かりの下を睨んだ。
「……来たぞ。黒い影だ」
闇の中から一歩、また一歩と、黒い影が現れる。
その歩みは静かで、戦場のざわめきが嘘のように消えていく。
月光に照らされたその姿は、人の形をしている――だが、人ではない。
全身を漆黒の布で覆い、顔は仮面に隠されている。
仮面の奥の瞳が、血のような深紅で光った。
右手の剣は、煤のように黒く濁り、刃から絶えず黒煙が立ち昇っている。
その煙が地面に触れるたび、草は音もなく枯れ、土が灰色にひび割れた。
影は言葉もなく、剣を肩に担いだまま距離を詰める。
村人たちは息を呑み、後ずさる。
ミレーユが槍を構え、前に出た。
「……来い」
風が止む。
次の瞬間、影の姿が掻き消えた。
視界の端で地面が抉れる。
背後からの殺気に、ミレーユは振り返りざま、槍を全力で突き出す――が、その穂先は黒い刃に阻まれた。
衝撃で足が沈む。
その瞬間、横から鋭い閃光。
オキタの刀が黒い刃を弾き飛ばしていた。
片腕で受けたはずなのに、その剣筋は寸分の狂いもない。
「遅い」
短く吐き捨てると、オキタは一歩踏み込み、斬撃を連続で叩き込む。
それは速さではなく、正確さで相手を封じる剣。
だが影も、常人離れした反応で全てを受け流す。
金属音が夜気を裂き、火花が二人を照らした。
「下がれ、私が――!」
ミレーユが間に割って入り、槍が弧を描く。
オキタと影の間を切り裂くような一撃。
しかし――黒い剣が、槍を受け止めた瞬間、闇が爆ぜた。
爆風のような衝撃に、オキタさえも半歩押し返される。
ミレーユは踏ん張ったが、その体を裂くような横薙ぎが走った。
赤が宙に舞い、彼女は立ったまま動かなくなる。
「……これで……くそぉ……」
そのまま膝が崩れ、地に沈んだ。
ミレーユが崩れ落ちる直前、アルドリックは素早く前に出た。
杖を地面に叩きつけると、足元から淡い光の紋が広がり、空気が震える。
「――連環火鎖!」
瞬時に複数の炎の鎖が影の腕や脚に絡みつく。
熱で黒煙が揺らぎ、剣の動きが鈍った。
アルドリックは間を置かず、指先をはじくように動かす。
「加速雷槍!」
雷光が奔り、空を裂くような轟音と共に影へ突き刺さる。
衝撃で仮面が半分割れ、下から蒼白な肌が覗いた。
「……悪くない」
低い声と共に、黒い剣が炎の鎖を断ち切る。
次の瞬間、影は足元の土を爆ぜさせ、一気に間合いを詰めた。
アルドリックは杖を横に払って衝撃波を放ち、距離を取る。
しかし影の動きは加速し、剣撃が次々と迫る。
それは重さではなく、まるで刃そのものが意志を持ち、獲物を狩るような速度だった。
防御魔法を展開しても、黒い剣が触れた瞬間に魔力が削り取られ、光の膜が消えていく。
「……ちっ、魔力を喰う武器か」
アルドリックの額に汗が滲む。
詠唱を紡ぐ暇も与えられず、剣が頬をかすめた。
その時――地を打つ音が響く。
振り返ると、槍を杖のように支えたミレーユが、ゆっくり立ち上がっていた。
「まだ……終わっちゃいない」
彼女の瞳は、赤銅色に輝き、瞳孔が細くなっている。
呼吸が荒いはずなのに、その足取りは揺らがない。
槍先から淡い蒼光がほとばしり、夜の闇を裂いた。
ミレーユは疾風のように踏み込み、槍を突き出す。
一撃、二撃――その速度はさきほどの倍。
影の黒剣でさえ受け止めきれず、刃の隙間から血が噴いた。
「ぐッ……!」
影が初めて呻き、後退する。
ミレーユは追撃の構えを崩さない。
その動きは、まるで槍と一体化した獣のようだった。
しかし、影は一瞬の隙を突き、剣を真横に払った。
蒼光が散り、槍の柄が折れる。
次の瞬間、ミレーユの胸を深々と黒い刃が貫いた。
だが――彼女は倒れなかった。
「……これで……終いだ」
槍の残った半分で、影の肩を深く穿つ。
黒煙が裂け、影がよろめく。
ミレーユはそのまま、立ったまま動かなくなった。
瞳の輝きがゆっくりと失われ、夜風が彼女の短い赤髪を揺らした。
黒い剣を握る影は、肩から噴き出す煙を押さえ、低く笑った。
「……恐ろしい女だった」
その声と共に、足元から闇が広がり、彼の姿を呑み込んでいく。
やがて夜風だけが残り、戦場は静寂に包まれた。
「……逃げたか」
オキタが刀を下ろし、短く吐き捨てる。
視線はすぐにミレーユへ向かうが、その身体はもう微動だにしなかった。
アルドリックは無言で駆け寄り、彼女の肩を支える。
立ったままの姿勢のまま、温もりだけがゆっくりと消えていく。
胸を貫いた傷口から流れる血は、すでに冷え始めていた。
「……まだ、温かいのに」
アイビスが震える声で呟く。
アルドリックは唇を噛み、彼女の瞳を閉じてやった。
「お前の槍は……本物だったよ」
その声はかすれ、誰に聞かせるでもない呟きだった。
村人たちが恐る恐る近づき、ミレーユの名を呼ぶ。
泣き崩れる者、唇を噛んで拳を握る者――その表情には、守り手を失った喪失が濃く刻まれていた。
オキタはしばらく黙っていたが、やがてアルドリックに向かって言った。
「……あの剣、ただの武器じゃない。妖術を存在ごと消し去っているような斬撃だった。もし次に会ったら、準備なしじゃ終わるぞ」
アルドリックは答えず、ただ夜空を見上げた。
*
翌朝。広場の真ん中に薪が積まれ、その上に安らかな顔のミレーユが横たわる。血を洗われた槍が並び、刃が朝日に鈍く光る。
輪になって花とパンと果物が供えられ、子どもたちが白い野花を抱えてすすり泣く。
長老が祈る。
「ミレーユ……お前がいたから、ここは生き延びた。槍の娘よ、次の世でも誰かを守れ」
火が灯り、炎がゆっくりと包む。灰が舞い、空へほどけていく。
アルドリックは最後まで見届け、低く言った。
「……次は、必ず勝つ」
人生で二度目の――完全敗北だった。