始まり
アルドリックは、ルポンへと続く道を一歩ずつ踏みしめていた。
周囲は一面の岩山。吹きつける冷たい風が頬を刺し、前方は白い霧に覆われている。道はどこまでも険しく、まるで彼を拒むかのように立ちはだかっていた。天へと突き立つ岩壁が連なり、足場は脆く、不意に岩が崩れ落ちる音が響く。
歩みを進めるうちに、世界そのものが歪んでいくような感覚がアルドリックを包む。
「この先に……ルポンがあるはずだ」
独り言をこぼしながら、彼は必死に進む。しかし、視界は霞み、足取りは重くなる。全身が冷え切り、鼓動すら遠くで響くように感じられた。
やがて足元が崩れ、アルドリックの意識は闇に沈んだ。
⸻
目を開くと、そこは見知らぬ光景だった。
空は透き通る青、遠くの山々は古代の遺跡のように重々しくそびえ立つ。大地は岩だらけで、何千年も過去に遡ったような気配が漂っている。苔むした石造りの建物が、沈黙のまま佇んでいた。
「ここは……?」
呟いたとき、目の前に倒れている少女が視界に入る。銀白色の長い髪が風に揺れ、青紫の瞳がかすかに開かれていた。その顔立ちは――アイビスに酷似していた。
「アイビス……?」
名を呼ぶが、少女は反応しない。瞳は空虚で、知識も記憶も抜け落ちたかのようだ。やがて彼女はわずかに身じろぎし、掠れた声で問う。
「……あなたは?」
答えに迷いながらも、アルドリックは尋ね返す。
「君の名前は……アイビスか?」
一瞬、彼女の瞳に光が宿ったように見えた。しかしすぐに消え、再び空虚に戻る。
⸻
不意に、鋭い足音が近づいてきた。
森の影から現れたのは、一人の剣士。無駄のない動き、冷徹な眼差し――実力は一目でわかる。
「お前が、私の試練か?」
言葉と同時に剣士は突進してきた。アルドリックは反射的に魔法を放つが、その速さは異常だった。刀が肩をかすめ、焼けるような痛みが走る。
「痛っ……!」
反撃の炎が周囲を包むも、剣士は軽やかに回避しながら迫る。
「――お前も妖術使いか?」
冷たい声が響き、次の瞬間、彼は名乗った。
「我が名は新撰組一番隊組長、オキタ!」
アルドリックは構えを取った。
周囲は白く濃い霧に覆われ、足元は湿った岩肌。踏み込むたびに小石が転がり、深い谷へとカラカラと音を立てて落ちていく。
冷たい風が霧を裂き、その隙間から時折、鋭い眼光が覗いた。
足幅をわずかに広げ、右足を半歩引いた姿勢は、一見ただの立ち姿に見える。しかし、全身の重心が地面へと沈み込むような圧力を帯びている。まるで岩壁が動き出す直前の静止。
その動き一つで、空気が張り詰め、霧さえ動きを止めたように見えた。
(間合いは五歩……だが、この距離は奴にとってゼロと同じ)
風が止まり、耳に届くのは自分の呼吸と心臓の鼓動。
霧の中で、彼の黒い影が淡く揺れた。
同時に、霧の底で何かが弾ける音――そして、視界から彼が消えた。
風圧が頬を打ち、次の瞬間、足元の岩片が跳ね上がる。
反射的にアルドリックは魔力を掌に集め、半円状の障壁を展開した。
「土壁!!」
だが、それが完成する前に背後で空気が裂ける。
「くっ!」
体をひねって避けたが、左肩を焼くような痛み。衣の裂け目から温かい血が滲み、冷気に触れて一層鮮烈な痛みが走った。
足音ひとつ立てず、彼はもう正面に回り込んでいる。
アルドリックは掌を振り上げ、炎の斬撃を飛ばした。
「炎刃!」
轟音と熱気が霧を押しのけ、一瞬だけ周囲の景色が露わになる。だがオキタはその炎の刃を刀の峰で受け、火花と霧を同時に散らした。
その動きは無駄がなく、まるで長年磨き上げられた舞のよう。
背後から少女の声が響く。
「これ以上はやめて!」
オキタの瞳が一瞬だけ揺れた。
だがすぐにその光は消え、低く呟く。
「悪いが、俺は試練を乗り越えなくてはならない」
足場の小石がわずかに転がる。
腰が沈み、刀先が揺れる――蛇の舌が風を探るような不気味な予兆。
(来る!)
一閃。
アルドリックは即座に足元へ魔法陣を展開。
幾何学模様が岩肌を這い、空気がねじれ、周囲の霧さえ渦を巻く。
「む……腕が動かん!」
オキタの右腕が宙で固まり、霧の粒がその周りで静止する。
対象の時間を歪ませ、動きを封じる――世界初の魔法。しかし消耗が激しく、効果時間も短い。
(長くは持たない……)
少女を後方へ押しやり、距離を取る。
だが拘束は裂ける音と共に消え、次の瞬間には目の前にいた。
「奇妙な妖術を使う!」
その声と同時に、足場の岩が砕ける。彼はもう斬撃の間合いにいる。
(はやっ――!)
刀が閃き、霧の中で三つの残像が奔った。耳を裂く鋭い掛け声。
「――三段突きッ!!」
⸻
一突き目
岩を蹴る音と同時に、空気が鋭く割れる。
視界に現れたオキタの影が肩口を狙って突き込む。
上体を逸らして回避するも、衣と肉を同時に裂く感覚。
温かい血が霧の粒に混じり、赤い霧がふわりと舞った。
二突き目
間髪入れずに、足元の岩片を蹴って低い軌道で迫る。
正面から来たかと思えば、瞬時に角度を変え脇腹を狙う突き。
土魔術ーー「土壁」を展開――だが刀は障壁を貫き、肉を抉る。
冷気が傷口に入り込み、吐く息が震える。
三突き目
膝がわずかに沈む。そこへ真上から落ちるような最後の突き。
刃先は霧を切り裂きながら、一直線に心臓へ迫る。
(避けられない――なら……止める!)
⸻
全魔力を足元に叩き込む。
魔法陣が眩く爆ぜ、光の輪が霧を切り裂くように広がる。
「――時空固定!!」
音が消え、霧が空中で静止した。
刃先が胸から数センチのところで止まり、オキタの呼吸音すら凍り付いたように感じられる。
(……今だ!)
刃を逸らし、後方へ飛び退く。
拘束が解けた瞬間、霧がまた動き出し、風が吹き抜けた。
オキタは数歩退き、刀を下ろす。
「……妙な妖術だ。だが悪くない」
アルドリックは肩で息をしながら言葉を絞り出す。
「オキタ、といったか。お前は試練がどうのと言ったな。なら俺の話を聞け。俺とこの少女は、お前の試練じゃない。この世界に来たばかりなんだ」
「証拠はあるのか?」
「ない。だが、俺はお前を殺すつもりはない。信じてくれ」
数秒の沈黙。霧の奥で風が渦を巻く。
やがてオキタは刀を納め、わずかに笑った。
「……面白い。いいだろう。君の魔術には興味がある。実に多彩だ。だが勘違いするな、俺は仲間になったつもりはない。邪魔をするなら切り捨てる。」
「それで十分だ」
オキタは背を向け、短く言い捨てた。
「行くぞ、妖術使い」
「ちょっ、待っ……」
脇腹の激痛で視界が滲み、寒気が背筋を走る。
「……ヒーリング」
淡い光が傷口を包み、痛みが少しずつ薄れていく。吐く息が軽くなった瞬間、霧の向こうからオキタの声が届く。
「やるじゃないか、妖術使い。治癒までできるとはな」
「……誰のせいだと思ってる」
危なかった。本当に死ぬかと思った。いくら魔術師と剣士の相性が悪いとはいえ、彼はまだ全力を出していない――そう直感した。
そのとき、服の裾をきゅっと掴まれる。
「……大丈夫?」
「まあ、なんとかね」
振り返ると、少女の瞳は焦燥と光を求める色をしていた。かつて見た冷徹な目とは違う。記憶を失ったのか、その姿は妙に幼く見える。
「君の名前は?」
「……分からない」
「やはり……君は、アイビスだ。間違いない」
少女はその名を小さく繰り返し、わずかに微笑んだ。
「アイビス……いい名前だね。ありがとう……えっと」
「アルドリック。アルでいい」
「アル……よろしくね」
___
風が止み、霧はゆっくりと薄れていく。
遠くで鳥の声が響いた。だが、その声はどこかくぐもっていて、まるで時の流れの外から聞こえてくるようだった。
脇腹の傷はほぼ塞がったはずなのに、妙な寒気が残っている。まるで誰かの視線が背中を撫でているような、落ち着かない感覚だ。
少女――アイビスと名乗らせた彼女は、霧が晴れていく方をじっと見つめていた。
その瞳に映るのは、僕ではない。もっと遠く、もっと別の何かを見ている。
「……何を見てるんだ?」
「……分からない。けど……あそこから、誰かが呼んでる」
指差す先は、崩れかけた石の橋。その向こうに、苔むした門のような構造物が霧の切れ間から姿を覗かせていた。
オキタは興味なさそうに刀を肩に担ぎ、短く言う。
「行くのか、行かないのか。決めるのは早いほうがいい」
「なぜだ?」
「ここは――時が混ざる場所だ。長く立ち止まれば、自分の『今』が削れていく」
その言葉が妙に重く響く。
試練、記憶を失った少女、そして「時が混ざる」という不可解な現象。
この世界に来た理由は、ただアイビスに会うためだったはずだ。だが、それだけでは終わらない気がする。いや、終わらせてはくれないのだろう。
僕は息を整え、石橋の方へ足を踏み出した。
その瞬間、風が逆巻き、どこからともなく低い鐘の音が響いた。
ルポンの大地が、次の試練の訪れを告げているかのように。