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名代辻そば鶴川店 四品目

作者: 西村西

※この作品は拙作『名代辻そば異世界店』のスピンオフ作品となっております。

※この作品は拙作『名代辻そば鶴川店』の4作目となっております。

※上記2作品を事前にお読みいただくと、より楽しめる作品となっております。


 以上のことを踏まえてお読みくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。


 上田誠一は今時珍しい苦学生である。


 元々はごくごく平均的な一般家庭に生まれた誠一ではあるが、中学2年生の頃に一家の大黒柱であった父が難病により他界すると状況が一変した。

 それまで専業主婦だった母は誠一含め3人の子供たちを育てる為、慣れぬ仕事で家を空ける日々。

 誠一も中学生ながら母を助ける為、朝夕のアルバイトで家計を支えた。新聞配達である。それに加えて、当時まだ小学生だった弟妹の世話も誠一の仕事であった。


 本当は中学を卒業したらそのまま就職して家族を支えようと思っていたのだが、その考えを打ち明けた途端、母から猛烈な反対にあい、高校に進学することになったのだ。母曰く、我が子の人生を家族の為の犠牲にするつもりはない、どれだけ働いてでも、足らなければ内臓を売ってでも子供たち3人全員大学まで出してやる、と。そう父の墓前に誓ったのだ、と。

 母から涙ながらに決意を語られると、頑固な誠一も折れざるを得なかった。


 高校に進学すると、朝夕行っていた新聞配達のアルバイトを朝だけにし、学校のボクシング部に入部した誠一。

 何を隠そう、亡くなった誠一の父はプロボクサーだったのだ。OPBCバンタム級東洋太平洋チャンピオン、上田源一。

 誠一の父は30になる前にボクサーを引退し、所属していたジムのトレーナーとなったのだが、現役時代の活躍は今でも鮮明に覚えている。典型的なハードパンチャーで、打たれつつも打ち、ボロボロになりながら勝ちを拾う。それが父のボクシングであった。そして、それこそが誠一の目指すボクサーの姿であった。

 父が終ぞ取れなかった世界チャンピオンの称号を、あの黄金のベルトを自分の腰に巻く。それこそが、誠一が誰にも言わず、ずっと胸の内に秘めていた密かな夢だったのだ。


 父の血を継いでいるだけあって、ボクシング部でメキメキと頭角を現し、2年生の段階でインターハイにまで進んだ誠一だったのだが、ここでも彼を不幸が襲う。何と、朝の新聞配達中に交通事故に遭って大怪我を負って入院、退院後も日常生活には支障をきたすことはなかったものの、もう二度とボクシングの出来ない身体になってしまったのだ。

 世界チャンピオンどころか、プロになる前に夢を断たれてしまった誠一。

 失意は深かったものの、自暴自棄になっている暇などない。もうボクシングは出来なくとも、プロボクサーになれずとも人生は続く。むしろ、ボクシングが出来なくなってからの人生の方がずっと長いのだから。


 誠一は高校3年生の1年弱で必死に勉強し、どうにか奨学金を得て東京の大学に進学した。

 学費については先にも触れた通り奨学金をもらっているので心配ないが、誠一の場合は下宿の方の家賃も自分で払うことにしている。母は当初、学費も家賃も自分が払うと言っていたのだが、その金は弟妹の学費に回してくれと、誠一自身があえて申し出を断ったのだ。自分が家族を支えるという、あの誓いを守る為に。

 奨学金は返済せねばならない。新卒直後から20歳そこらの若者が数百万の借金を背負うということに母が難色を示したのは言うまでもないことだが、それでも誠一は譲らなかった。

 父親譲りの頑固さだと、母は最後には苦笑したものである。


 東京に出た誠一は、早速アルバイトを始めた。

 何を隠そう、それこそが名代辻そばでのアルバイトなのである。


 正直なところを言うと、まかないが出て、夜勤で働ける飲食店のアルバイトであれば何でもよかった。昼間は大学があるので夜勤の方が都合がいいし、まかないが出ればその分食費が浮く。

 最初は大学のキャンパスに近い赤羽駅前の店舗で働き始めたのだが、2年生に進学した晩夏の時期に、小田急線鶴川駅前の店舗に移動してくれとエリアマネージャーから頼まれた。

 エリアマネージャーによると、何でも秋から鶴川駅前にオープンする新店舗で働ける即戦力を探していたのだが、誠一が鶴川駅周辺の下宿で暮していることもあり、丁度いいのではないかと思って声をかけてきたとのこと。


 別に大学への行き帰りのルートが変わる訳でもなし、それにエリアマネージャーには世話になったこともあり、誠一はその頼みを快諾して秋から鶴川店で働き出した。

 のだが、この名代辻そば鶴川店という新店舗、それまで誠一が働いていた赤羽店とは正反対の奇妙な店舗であった。

 店長はそばの正道から外れた邪道なそば、通称『珍そば』に並みならぬ情熱を注いでいるし、バイトリーダーは店長に平気で鉄拳を叩き込むような武闘派(まあ大体は店長が悪い)で、誠一と同時期に入ったバイトの子は同じ大学生だということ以外は一切自分のことを語らないミステリアスな女性。

 無論、誠一がシフトに入っていない別の曜日、及び昼の時間帯ではまた違う面子が働いているらしいのだが、夜勤専門の誠一の同僚たちはこんな感じだ。

 悪い人たちではない。断じてそれはない。むしろ良い人たちだ。が、断じて常識人でもない。はっきり言って皆、結構変わっている。


 今日も今日とて、変わった店長がまた変わったそばを作っていた。

 昼間とは違い、客足の遠のく深夜帯。店長はお客が来ないことを嘆くでもなく、嬉々として珍そばの試作を重ねる。今取り組んでいるのは、汁なしのそばなのだそうだ。

 何でも、店長によると、ごく最近、名代辻そばの他店で発売された店舗限定メニュー、汁なしの油そばを食べたところ、それが美味くていたく感銘を受けたとのことで、その油そばを超える汁なしそばを作りたいのだという。それも通常の小麦粉麺、確かオーションと呼ばれるものだったか、それではなく、あくまでそばの麺で。

 ちなみにだが、試作品は誠一たち従業員のまかないとなるのが定番だ。

 故に、ここ数日ばかりはずっとまかないは汁なしそばの試作品。店長が作る珍そばは見た目こそ奇抜ではあるが、味の方はしっかりと美味い。が、流石に試作段階のものまでもが最初から美味い訳ではなく、これが結構微妙な味だったりするのだ。

 無論、完成に近付いてくれば味も安定してくる。だが、試作初期のものはとにかく味がとっちらかっていてまとまりがない。


 夜中、午前2時頃だろうか。

 飲みの締めにそばを手繰りに来た酔客たちが帰り、店内に静寂が訪れる。

 誠一と坂野が手早く洗いものを終え、バイトリーダーの七海京子がテーブルの清掃を終えると、それを見計らっていた堂本店長が口を開いた。


「そろそろ休憩入れるか。上田くんと坂野さん、休憩行っていいよ。まかない作っとくから、休憩終わったら食いな」


 大体いつも休憩に入るのがこれくらいの時間なので、上田は心得ているとばかりに頷いて見せる。

 店長は調理担当なのでいつ何時お客様が来てもいいように休憩は取らず、ホール担当の七海は誠一たちと入れ替わる形で休憩に入るのだ。


「はい。お先、休憩いただきます」


「まかない、流石に今日は美味しいのでお願いしますね?」


 誠一に続いて坂野が口を開いたのだが、彼女は休憩に入りますよという旨ではなく、いきなり店長のまかないを腐すようなことを言い始めた。


 ギョッとして、誠一は坂野のことを見る。誠一では思っていても言えないことだ。それを何ということもなく、正面から。

 確かに店長の作るまかないは試作品なだけあって微妙な時も多々あるが、それでも毎回タダで食べさせてもらっているのだ。食費が浮いて助かっているのは確かなので、文句など言えよう筈もない。

 が、そんな思慮が働いて口を閉ざす誠一に対し、坂野は遠慮なく言いたいことをぶっ込む。これは彼女の胆力が成せる行いだろう。

 七海も店長に対して遠慮はないのだが、彼女の場合は店長とは古い付き合いなので、気心が知れている。坂野とは少し事情が違う。


「あれ? 昨日のやつ美味くなかった?」


 難しい顔をして首を捻る店長に対し、坂野はそうだと頷いて見せる。


「油ギトギトで、正直あんまり……」


 昨日のまかないは無論汁なしそばの試作品。そば用のかえしに背脂を大量に入れ、茹でたそばと混ぜたものだった。

 味としては、そこまで不味いものではない。味のベースはあくまでそばとかえしなのだから、そこから劇的に不味くなることなどそうそうないだろう。

 が、坂野の言うように、昨日のそれはいささか油分が多過ぎた。正直、リップクリームなど比ではないほどに唇が油でテラテラに輝くほどだ。油そばを再現するにしても、あれはどうにもやり過ぎである。まだ若い上田でも、しばらくは胃もたれして気持ち悪かったくらいだ。


 坂野からの感想を受け、店長は難しい顔をしたまま腕を組んで頷いた。


「そっかぁ、あれダメだったかぁ……」


「私もあれ美味しいと思わなかった」


 坂野に便乗する形で七海もそう言ってきたが、店長は彼女の言葉は無視して、苦笑しながら坂野に向き直る。


「じゃあ、今日はもう少し違うやつにしてみるかな」


「そうしてください。リクエストするなら、油ギトギトはナシの方向で」


「オッケー、ちょっと意識してやってみるよ」


 右の拳から親指を立てて頷く店長。


 雇われの身でありながら、よくあれだけ遠慮せずズケズケと言えるものだなあ、と呆れ半分に感心しながら、誠一は坂野と一緒に店の裏口から外へ出た。

 店の裏には従業員の休憩用にベンチが置いてあり、その近くには飲み物の自動販売機もあるのだ。

 誠一がベンチに座り込むと、坂野は自動販売機で買ったのであろう缶コーヒーを2本持って来て、1本を手渡してきた。


「え? いいんすか?」


 坂野と休憩が一緒になることはよくあるのだが、こんなふうに飲み物を奢ってくれることは滅多にない。

 若干戸惑う誠一に、坂野は勿論だと頷いて見せる。


「私1人で2本も飲まないもん」


「あざす。じゃ、遠慮なく……」


 誠一が恐縮しながら缶コーヒーを受け取ると、坂野も隣に座り、2人して黙ってコーヒーを飲んだ。

 甘い。激烈に甘い。

 その脳を直撃するような甘さに面喰らい、驚いて缶を検めると、以前は地域限定品だったものの、最近は東京でもちらほらと見かけるようになった練乳入りの黄色い缶コーヒーであった。


「あめぇ~……」


 呆然とそう呟く誠一の顔を見て、坂野が思わずといった感じで「ふふ」と微笑を浮かべる。


「マッ缶、嫌いだった?」


「いえ、甘いけど美味しいす。坂野さん、甘党だったんですね」


「私、千葉生まれだからさ。特別甘党ってワケでもないんだけど、コーヒーとなるとこれが一番好きなんだ」


 坂野は千葉県出身だったのか、と心の中で唸る誠一。

 彼女と出会ってから随分経つが、今日、初めて知る事実であった。


「坂野さん、もしかして千葉からここに通ってるんですか?」


 誠一が訊くと、坂野は「まさか」と首を横に振る。


「中学生の時に町田に引っ越して来たんだって」


「へえ、そうだったんですか」


 これも初めて知ることだ。

 誠一の記憶が確かであれば、彼女は誠一よりひとつ上だった筈。

 あくまでも見た目から受ける印象ではあるが、年齢よりもずっと大人っぽくて所作ひとつ取っても無駄がなくスマート、垢ぬけているというか、洗練された生粋の東京人、という感じだったのだが、どうやらそれは誠一の思い込みだったらしい。


「上田くんは岐阜だっけ?」


 甘いコーヒーを飲みながら、逆に坂野が質問してきたので、誠一はそうだと頷く。


「はい。関市っす」


 はっきりとは思い出せないが、確か出会った最初の頃に、会話のきっかけとして出身地のことを言ったような気がする。ただ、その時は「へえ、そうなんだ……」と、さして興味なさそうな反応しか返してもらえなかった筈だが。


「ああ、あれだ、確か刃物で有名なんだよね。関の孫……まご…………」


 何だかまごまごもごもご言い淀む坂野を見かねて、誠一は「もしかして」と前置きしてから答えを口にした。


「関孫六ですか?」


 誠一が言うと、坂野は目を見開いて頷く。


「そう、それそれ!」


 関孫六と言えば、今や押しも押されもせぬブランド包丁。刃物専門店どころか、ネットやスーパーですら買えるほど広く普及している。刃物になど興味のなさそうな坂野が、薄ぼんやりとでもその存在を知っていても、さもありなんといったところか。


「確か、うちの家にもあるんだよね、孫六の包丁。所謂、万能包丁ってやつ?」


「へえ……」


「何かさ」


「はい?」


「こういう話するの、何気に初めてだよね、私たち」


「はい……」


 確かにそうなのだ。こういう何気ない、お互いの浅い部分のパーソナルな会話。通常であれば、そういうものは初対面同士の者が会話する為の取っ掛かりとして序盤も序盤に話題に上ると思うのだが、不思議と坂野とはそういう会話になったことがなかった。また、バイト以外では会うこともないし、当然電話などでの会話もない。というか、電話番号すらお互いに知らないくらいだ。せいぜいがメッセンジャーアプリの名代辻そば鶴川店のグループで一緒になっているくらいか。

 いつもはお互いに疲れてほぼ喋らないか、最近観た映画の話などに終始している。しかも、大抵は坂野が一方的に喋り続け、誠一がそれに相槌を打つような形だ。


 ほんの些細なことではあるが、今日はお互いのパーソナルなことを少しだけ知ることが出来た訳だが、少しは坂野と仲良くなることが出来たということだろうか。


「上田くんて確かさ……」


 と坂野が尚も何かを言おうとしたところで、不意に、裏口のドアが開いて七海が顔を出した。


「2人とも、まかない出来たってさ」


「あ、はい!」


「今、行きます!」


 急いで残っていた激甘のコーヒーを飲み干し、店内に戻る誠一と坂野。

 厨房の奥にある、従業員がまかないを食べるスペースに行くと、はたして、そこには皿に盛られたオレンジ色の麺が鎮座していた。そば屋では見るのは珍しいが、モノ自体はそこまで珍しいものでもない、ナポリタンだ。


「なるほど、こう来たか……」


「確かに汁はないけど……」


 お互いに顔を見合わせ、言葉を失う誠一と坂野。


 確かにこれも汁のない麺ではあろうが、しかしナポリタンはそばではなくパスタ料理である。当初の方向性、油そばからは大きく離れてしまった。

 変なものを食わせられるよりは全然いいが、しかしこれでいいのだろうか。

 そういう視線を店長に向けると、彼は自信ありげに「よく見てみな」と言ってきた。


「ん……?」


 言われた通り、よく見てみる。


「……あ」


 と、あることに気付いた誠一。

 この麺、どうもパスタではないようだ。スーパーなどでよく見る丸いスパゲティではない、角のある細切り麺である。ケチャップによってオレンジ色に染まっているものの、この麺には覚えがある、というか日々、穴が空くほどよく見ているものだ。


「…………これ、もしかしてそばの麺で作ったナポリタンですか?」


 誠一が訊くと、店長は芝居がかった大仰な動作で頷いて見せる。


「うむ! こいつは汁なしそばの新境地、ナポリタンそばだ!!」


 まるで歴史に残るような新発明をしたと言わんばかりの店長に、誠一は思わず苦笑してしまう。

 基本的に、店長はどんな試作品を作る時でも自信満々だ。それこそ、試作初期の、どう見ても美味しくなさそうな微妙なやつであろうと。一体何処からそんな自信が湧いてくるのだろうか。こういう根拠なき、しかし行動力の源となるような自信は誠一も見習うべきところかもしれない。


「まあ、不味くはなさそうですけど……」


 明らかに微妙なものを見る顔をしながら、坂野がそう呟く。

 坂野の気持ちは誠一も分かるが、しかし食べもせぬうちから、ああだ、こうだ、と言うべきではない。ごく稀にではあるが、見た目の第一印象が微妙な試作品でも、食べたら意外と美味かった、なんてこともあったのだから。


「不味いどころか、絶対美味い! さあ、遠慮なく食ってくれ」


 相変わらず自信満々に勧めてくる店長。

 誠一と坂野は店長に言われるがまま席に着き、ほかほかと湯気を立てる、店長命名ナポリタンそばを啜った。 


「「………………」」


 2人とも、無言でそばを咀嚼する。

 不味くはない。確かに不味くはない。むしろ美味い。

 野菜はシャキシャキしているし、ベーコンもカリカリ、麺のコシも死んでおらず、ケチャップも適量。鍋肌で火を通し、酸味を和らげる手間も忘れていない。通常より少し強く胡椒が効いているのも良いアクセントだ。

 何せ、この日本において老若男女広く愛されているナポリタンである、滅茶苦茶な食材を使っているのでも適当に調理しているのでもないのだから、不味くなる訳がない。


 誠一と坂野が、ほぼ同じタイミングで最初のひと口目を嚥下する。


 その嚥下のタイミングを見計らっていたのだろう、店長はニコニコ顔で「どう?」と口を開いた。


「美味くない? なあ、美味くない?」


「まあ、美味しいは美味しいですけど……」


 そう言う誠一の顔は、しかししかめっ面だ。とても美味いものを食べている人間の顔ではない。見れば、坂野も似たような表情を浮かべている。

 だが、そんな誠一たちの表情にも気付いていない様子で、店長は得意げに言葉を続けた。


「だろ? 発想の転換ってやつでさ、油そばからの脱却を図ってみたワケよ! ナポリタンて言やあ、日本人お馴染みの汁なし麺だからな!」


「いや、まあ、そうなんすけど……」


 訊かれたからそう答えてはみるものの、どうにも言葉が続かない。この先が言い辛いのだ。

 が、こういう時、坂野は遠慮せず、すっぱりものを言う。

 誠一の言葉の続きとばかりに、今度は坂野が口を開く。


「美味しいですけど、これ、おそばでやる意味あります?」


「え?」


 そう指摘され、店長の目が一瞬で点になる。言われていることが理解出来ない、といった顔だ。

 そんな店長に対し、坂野は無慈悲にも言葉を続ける。


「だってこれ、絶対スパゲティの麺でやった方が美味しいですよ? 何せナポリタンですもん」


「いや、そこをあえてそばでやるのが……」


 と、店長の言葉の途中で、それを制して坂野が続ける。


「おそばの風味、ケチャップに負けてほとんど感じられませんよ?」


「え!?」


 店長が今度は驚愕の声を上げた。


「そりゃそうですって。おそばの風味は繊細なんですから。ケチャップみたいな強い風味と合わせたら負けちゃいますって。もしかして、試食せず出したんですか?」


「ぐぬぅ……」


 図星を突かれたのだろう、そう唸り、悔しそうに顔を歪める店長。

 そう、そうなのだ。この堂本店長、勢いで新しいそばの試作をするものの、どうしてなのかこまめに試食することを怠る悪癖があるのだ。美味しかろうと自信を見せる癖に、自分は試食せず他人に試食させてそのリアクションから試作品の出来不出来を判断をする。誠一が鶴川店で勤務するようになってから一貫してこうなのだ。

 以前、七海にそのことを指摘されたことがあるのに、それでも悪癖が改善されることはなかった。恐らくはそれが悪いこととも思っておらず、主義を曲げるつもりもないのだろう。誠一たち従業員にとっては甚だ迷惑なことである。


 誠一に呆れた顔を見せながら、それまで黙っていた七海が口を開いた。


「明確に迷走してるね、コレ」


「ヒトのことをコレとか言うな!」


 落ち込んでいても人の言葉はよく聞こえるらしく、店長はすわ、と七海に顔を向ける。


「そこは普通、励ましの言葉とか言うところだろ!?」


「そんなん言ったらあんた反省しないじゃん?」


「するし!」


「してたら試食くらいはしてから料理出すようになるんだわ」


「してるし!」


「してねーよ!?」


 毎度お馴染み、店長と七海による言葉の応酬。

 何だか夫婦漫才みたいで見ている分には面白いのだが、誠一の頭の中の冷静な部分が「これは本当に勤務の最中なのか?」と疑問を呈している。今は深夜だから心配ないのだが、エリアマネージャーあたりがこれを見れば、某新喜劇よろしく盛大にずっこけることだろう。その後、巨木を割かんばかりの大雷が落ちるだろうことは想像に難くない。

 この緩いノリは、客足が遠のく深夜で、かつこの面子だからこそ許されるものだ。


 何ともカオスなこのノリだが、誠一は案外、こういうのも嫌いではない。

 中学、高校時代とアルバイトを続けてきた誠一だが、正直、名代辻そばで勤務するまで、働くのが楽しいと思ったことは一度もなかった。アルバイトは金を稼ぐ為の手段でしかなく、心を無にして働くのみ。そこに嬉しいとか楽しいとかいう陽の感情が介在するものではないという認識だったのだ。

 だが、少なくとも名代辻そばは違う。特に、この鶴川店は。

 自分1人で家々を回る新聞配達に、自分1人で相手と戦うボクシング。友だちらしい友だちもおらず、誰かとつるむより孤独を好む。その方が気楽だったから。

 しかしながら、その考えが必ずしも正解ではないのだと、他ならぬ名代辻そばが教えてくれた。

 足並みを揃えて誰かと一緒に働くこと、仲間と語らうこと、家族とはまた違う人たちと食事をする、その楽しさを。

 無論、働くということは楽しいことばかりではない。給料をいただくということは、つまり自分の仕事に責任を負うということだし、働き続ければ疲れもするし時には嫌なことだってある。

 それでも、働くことは辛いことばかりではない、楽しいことだってあるのだと、誠一の認識をそう変えてくれたのは名代辻そばだ。


 変人だけど楽しい人たちとの仕事は、誠一のタイトな生活にとって数少ない楽しい時間である。


 店長と七海の夫婦漫才を見て笑いながら、誠一は微妙なナポリタンそばを啜った。


今回は深夜帯アルバイトの1人、上田くんについて書かせていただきました。

また鶴川店を書くかは分かりませんが、もし書くとしたら次は坂野さんのことになるかもしれません。


さて、話は変わりますが本日3月19日はコミカライズ版名代辻そば異世界店の更新日となっております。

今回はドワーフの女公爵ヘイディ・ウェダ・ダガッド編の最終回です。

遂に念願のビールにありついた酒好きドワーフたち。

はたして、彼らは名代辻そばのビールをどう評価するのか……?

読者の皆様におかれましては、是非ともお読みくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。


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― 新着の感想 ―
少し強く故郷が効いている は胡椒ですかね?
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