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1566年 家操33歳 浅井、朝倉討伐

 俺が紀伊征伐をしている頃、柴田勝家率いる浅井·朝倉討伐軍は秀吉の大活躍により浅井家の国人衆が次々に降伏してしまった事で浅井の居城である小谷城を包囲し、砲弾の補給を待った。


 というのも浅井家でも抵抗した横山城、山本山城という支城は浅井に忠誠を誓い、城が陥落するまで頑強に抵抗したため、その支城を落とすのに結構な砲弾を消費してしまったのがある。


 織田家でも砲弾の生産は行われていたが津田家の誇る工場群の様な場所は無く、各地で砲弾を作る体制の為に生産効率が上がらず、砲弾の在庫が少々少なかった。


 あとは丹羽長秀の能力を持っても2方面の軍の補給物資を輸送するのは至難の業であり、柴田勝家軍は少々物資不足気味であった。


 今までは領地の隣であったが、今回は国を跨いだ長距離輸送を求められるので余計に難易度を上げていた。


「丹羽様! 微力ながら私も手伝います!」


「おお、(津田)信摩殿助かりますぞ」


 京の戦が一段落した為小姓頭になっていた息子の信摩は信長様の許可をもらって丹羽長秀殿の補助に入り、岩室殿も信長様から不安定と見られていた甲斐の守りの為に留守でも良いと言われていたが、国元は部下に任せて丹羽長秀殿の支配下に途中から加わるとようやく補給は安定してくるのであった。


 ただ補給が万全になるのを待っているほど朝倉も馬鹿ではなく、雪で行軍が難しいながらも浅井が倒れれば朝倉の越前が本格的に危険になるとわかっていたので、無理をして1万5千の兵を抽出して南下し、浅井救出に動き出した。


 信長様が京に入ってから3週間も経過してからである。


 あまりに遅い救援であったが、これには雪と加賀一向一揆の動き、農兵を動員するためどうしても遅くなってしまうのだ。


 しかも朝倉は中央集権には成功しているが、当主が優柔不断かつ戦下手で家中では有名であり、治世の世であったなら名君なのだが乱世に求められる才を有してなかった。


 家臣単位では優秀な者も多かったが、保守主義かつ一族主義……家の結束を強めるのは良いかもしれないが、明智光秀を冷遇したりと実力があっても外様を信用できずに家臣達の新陳代謝ができていない状態で、有能でも低い身分で軍議でも発言権が無かったりした。


 そのために何を行うにしても遅いのだ。


 ただそれでも朝倉は時期的にも国力的にも外征限界の1万5千の兵を送り出すことにし、猛将である真柄直隆と知将である山崎吉家という朝倉では最高の布陣で挑んだ。


「駄目ですねぇ、朝倉は何も分かっておりませんな。ここで当主自らが兵を率いねばならぬ場面」


「(竹中)半兵衛準備はできたか」


「ええ、木下軍の布陣は完了しております」


「では手柄を立てるとするか」


 高時川の戦いと呼ばれる合戦が間近に迫っていた。








 朝倉軍の南下は忍び達により柴田勝家も耳にしており、陣は小谷城を囲むように♀の横棒が無い様な陣形となっていた。


 木下軍は高時川近くの西側を2千の兵で守っており、開けた場所に陣を置いており、いち早く朝倉軍を発見することが出来た。


 直ぐに隣に陣を置いていた森軍と河尻軍、本陣である柴田軍に連絡を行い、陣の方向を移動させる。


 包囲の軍数を減らし、雁行の陣形(斜め)で挑む。


 高時川を挟んで対陣した朝倉軍と柴田軍はまず織田軍による射撃により火蓋が切られた。


 朝倉軍は織田軍が火縄銃を多数使った戦をすると研究しており、竹束を用いた防御で射撃の合間に前進する戦術を取ろうとしたが、ライフル火縄銃になっていた織田軍の銃は射程も貫通力も上がっており竹束があろうが貫通して後ろにいる朝倉兵を殺傷した。


 しかも1町(110メートル)まで引きつけて射撃を開始したために逃げ出そうにも急に方向展開することができず、将棋倒しの様に倒れてしまったり、大軍故に逃げることができずに次々に射撃の的になってしまう。


 しかも期待していた射撃の合間が全くないのだ。


 津田軍の様に行軍射撃や戦列歩兵の様な射撃は出来ないものの、2人1組になり片方が射撃している間に片方は装填する。


 それを射撃後には交換するという役割が決まっており、銃身が熱が籠もるまで射撃を続けることができた。


 しかも織田軍は他家とは違い銃の製造ができる場所を保有しているため、予備の銃を持つことができる。


 銃身に熱がこもってきたら予備の銃に持ち替える事で継続した射撃を実現していた。


 分間1万5千発の弾丸が朝倉軍に襲いかかり3分もすると朝倉軍の士気は崩壊してしまい、1万人近い死者を出して朝倉軍は撤退していってしまった。


 高時川は真っ赤に染まり血と肉片が山積みとなる地獄の様な場が出来上がった。


 頼みにしていた朝倉が無様な敗北をしたことで、浅井家もこれ以上の抗戦もできないと翌日には降伏し、前当主の浅井久政と浅井長政の2人が自害をして、重臣や他の一門は近江からの追放処分、他の家臣は放免となったが、領地はほぼ没収されることになる。


 柴田軍は浅井の降伏交渉を数日で終わらせると朝倉を追って越前に侵攻を開始。


 北陸統治において朝倉の排除は絶対条件で、尋常でない速度で朝倉の防衛線のある姉ヶ崎峠を突破した。


 足利義秋と幕臣達は朝倉に居たら危ないということで西国に船で脱出するが、吹雪いてしまい、転覆する船が続出し、丹後国に脱出できた船の中には足利義秋は乗っておらず、足利直系の最後は船の転覆による溺死ということになるのだった。


 足利義秋に仕えていた細川藤孝や明智光秀といった将来有名になる将達もこの混乱で溺死してしまい、足利幕府を担う存在は永禄の変とその後の混乱、そして今回の逃亡の失敗で全滅してしまった。


 幕臣も織田軍により懐柔されるか所領を没収されたことで室町幕府を担える存在の消滅で、各地の分家筋を残して足利宗家は滅亡。


 西国では足利の血筋を少しでも持つ者は公方と名乗り出し、関東でも室町幕府の滅亡により関東管領や古河公方などの役職が消失することになるのだった。


 室町幕府の事実上の消滅と同時に朝倉の命運も尽きようとしていた。


 朝倉一門は本拠地の一乗谷は文化都市であり、防衛はできない為放棄。


 柴田勝家は以後の統治の邪魔として一乗谷を焼く決断を下す。


 朝倉滅亡が秒読みとなった時に比叡山の僧兵が蜂起し、柴田軍後方を脅かす事件が起こったが、柴田勝家の命令を受けた滝川一益と木下秀吉の部隊が僧兵を次々に射殺し、比叡山に追い返し、信長様の命令で比叡山の焼き討ちが実行された。


 比叡山にて商売を行っていた娼婦や男娼を含めた非戦闘員を含めて根切りを行い、炎上する比叡山の参道は斬り捨てられた坊主と男女で山のようになり、三日三晩炎上するのであった。


 百万石の実益を誇った比叡山が寺領没収や権益剥奪されるのを見ていた本願寺は信長様(実際には林殿が)と水面下で交渉を開始し、政教分離を推し進めていくことになるのだった。


 そして比叡山が焼き討ちされた頃に朝倉も一族の裏切りにより滅亡。


 裏切った一族も織田家は生かす気は無く、謀殺。


 ここに100年の栄華を誇った越前朝倉氏は滅亡し、越前には柴田勝家が入ることになるのだった。

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