1566年 家操33歳 紀伊征伐
三好を掃討した俺は続いて紀伊平定の為に堺に向かい、堺近くで陣を張った。
「家操様、堺の豪商方が面会を求めております」
「うむ、会おう」
今井宗久、津田宗及、千利休の堺でも豪商や有力者だった3名を陣内に入れて信長様から堺統治に関する10箇条を見せる。
そこには堺の自治権の縮小や勝手に浪人を雇って武装してはならないなどの事が書かれており、一番は2万貫の矢銭要求であった。
「2万貫などこれから織田家の経済圏に組み込まれるのなら直ぐに回収できる額であろう。治安維持の為の兵を織田から出す分警護費用も浮く。純粋な商売は織田家では推奨しているのだから何も問題なかろう」
俺はそう言い切った。
10箇条は堺商人の面子さえ目を瞑れば堺衆側にも利益がある。
3名は会合を開いて決めても良いかと聞き、俺は5日与えると言い、少し時間を与えた。
ただ堺の港の即刻開放は補給の観点から求め、これだけはその場で決められた。
俺は津田海軍を堺に入港させると武器弾薬、食料などの補給を受ける。
またもう一度今井宗久を呼び寄せ
「日ノ本だけで商売は満足か? 織田家が政権を取った暁には海外貿易が更に盛んになるぞ。経済規模が数十倍になり、転がり込んでくる金額も膨大になる。その切っ掛けを掴もうとしているのだ……良く考えろ」
その言葉に堺は引き続き畿内における商いの中心かつ、海外貿易の拠点にするという意味合いも込められており、翌日に堺は10箇条を呑んで織田家に服従することを決めた。
「良い選択をされた」
そして堺との交渉を続けている間に紀伊侵攻の準備を進めており、既に雑賀衆は織田家が畿内に進出した時に服従を表明していたので、領地はそのまま、傭兵契約も引き続き織田家や津田家が大規模契約をすると言うと喜ばれた。
雑賀衆も色々派閥があり、雑賀荘、十ヶ郷、中郷(中川郷)、南郷(三上郷)、宮郷(社家郷)の5つの郷の寄り合いで雑賀衆を形成していたが、経済的困窮と度重なる石山本願寺からの矢銭要求で一向宗の支持が史実よりも低下しており、しかも本来この時期には指導者層になっていた雑賀衆重臣達が津田家に組み込まれていたことで一向宗と険悪な織田家にも早期服従が実現した。
紀伊は残りは根来衆と幾つもある寺社勢力であり、根来衆に武装解除と荘園の代わりに織田家からの寺社運用金で我慢しろと言う命令に多数の権益を持つ根来衆と寺社勢力は激怒。
織田家と敵対を表明したため、織田家は根来衆や紀伊各寺社の寺領の接収を命令し、紀伊から離れていた場所の寺領は直ぐに制圧されてしまった。
そして俺率いる津田軍は根来衆が籠り始めたと言う千石堀城の攻撃を開始して根来衆と開戦となった。
元々防衛能力に不安があった千石堀城は大砲による砲撃で城門や城壁が崩れてしまい、しかも土砂崩れの様に壊れた箇所から連鎖的に壁が広範囲に崩れると言う事態も発生した。
砲撃で十分に弱らせてから総攻撃を開始すると城内にいた非戦闘員を含めて根絶やしにし、千石堀城は落城。
切り込み隊に相応の犠牲者が出たが、鉄砲への適性が低い者達なので補充は効く。
俺は兵数を増加させるために雑賀衆から援軍を要請すると稼ぎ時と1万近くの雑賀衆が集まり、俺の軍は1万6千まで増加した。
そこから砲撃で城の防御施設を破壊、雑賀衆に突っ込ませるという単調な戦術でガンガン城を落としていく。
単純だがこれが城攻めだと効果的なのである。
大砲で城壁を破壊し、臼砲で城内を砲撃する。
これを防ぐには城壁をコンクリート作りか土壁を分厚くするか広い城にするしか無い。
特に日本に多い山城は大砲や臼砲を使った砲戦の防御を考えた城は少なく、臼砲は上空から砲弾が降ってくるため防御不可能である。
なので勝つためには城を捨てて野戦かつ奇襲を仕掛けるのが一番効率的であるが、地形を知り尽くした雑賀衆が味方なので伏兵が居そうな場所は威力偵察をしたりして潰し回り、王道の火力戦と戦力の優位性を担保した戦いで、紀伊平定戦を進めるのであった。
そして紀伊防衛の中核である積善寺城では忍びを使った虚言により城から闇夜に紛れて打って出てしまい、それを待ち構えていた津田軍が半包囲の形で対応し、散々打ち破って、鈴木孫一率いる別働隊が城を逆占領し、外に締め出された城兵は夜戦で大敗して散り散りに逃げてしまい、紀伊防衛線が崩壊。
根来衆の寺や道場を焼却し、力をどんどん弱め、同時に抵抗していた高野山を降伏させる。
流石に高野山を焼く事はしなかったが、武装解除と戦争を指導した高僧の幾人かを処刑。
ここまででも津田本隊でも千名近くの戦死者を出していたが、最後の力を振り絞って根来衆の最後の防衛拠点の沢城を落城させると根来衆も力尽き、根来寺の僧兵は各城に詰めていた者が多く、寺にはほとんど若者と高僧、非戦闘員しか居ない状態であり、指導者達が降伏を選択し、最後まで抵抗したというのと根来寺の基盤を破壊するために書物や宝物を運び出す時間を与えた上で、本堂を焼却した。
2ヶ月かかったが紀伊平定を成し遂げたものの、津田家は蓄積していた弾薬2年分を上洛戦から畿内平定戦、三好討伐、紀伊征伐で使い果たし、遠征能力を喪失してしまった。
信長様に紀伊平定を完了した報告をすると堺衆から貰った矢銭2万貫と追加で3万貫、それに浜名湖の以西の岡崎城までの10万石を加増され、岡崎城の織田信広様が和泉国1国に加増、丹羽長秀殿が統治能力が優れているため、紀伊1国を任された。
他にも幕府の守護や幕臣の土地を無視し、朝廷の御料地を増やしたり、家臣にばら撒き、室町幕府を完全に否定した。
幕臣達は激怒していたが、公家達は多額の献金と少ないながらも御料地を復活してくれた織田家の味方で織田家家臣達にも官位をばら撒き始めたし、信長様も朝廷を持ち上げながらも独自の政治運営を開始し、畿内と織田家領内での関所全撤廃の号令と独自に関所を設けた場合死罪の法令を出した。
俺は兵を浜松に一部返しながらも初代堺代官を任され、堺に屋敷を構えて紀伊と和泉を任された織田信広様の統治の手伝いをして忙しく過ごす。
更に信長様は改元を行い永禄から元亀に4年早く年号が変わった。
朝倉に逃げていた将軍の弟の足利義秋(足利義昭)は、少ない幕臣達と織田家に抗議の手紙を送ったらしいが、幕府が不甲斐ないから応仁の乱以降の戦乱により日ノ本が疲弊してしまっていること、鎌倉が滅亡した様に織田を中心とした日ノ本の再統治の準備を進めていること、上杉家、北条家、最上家、伊達家は織田による再統治に合意している室町絶縁状と呼ばれる返書を叩き付け、室町滅亡を全国の大名に通告した。
上杉家と北条家は織田新政権をお祝いする書状が届いたが、他の大名は冷ややかな反応であり、一部からは幕府を無視する逆賊として名指しで批判された。
しかし、織田家は学校制度により豊富な若い文官を抱えており、他家より行政能力が飛び抜けていたし、優秀な者が多かった。
徳川家康も河内国を任されたりしたが、統治は三好政権よりも安定して畿内での混乱は最小限に留まっていた。
ただこれにより織田家は武力と朝廷からのお墨付きがあれば新政権を担うことができるという前例を作ってしまうことにも繋がるのであり、織田政権が失敗した場合中華の様に統治者の能力が不足していた場合内乱に直ぐに突入することも意味した。
そのためには圧倒的武力を維持する必要が求められ続けることになり、財源と武力を担保するためには日ノ本だけでなく永遠の拡張を求められる修羅の道のりを歩むことになるのだった。