1563年 家操30歳 甲州征伐
秋になり、色々な作物の収穫が始まったが、やはりというか米価が下がった。
越後は自国の消費量を満たす程度なので大丈夫だったが、関東は俺の農法を普及していない地域でも豊作だった為にみるみる米価が下がっていった。
俺が買い支えを行わなかったら豊作貧乏で北条も結構やばかったと思う。
ちなみに俺の領地は転作が功を奏して米価は安定していたが、大量に収穫された綿に紡績工場は大忙し。
幸之助が八連紡績機や水力紡績機を作ってなかったらキャパオーバーで詰んでいたかもしれない。
ちなみに糸は大量にできるが、布に加工するのは間に合っておらず、各地に糸が輸出されることになる。
関東や畿内では購入した糸を布にして金を稼ぐ所も出てきたり……一番は資金的に余裕がある尾張の都市部で布工場が建てられて織られていたが……。
買い支えを行い安く手に入れた米はそのまま堺に転売した。
西日本では大旱魃が発生しており、不作だったため、転売して十分な利益を確保することができた。
大型輸送船団を持っているからできる荒業であるが……。
武田の方はせっかく米を作ったのに米相場が安値で止まってしまった為に売っても金にあまりならず、それでいて甲斐等では安いとは言え米を買わなければ生活が出来ないので戦が少ないと略奪が出来ず、金も金山の採掘による酷使をしなければならない状況なので、家臣のガス抜きも兼ねて侵略戦争をすることを決めたらしい。
そこにちょうど北条と上杉が正式に和議を結んだ為に同盟の盟約違反として武田は喜々として北条を殴りに向かったのだった。
1563年! 関東は武田の侵攻に晒された!
村々は略奪され、人々は奴隷として連れ去られ、法外な値段で見た目の良い者は売られ、そうでない者は鉱山奴隷として金採掘に従事する。
勿論北条も抵抗するが、戦で勝たないと飢えて死ぬと思い込んでいる武田の兵士は止まらない。
しかも反北条勢力が北関東で無限ポップ状態かつ房総半島(千葉県)でも里見残党が蜂起。
北条は瞬く間に所領の半数を喪失し、3年ぶり2度目の小田原籠城をする羽目になる。
「家操様、どうか北条を救ってください」
「信包様! どうか北条を!」
実家が攻められているので嫁達も必死である。
実家を救う為に情でも何でも使うのが戦国時代。
信長様にも連絡しているが同盟国の北条が攻められているので救援をするのが筋であるとし、信包様と相談して動員を開始した。
動員が終わり、信長様から出陣の許可と切り取り自由の許可を頂いたので信包様を大将に約1万5千の軍勢で武田領の北遠江に侵攻を開始したのだった。
この頃になると国人衆達も武田に使い潰されるより織田から分前を貰って生き延びた方が得と理解あるというより国人衆の中には浜松で息子を教育(人質)に差し出した家も多く、その息子達が約8年の歳月で家督を相続した家も多く、津田家の経済圏に組み込んで領地を発展させた方が豊かになれると気がついて親織田派になった国人衆が多かった。
で、今回の徴兵で集まったその場で井伊家当主の井伊直親が信包様に臣従を表明したことで、その場に居た国人衆達も臣従を表明し、遠江の大半は本当の意味で織田家の支配下に組み込まれた。
軍の内訳は津田家が6千、信包様が3千、残り6千が国人衆である。
二俣城に集結し、出陣の儀を行い、北遠江に侵攻を開始。
武田家が天野氏を追い出して武田領に組み込んでいた犬居城とその支城を攻め立てた。
北遠江の防衛拠点である犬居城は武田信玄により強固に改修されていたが、四百門に及ぶ四斤山砲の集中砲火により火砲への防御が施されていなかった犬居城は陥落したのだが、忠義を見せようと先鋒を務めた井伊直親が戦死する不運にも見舞われた。
信包軍が北遠江を攻撃開始した時に美濃の織田信長軍も飛騨に進軍して侵略を開始し、織田家総軍による武田攻めが開始されるのであった。
総軍合わせると4万5千に及ぶ大軍であり、飛騨の山城にも軽量かつ運搬が容易な四斤山砲は大活躍であり、美濃方面軍(織田家本軍)は五百門の四斤山砲を活用した。
数百門の砲撃ともなると戦国時代の対策されていない防衛施設は紙同然である。
犬居城という本城が早期に陥落されたことで支城は連携できないまま陥落していき北遠江は10日で占領が完了した。
更に織田信広(副司令は柴田勝家)率いる三河軍1万の兵も信濃に侵略を開始しまさに総攻撃である。
信濃を守る馬場信春は三河軍とまず激突し、武田兵の恐ろしさを見せつけて信広軍は一時的に撤退する羽目になったが、次に激突した織田信包軍との決戦の地は現在の伊那郡伊那市の天竜川上流で激突したが、津田家の新戦術である騎馬鉄砲隊による機動射撃および一撃離脱戦法が綺麗に決まり、決戦緒戦から精鋭武田兵に大打撃を与えることに成功し、反撃するために前進を指示した時に山沿いに隠れていた津田本軍と国人衆の鉄砲隊や弓隊が騎馬兵を追いかけて天竜川を下る最中に挟撃されて致命的な損害を受ける。
両岸からの攻撃に動揺した武田兵を馬場信春は激励して態勢を立て直したのだが、そこに鈴木重秀が狙撃をして馬場信春は胴体を撃ち抜かれて落馬。
落馬した衝撃で頭を強く打ち、そのまま絶命してしまい、信濃の武田軍は絶対的な司令官が不在となったことで烏合の衆となってしまう。
そこに山を下った国人衆の部隊と信包本隊が突入し信濃武田軍を殲滅し、組織的抵抗を奪った。
武田に対して不満を溜め込んでいた諏訪大社を擁する諏訪衆は信濃武田軍壊滅の報を聞いて武装蜂起。
信広軍も態勢を整え、信濃に再侵攻し、各地を調略や軍事力を背景に陥落させていく。
武田信玄も馬場信春の戦死を聞いた時に持っていた軍配を落とすほどの衝撃を受け、直ぐに小田原攻めを切り上げて甲斐に戻り、防衛戦に切り替えるのだが、常に攻める側だった武田軍は防衛戦には弱く……というより織田軍の火力に負けてしまい、信濃を早期に失陥。
甲斐での防衛戦に備えるが甲斐には防衛を出来るような城が無く、野戦をもって織田軍を殲滅すると兵士を集めた。
一番最初に甲斐に襲いかかったのは北条であった。
北条は領地を荒らされており、怒り狂っていたため、軍を集めると甲斐武田軍を攻撃、しかし武田信玄は巧みに軍を動かして兵数不利ながら有利に戦いを展開していく。
しかし、暴走した諏訪衆が信長の制止を聞かないで甲斐に侵攻を開始し、武田信玄は飯富虎昌率いる赤揃えが迎撃、諏訪衆はコテンパンにギッタギタにされ、酷いことになり、織田家に泣きついてくるのだった。
信長様と信濃で合流を果たし、陣で織田家重臣達が揃い踏み。
ここに砲弾がぶち込まれたら織田家が瓦解するくらい重臣が集まっていた。
「武田はこのまま滅ぼす。目的の南信濃は得られた……が、上杉との関係を考慮して北信濃は放棄する。問題は甲斐か……鶴、いけると思うか」
「北条が攻めているうちに武田の背後を突くことで武田を滅亡に持っていくことは可能でしょう」
「で、あるか……全軍をもってこのまま武田を攻め滅ぼす。功績次第で甲斐と南信濃、飛騨の加増を考えている。精一杯働け」
「「「は!」」」
信濃の服従を表明した国人衆に先鋒をやらせて功績挙げたら所領安堵と言われたが、武田の強さは凄まじく、督戦隊を組織したのに赤揃えとぶつかると崩壊してしまった。
信長様ブチギレて信濃国人衆のほとんどの所領没収を指示し抵抗する家はそのまま軍事力ですり潰した。
約40家近く土豪が潰されたが織田家は所領が増えるのでニコニコである。
「鶴、やれ」
「は!」
というわけで次の先鋒は俺になり、常備兵による戦列歩兵で赤揃えだろうが火力ですり潰して躑躅ヶ崎館に突入して館を焼いた。
北条との挟み撃ちになり、精鋭だった武田本軍からも脱走兵が相次ぎ、遂に軍を維持できなくなった武田信玄は一族や重臣を集めて寺で自害しはてた。
こうして甲府で名門であった武田は滅びるのであった。
北条侵攻から約4ヶ月の期間であった。
北条とも交渉が進み、甲斐は東を北条、西を織田領と決められ、西甲斐は織田信清に与えられた。(特に功績は無いが信用出来ないので加増して転付 別名左遷)
南信濃25万石は信包に5万石が加増、他は飛騨3万8千石と共に信長様の親衛隊員に割り振られ、俺の息子の津田信摩が飛騨千石を与えられていた。
北信濃は上杉に与え、上杉は元々北信濃の豪族だった村上を領主に復帰させて均衡を守る。
それと同時に上杉、織田、北条による新しい三国同盟が結ばれ、戦国時代は新しい局面へと動いていくことになる。
ちなみに俺は磐田と袋井、掛川の国人衆を吸収して家臣とし、所領に組み込まれることになり、5万5千石加増の15万石になる。
天竜川の対岸を領有できたことで天竜川の水運の利権も手に入れたし、井伊家の後継者が幼いので預かって育てるようにも信包様から命令された。
井伊家は取り潰しは逃れたが、領地の縮小を言い渡され、国人衆としての井伊家はほとんど消えていくこととなる。
「武田で引き抜けそうな人材は居ないかな〜」
俺は武田で引き抜けそうな人材をピックアップしていくのだった。




