1560年 家操27歳 子持ち家なし職無しの前田利家 美濃攻略
1560年 家操27歳
小田原合戦
肥田城・野良田の戦い
尼子晴久死去
信長様への正月の挨拶が終わり、信長様は今年で美濃にけりを付けると意気込んでいた。
事実美濃は稲葉山城以外はほぼ調略や侵攻により陥落しており、斎藤家の支配領域はごくわずか、動員できる兵数も3000がやっとまで落ちぶれていた。
それでもまだ滅亡していないのは斎藤道三が築城した堅城である稲葉山に守られているからである。
織田軍でも津田砲こと四斤山砲の運用が始まり、中美濃攻略や西美濃の城攻めにて臼砲が大活躍していたので、大砲の需要が高まりつつあった。
それを運用できる兵の育成も進んでおり、その者達を信長様は大砲足軽と呼んで区別していた。
信長様の戦術も大砲の出現で変化し、今までは機動力を重視した機動戦ドクトリンだったのが、火縄銃や大砲を使う火力優勢ドクトリンへと変化した。
部下達にも槍や剣術も良いが、鉄砲の上手さが戦局を左右すると説いて、砲術家の橋本一巴から鉄砲の射撃術を学んでこいと言われ、親衛隊内部でも鉄砲の普及率が急速に高まっていた。
そんな日ノ本でいち早く火力優勢ドクトリンへと転換した織田家を支えるのは尾張から遠江までの物流の流れを握っていること、金が集まる寺社や町を殆ど支配下に置き上納金が支払われる仕組みがあること、数多くの特産品や高級品の工場が各地にあり、その利益の一部が織田家に納められていること……支配領域の石高が150万石あること等の経済的理由と、常備兵による射撃練度を上げる確かな仕組みがあること……
純粋に尾張と遠江に鉄砲座があり、鉄砲の生産拠点があること等の理由があった。
これらを満たさなければ戦国時代に鉄砲を散々持つことはできないだろう。
できた可能性があったのは明と貿易をしていた山口の大内家(滅亡済み)と畿内を抑えている三好家のみである。
あと琉球貿易をしている島津と南蛮貿易で儲けている大友位か。
つまり東国の大名達はどう頑張っても再現不可能なのである。
閑話休題
とにかく信長様は今年には美濃を落として畿内への道筋をしっかりしたいと思っており、美濃が終われば六角を浅井家と挟撃して撃破する道筋も立てていた。
ただ六角を倒す大義名分が無いし、六角は現在将軍の足利義輝を長年匿った家であるので将軍からの覚えも良く、長尾家と同じく別格の扱いを受けていた家である。
そして伊勢方面も北畠家の現当主が将軍足利義輝の剣術で兄弟弟子であり、こちらも攻めれば将軍から不評を受けかねない。
東は同盟破りに定評がある武田家と美濃侵攻が終われば一旦拡張はストップになるだろう。
まぁその間に家臣の育成や領地の内政に注力できると思えば良いことでもあるが……。
そんな話を信長様として、俺は領地へと戻り、領地でも新年の挨拶を行ったり、知り合いに贈り物を贈ったりしていると、犬千代こと前田利家がやらかした。
「だってアイツが松の事を馬鹿にして!」
「だから斬ったと」
「……すみません」
ことの発端は拾阿弥と呼ばれる信長様の家臣が利家に数々の嫌がらせを行った事が原因で、この拾阿弥という人物は織田家の教養を広めるための外部コーチみたいな人だった。
しかも信長様のセフレの1人である。
前田利家もセフレの1人だったがセフレ同士の痴情の縺れと言えなくもない。
前田利家を信長様が可愛がっていたのでそれが気に食わない拾阿弥が嫌がらせをして、その嫌がらせに前田利家の溺愛する嫁の松の父親の形見を盗んで更にそれを侮辱したことで前田利家はブチギレて、信長様の居る前で刀を抜いて斬殺したというのが今回の事件の経緯である。
で、信長様は最初は前田利家に死罪を命じたが、柴田勝家や親衛隊の面々、秀吉等の利家と仲の良かった家臣達が必死に助命を願った為に追放処分に止められたが、尾張からの追放を命じられ、秀吉の助けを借りて仲の良かった俺の所に転がり込んできた。
「理由はわかる。俺も嫁たちを馬鹿にされたら斬りかかるが手順と場所を考えろ。いきなり信長様の目の前で刀を抜いて斬殺したら信長様でも死罪を言い渡さないといけねぇだろ」
「ご尤もで……頭に血が昇っていて……」
「利家は将来国持ちになれる器があるんだから……よし、俺がお前を鍛えなおしてやる! 武芸だけでなく領地経営から算術と全て叩き込んでやるから覚悟しろ」
「かたじけない」
「住む場所は……とりあえず客将ということで城の客間を使え。子供ができても腕の良い産婆が居るから安心しろ」
「鶴殿誠かたじけない」
「その分しっかり働いてもらうからな!」
「はい!」
前田利家だけでなく、信長様の逆鱗に触れて出奔した家臣達の駆込み寺的扱いになることを俺はまだ知らない……。
有言実行で信長様は3月に出陣し、総勢1万5000名の兵で稲葉山城を包囲し、攻撃を開始した。
城には臼砲や四斤山砲による砲撃が加えられ、どんどん城壁が破壊されていく。
そこに岩室重休率いる部隊が裏手口を陥落させて城内に突入し、斎藤義龍は捕らえられ、信長様の命令で斎藤龍興等の子供も斬首となり、斎藤道三から渡された国譲り状通り、信長の手で美濃を支配下に置くことに成功したのだった。
木下秀吉は美濃調略で大活躍し、墨俣5000石を加増され、城を築城することを許された。
秀吉は城主となれたのだ。
加増した領地でいつの間にか家来にしていた仙石秀久、仙石久勝兄弟(同じ年で腹違いながら他に頼れる人が居なかったので兄弟仲は凄まじく良かったとされる)や竹中半兵衛、蜂須賀正勝や伊達アニキの息子の三男家門(長門)と四男奥家(陸奥)を一門衆として家来に引き込んで城主としての体裁を整えたらしい。
『家操のアニキへ、俺も城主となることが出来ました! これも家操アニキが俺の背中を押して信長様に紹介してくれたおかげです! それに家臣として美濃で今孔明と呼ばれる竹中半兵衛殿や水運に強い蜂須賀正勝率いる蜂須賀党を雇うことが出来ました! 甥っ子の家門や奥家も活躍してくれています』
『城主になったからには家臣を食わせていかなければいけないので、アニキに教わった農法を広めてもよろしいでしょうか。また、墨俣付近でできそうな産業がありましたら是非教えていただきたいです』
と、秀吉から手紙が届き、俺は農法を広めるのは別に構わないことや大黒屋と協力すれば美濃の上質な木材で利益を出せるだろうということ、その木材を使って紙を作れば俺の安さ重視の紙よりも上質かつその紙を使った提灯、和傘、うちわを作れれば更に儲かるのではとアドバイスを添えた。
手紙を受け取った秀吉は
「流石家操アニキだ。本当に領地経営は右に出る者が居ねぇな」
喜んで、墨俣城の築城と和紙製造拠点を整えていくのであった。