1557年 家操24歳 旋盤 銭湯
1557年 家操24歳
毛利元就が長門、周防制圧
関白の近衛前久の屋敷が焼失
大友宗麟が筑前を制圧
大内氏滅亡
マヨネーズ由来と思われる腹痛の者が多数でたことを受けて酢の分量を多くした対食中毒に意識したマヨネーズが普及された。
冬なので賞味期限が延びたが、夏場でもある程度はこれで持つようになったろう。
で俺は木工や金属加工がやりやすい様に旋盤の開発をホームセンターの敷地で数年かけてコツコツ作っていたのがようやく形になり、それを火縄幸之助に見せる。
「なんだ次はこれを量産すれば良いのか?」
「これを使えば鉄砲に螺旋を組み込んだ初期のライフリング銃を作ったり、ネジを作ったり、パーツを組み替えることで金属に穴を開けたり切断したりが格段にやりやすくなる」
「どれどれ」
試しに木材にドリルで穴を空けてみることにする。
パーツを組み替えて足踏み式で機材が回転するようになっており、回転するドリルで簡単に木材に穴が空いた。
「こいつは便利だな。これを使えばこの絡繰を作るのも、動力を水力にするのもできる」
「ああ、こいつの設計図はこれだ」
「ふむ……1台作るのに10貫(120万円)くらいはしそうだな」
「でもこれによる量産効果は凄まじいだろ? 多少手間がかかるが六角形の銃口よりも螺旋の銃口の方が射距離が伸びるんだよ」
「家操の持っていた最初の火縄銃の射程が500メートルだからな……今までの銃はどうする?」
「旧型は適当に売っぱらおう。弾丸が真似されない限りこの銃の真価は発揮できないからな」
「ならうちの工房でこの絡繰を増産しよう。作った分どうせ全部買い取ってくれるんだろ?」
「ああ、これを使えば千歯扱よりも効率的な回転脱穀機や回転糸紡ぎ機なんかの絡繰や精米装置や水車を動力としていた機材の数々も効率化することができる。今よりももっと安く布が買えるようになるぞ」
「そりゃいいな。よし受けよう。設計図も細かくあるし、既存技術の応用だから1ヶ月で複製してやる。初期予算は?」
「1000貫出す。量産に必要な予算が更に必要なら追加で出す。それが量産できたら津田家保有の5000丁の鉄砲の新調だ」
「よっしゃぁ! 他家向けに性能の低い銃を作って売っていたが、これで楽しいことになりそうだぜ。他の絡繰も合わせて大型取引だ。工房を全力稼働で量産してやるよ!」
「頼むぞ幸之助」
「ああ、家操任せろ!」
幸之助は1ヶ月で本当に旋盤を複製し、量産体制に入った。
次々に製造された旋盤が木工工場や農具工場、コンパウンドボウを製造している工房等各種産業に普及し、生産力が跳ね上がった。
今まで1時間かかっていた作業が旋盤を使えば20分で終わる。
3分の1の時間でできるし、足踏み式の糸紡ぎ機の量産により三河から輸入する木綿を紡績工場で加工して安くある程度の品質の布が大量に出回る様になった。
また旋盤を使えば細かい加工も楽にできると極少数に留まっていた水汲みポンプ(手押し式ポンプ)の量産にも成功し、それを大型にして風力を使って行う製塩施設も常滑の製塩所に続いて成功し、常滑よりも施設が巨大化したため製塩量も跳ね上がった。
しかも質が良いので安く大量に塩が売れて、塩の値崩れが発生。
庶民でも買いやすくなったが、織田領の塩の供給が止まると一気に価格が5倍に跳ね上がるという関東から東海道地域において塩が寡占状態となる。
塩の値崩れにより他の地域は価格競争に負けて廃業に追い込まれる塩屋も出てきてと大変なことになる。
しかも旋盤を作る工場や旋盤を使って部品を作る工場は多角形要塞の中に組み込まれ、材料があれば敵の攻撃を受けても武器や防具を大量に作り続ける工場地区が出来上がるのだった。
浜松の城下町も工場群が建てられた事で工場従事者の家や兵が住む長屋、町人達が住む長屋が次々に建てられて町が拡張されていき、そうなると衛生問題が出てくる。
各地に掘られた井戸の水を汲んでタオルを使って体を拭いたり、川まで行って体を洗ったりする者が殆どであり、寒い川で体を洗うのは大変と水浴びの回数が減り、臭う町人が結構いた。
城に詰めている奉行衆や侍女、指揮官クラスの武将は城にある大浴場でお湯を使って体を清める事が出来たが、城下町で疫病が流行るのは困ると大衆浴場と人糞や尿を汲み取って肥料を作る職業を作った。
大衆浴場は大量の水がいるので川から水路を引いて水源を確保し、まずため池と呼ばれる場所に水を溜める。
その水からお湯を沸かして男湯と女湯にお湯を流していく。
大衆浴場……銭湯は2階建てになっており湯沸かしをしてその蒸気や熱気でサウナの様な役割を持つ蒸し風呂と大きな大浴槽、体を洗うための流し場にあるかけ湯があるだけだったが、それが町の各所(初期は8箇所、最終的に15箇所まで増える)に作られた。
町民達は多いに喜び、しかも銭湯の2階は畳の間と呼ばれて現代の休憩処みたいになっており、憩いの場となった。
そこは身分に関係なく人が集まり、様々な情報が飛び交ったし、出会いの場としても機能した。
更に銭湯の近くは水回りが良いため食堂が多く開かれ、銭湯で体を清めて外の食堂や居酒屋で食事をしたり一杯するのが浜松の城下町では人気になっていく。
しかも浜松は海が近いため海の幸や浜名湖から取れる鰻や鯉、家操が普及させた粉料理(焼きそば、たこ焼き、お好み焼き等)や揚げ物屋(天ぷら、唐揚げ、南蛮揚げ)、そば、うどん、鶏を使った焼き鳥屋等が大量に出店しているため、戦国時代にしては食文化が凄まじく豊かになっていた。
しかも国境沿いの関所を除けば津田領内には関所が殆どないし、城下町でも楽市令を発布して人が賑わい、よく金を落とした。
で、浜松城下が栄えれば流民が各地から流れ込み、それが工場従事者や兵の雇用や今川滅亡の過程で荒れてしまった田畑の回復に寄与した。
現在の兵数は2500名であり、前の500名から規模は5倍に膨らみ、出費も約13万貫まで膨らんでいたが産業の発達と有している工場の利益、税収、商人達からの上納金で黒字は維持することができていたし、旋盤による手工業の革命的効率化により来年からはさらなる増収が期待できるのであった。
税率も今年は3公7民、来年には4公6民まで戻り、新農法普及による増収も加われば更に収支は安定するだろう。
まだ20万貫近く貯金もある。
外交状態も安定しているし、このまま内政に注力したいものである。
織田家による美濃攻略はなかなか進んでいなかった。
というのも斎藤義龍を中心に家中が纏まっており、離反する家臣も出ず、尾張兵の弱さも相まって厳しい戦が続いていた。
なので信長様も内政改革に着手し、一部地域であった関所を織田家領内では全面的に廃止し、楽市令を熱田や津島といった座との関係が深いところは見送りながらも、清洲城下等で行ったり、鉄砲座を作って鉄砲の供給量を増やしたり、親衛隊の家臣を城下に住まわせて即応部隊を強化したり、滝川一益といった外様人材発掘や奉行衆を細分化させて権利を分散させることで奉行衆の枠を増やして新人材発掘を進めたり……目玉として美濃攻略を見据えた小牧山に居城を移す為に築城を行ったりと着実に準備を進めていた。
流石に俺みたいに官営工場を建設して利益を出す……という先進的すぎる領地経営? には手を出さずに、他の国で実績のある政策を真似しながら独自にアレンジを加えて税収を上げていた。
更に斎藤義龍や美濃衆に圧力をかけるために常備兵を用いて農繁期に兵を挙げて美濃を攻撃することで田植えの活動を妨害したり、時には村を焼いて直ぐに撤退する嫌がらせを行った。
対応するために斎藤義龍は兵を動員し、救援に駆けつけるがその頃には信長様は撤退を完了しているし、度々動員される農兵はその度に農作業が中断されるので米の生産にも影響が出ることになる。
痺れを切らした斎藤義龍は田植えが終わった段階で兵を再び動員して尾張に攻め込むことにしたが、ミニエー弾を使用し、長距離射撃と集団行動による掃射技術を常備兵なので訓練することで覚えさせていた信長様直轄の鉄砲隊1000名は大活躍し、攻め込んできた美濃衆に多大な出血を強いることに成功する。
美濃衆はこの敗北に斎藤義龍の能力に疑問を持ち始め、斎藤義龍は鉄砲を揃えれば負けることは無いと旧式の火縄銃(ミニエー弾未使用)を国友から買い揃え、その資金を賄うのに重税を課した事で徐々に民意が離れていくことになるのだった。




