1569年 家操36歳 馬車 石山本願寺降伏
蒸気機関の設置により生産量が増えたのは採掘現場であった。
史実でニューコメンの蒸気機関と呼ばれる装置に近く、採掘の際に出てくる湧き水を汲み上げる装置だった。
熱効率は悪いが、それでも溜まった水を汲み取ってくるというのは大きかった。(坑道内に水が溜まれば事故に繋がるし、爆破採掘にとっては邪魔でしか無いから)
良く使われたのは甲斐の岩室殿の所で、織田家に北条が服従した時に負担ばかりで全く旨みが無かった東甲斐は、織田に割譲しており、岩室殿が甲斐全体を治めていた。
上手くやっているようで多数の鉱山から鉱石を採掘して利益を出したり、たまに掘り当てた温泉を使って温泉街を作り、温泉饅頭や炭酸水、温泉卵等の名物品を売って観光事業を推奨していた。
また最近ではブドウ酒ことワインの生産も軌道に乗り、水田を使わない作物(換金性の高い物)や果樹園、蜂蜜生産、木材の採掘により稼いで関東等から安い米を買うことで経済を回していた。
小麦はよく取れるので、酒蔵も多いので酒粕を使ってパンを作るのが流行り、あとはうどんやほうとう等が人気らしい。
そんな鉱山採掘の効率が上がるとなれば各地の鉱山を持つ領主達も購入していき、俺は技術秘匿すること無く売り込んだ。
多くの鉄砲鍛冶等が原理を研究し、あるものはこの蒸気機関を使えばふいごの作業が楽になるのではないかと改良を施して製鉄や精錬作業に組み込んだり、精米にも使えると蒸気機関を使った設備が徐々に広がることになる。
こうした各地で技術者がでてくれば日ノ本の産業レベルを引き上げることにも繋がる……まぁ統一できていなければ各勢力が各々使って内乱が長引くだけであるが……。
というか地方が力をつけて中央政権をひっくり返す……うん、明治維新だな。
まぁここから織田政権が破綻するのは信長様に何か起こらない限り大丈夫であると思ったので蒸気機関を解放したってのもあるけど。
その蒸気機関を大量に複製するには旋盤が必要で、旋盤は津田家の独占技術だし……。
天下統一されたら織田家の各地に広める必要があるだろうな……統一後は国家対国家の戦いになるだろうし……。
もっとも、蒸気機関の解析は一番進んでいるのが津田家であり、津田家が保護している技術者集団が勝手に改良と他の用途を開発していく。
例えば木材を使えば燃料費が馬鹿にできないため、安価な燃料として尾張の鳴海周辺の泥炭を加工した豆炭や練炭を蒸気機関に使用できるようにしたりもした。
埋蔵量的に使い切れない分だけあるので、徳川家康殿の次に鳴海の領主になった者とも良い金稼ぎになると喜ばれていた。
ただやっぱりまだ効率が悪いので海岸沿いでは風力を使う風車を、川沿いでは水車がメインで使われた。
まぁ熱効率の良い石炭が織田家支配領域では少量しか採掘できないという理由もあり、蒸気機関はあくまで水力の補助という立ち位置であった。
蒸気機関もそうだが、旋盤により高性能な車輪やバネが作れるようになり、それらを組み合わせた馬車が作られた。
今までの馬車は乗り心地が悪く、地面の衝撃をそのまま荷台に伝えてしまったので、少しのでこぼこでも跳ねてしまい、尻が痛くなるということが多かった。
しかも山道が多い為に馬車よりも馬に荷物をそのまま背負わせたり、人々が運ぶことが多かったが、街道が舗装されたことで馬車を運用しても良い下地ができ、大陸から大型の馬を輸入できたことで馬車を使うことがようやくできた。
そしてバネ式サスペンションを備えた馬車がこの年に完成し、4輪の牛車を発展したデザインの馬車が完成し、浜松の城下で運用すると商人達が目を輝かせた。
馬車により積荷を多く運べるし、大八車の様に積荷を痛めることも無く、人でも荷物でも運ぶことができる。
俺は馬車の使用は専門の業者を設けて、その業者に頼むことで運用することにした。
馬車組合と呼ばれるようになり、馬の飼育や馬車の整備、実際に馬車の運用を担う。
市営バスとトラック運転手を合わせた業種と考えればよいだろう。
それに伴い駅を各地に設置していった。
信長様に連絡してまずは織田領内……浜松から京までの広い街道がしっかりしている場所の各地に駅を設置し、駅には馬を休ませる馬小屋に誰でも利用できる井戸、人が休むことができる宿場を設けて、浜松から京までの物流を担った。
ただ北条もぜひとも馬車を通して欲しいという要望があり、北条の資金で街道を舗装し、小田原までの駅と馬車街道が整備されることになる。
そうなると上杉も通して欲しいということになり、浜松から信濃を通り、越後の春日山まで続く街道が整備されるのであった。
馬車に乗った上杉謙信様から上機嫌な手紙も届いた。
『この馬車という乗り物はすごく便利ですね! いくら乗っても疲れなくて凄いです! この乗り物に乗って甲斐の温泉街に行ったのですが、家臣達も大喜びでした! こんな乗り物を考えつく家操は凄いです!』
と書かれていた。
というかちゃっかり甲斐の温泉街に向かったのにも驚きだ。
ちなみに温泉にすっかりハマった上杉謙信様は沸かし湯になるが温泉を作り、毎日家臣達と入浴しているらしい。
風呂上がりに飲む麦茶が美味しいと手紙で書いている。
ちなみにここまでアグレッシブに動くのは上杉謙信様だけで、他の大名はいくら織田政権に服従したと言っても軽々と温泉旅行に行ったりはしない。
それだけ上杉謙信様は馬車にドハマリしたということであるが……。
馬車が京まで開通したことにより、その街道がある道沿いは大いに賑わい、補給関係も大きく改善した。
京までの道はメインは東海道を通り、尾張で美濃に向かう道に分かれ、美濃、近江、京に向かう道と尾張、伊勢、伊賀、大和を通って京に向かう道の2本の街道がメインであった。
そこから西側はまだ戦争状態が続いているため街道整備は進んでいなかったが、それでも尾張や遠江から作られた弾薬や物資を畿内まで迅速に運ぶことで、織田軍の補給状態は改善し、進撃速度を更に上げていた。
石山本願寺は起死回生の為に石山から出て夜襲を仕掛けたらしいが、門徒達は訓練された兵でないため練度不足で夜襲がバレて逆に丹羽長秀率いる軍に散々に射撃されて大打撃を受けたらしい。
数万人の犠牲者が出たことでこれ以上の籠城は不可能と判断した石山本願寺の門主である顕如が和睦交渉に応じ、本願寺は武装解除の上で京に本拠地を移し、運用資金を織田家から受け取る代わりに過剰な献金等を受け取ってはないけない等の25項目に及ぶ条件を飲ませた。
石山本願寺は解体されて信長様の命令で海上貿易や日ノ本中心の商業拠点とするための城が作られる事になり、史実の大坂城よりは小さいが、拠点としては十分な城が建造されることとなるのだった。
石山本願寺を降伏させた丹羽長秀の名声は大きく上がり、今の織田家の家格は筆頭が柴田勝家、次点が丹羽長秀、3番手に滝川一益、4番手に俺、5番手に木下秀吉、6番手に岩室重休になったらしい。
秀吉は中国地方攻略で大きな功績を挙げていたかららしい。
毛利も和平交渉が続いているので来年には決着だろう。
そうなれば残すは大友くらいだ。
外交上手の大友は講和に向けて動いていたらしいが、奴隷貿易について咎められて領地没収という条件を突きつけたら話し合いは流れてしまったらしい。
九州で150万石を領有している大友氏の意地である。
大友を残すとキリスト教に国土を売りかねないと俺が信長様に告げ口をしたのも効いたらしい。
まぁそれも来年には片付くだろう。
そうなれば東北の一部を整備して天下統一の完成である。
40歳前には全て終わりそうだ。




