第1話 無事に婚約破棄させました
※2023/12/29 王子の名前がKevinに変わりました
「君との婚約を破棄する」
「はい、ではこちらにご署名をお願いいたします」
「ん?」
ん? ケヴィン第一王子はもう一度首を傾げた。その顔の前にリーゼロッテはずいっとペンと羊皮紙を二枚差し出す。
「こちらです。この右下に殿下のご署名をお願いいたします、二枚とも忘れずに。続いて私が署名させていただきますので」
「あ、ああ……そうだな……?」
少し困惑していたケヴィンは、すぐさまキリリと顔をひきしめて憮然とした顔を作る。婚約無効の確認書というタイトルから始まる羊皮紙の右下には”Kevin Funf Hierophant“と書かれた。署名だけは慣れているケヴィン第一王子は唯一名前だけが達筆だった。
「では私が署名させていただきます」
その下に“Lieselotte Neun Eremit”と書く。それは素早く字を書くことを重視したような右上がりの鋭い字だった。
「ではヘルシェリン侯、こちらをお納めください。もう一部は私が控えとして保管します」
「は、はあ……」
恭しく羊皮紙を差し出すと、第一王子と違って困惑を隠せない宰相がおそるおそるそれを――掴んだ。
この瞬間にて、と殿下の婚約は無効! リーゼロッテはその凛々しい眉を吊り上げ、深い青色の双眸をカッと見開き、グッとガッツポーズを天井に突きだした。
「殿下! 私と殿下との婚約はこれにて無効となり、当初より婚約していなかったものとなりました! 私の部屋は既にすべての私物を処分し清掃を済ませておりますのでご自由にお使いください! では!」
おっと、喜びが拳に現れていた。気付いたリーゼロッテは慌ててドレスを摘まんで最上級の礼を取る。ふわりと、その氷のように透き通る薄青の美髪が扇状に広がった。
「ニーナ様と末永くお幸せにお過ごしくださいませ!」
ショックを受けるとばかり思っていたのになぜ――と些か唖然としているケヴィン達を無視し、リーゼロッテは優雅に身を翻す。玉座の間に集まっていた貴族達は、目の前で起こった歌劇のような出来事(ただし悲劇か喜劇か不明)に揃って怪訝そうに顔を見合わせていた。
「……さて」
身一つで王城を出た後、リーゼロッテは陽光を反射する白い巨塔を見上げ、その淡いピンク色の唇で弧を描く。
「これで無事に手続完了、か」
――リーゼロッテ・ノイン・エレミートがケヴィン・フェンフ・ヒエロファントの婚約者に決められたのは3歳のときだった。
エレミート公爵家の一人娘であるリーゼロッテとケヴィン王子との婚約は至極自然な流れであり、物心つく頃には自分の役割を理解していたリーゼロッテは、そこに何の反抗心も抱かなかった。ゆえに、以来十二年間、王子の婚約者として恥じないよう、自分を磨くことに邁進してきた。
しかし、ある事件でリーゼロッテの父に当たるエレミート公が逝去した。エレミート公亡き後、現国王がヘルシェリン侯に宰相を任せるようになってから、リーゼロッテの立場は一変した。
何を隠そう、ケヴィンが現在ご執心のニーナ・ドライ・ヘルシェリンこそヘルシェリン侯の長女。ヘルシェリン侯は第一王子の婚約者の座を虎視眈々と狙い、ことあるごとにニーナをケヴィンへ近づけ、まんまとその目的を達した――とヘルシェリン侯は思っている。
(ケヴィン殿下の婚約者の座なんて、東洋の言葉を借りれば熨斗をつけて返すというヤツだったからなあ)
が、リーゼロッテにとって、そんな企みは渡りに船だった。
だから、ニーナがケヴィンに近づくのを見て見ぬふりをし、
「リーゼロッテ様はいつも静かに殿下のお話を聞いて、良妻の鑑ですわね。私のような女はうるさいと言われてしまうのです(訳:馬鹿なお前と違って私は打てば響く知性の持ち主と男性に敬遠されてしまいます)」
というニーナの嫌味も、
「お前は本当に静かに微笑む以外何もできないのだな(訳:従順でつまらない女だな)」
というケヴィンの匂わせも気づかぬふりをした。
そしてあるとき、ニーナがさめざめと泣きながら「私のように賢しい女性などはしたないと思われるでしょう」と零し、ケヴィンが「そんなことはない、こんな時代だからこそ君のように聡明な女性が(以下は聞かなかった)」とその肩を抱く密会の様子を盗み見て「やってやった」と勝利の拳を握りしめた。あとはせっせと婚約破棄するように暗躍した。
その努力が、今日、結ばれたのだ。
そんなリーゼロッテとケヴィンは、もともと不仲だったわけではない。むしろ政略結婚のわりには気の合うほうだった。
しかしリーゼロッテに言わせれば、ある日からケヴィンの様子が変わってしまった。
『馬鹿なお前には分からないんだ』
いつからか、それがケヴィンの口癖になった。
王子として、政務に携われば「お前は嫁げば安泰のお気楽な人生だ」、外交に出向けば「お前は表に立たないでいいから楽なものだ」、戦から帰れば「お前には剣の重さも分かるまい」、魔法を扱えば「お前は回復魔法しか使えず前線の恐怖も知らない」などなど、とにかく口を開けば「お前は随分いいご身分で何よりだ」とばかり。
素直なリーゼロッテは「そうか、私は何もできないし何も分かっていないのか……」とその罵倒に謙虚に頷いてばかりであった。
しかし、素直過ぎたリーゼロッテは「じゃあ政治を学ぼう!」「本だけじゃ足りないから実際に隣国と取引しよう!」「剣も持とう!」「実戦経験のために前線にも出よう!」――と、こっそりと家庭教師に学び、本を読み漁り、他国で商取引をし、剣を学び、あろうことかお忍びで従軍までするなど、まるで男のように研鑽を積んだ。
その結果、ケヴィンは全く見当違いの罵倒を繰り返すクソ野郎だと判明してしまった。
(それでもってプライドは高くて諫言は受け入れられないんだから、仕方ないかな)
もう一度王城に頭を下げた後、リーゼロッテは馬車に乗り込む。あらかじめ準備しておいた軽装に着替え、自ら御者となって馬を進めた。
(……自由の身になったとはいえ、元王子妃候補でエレミート公爵家という出自はちょっと邪魔だな)
パカラッパカラッと軽快な蹄の音を聞きながら春の晴天を見上げ、リーゼロッテは少しぼんやり考えこんでしまった。
ケヴィンの隣で婚約者をしていた十二年間は、リーゼロッテにある反省をさせた。その反省は無意味なまま生涯を終えるのだと思っていたが、ケヴィンに婚約破棄させることに奏功した今であれば。
(……やってみるか)
頭の中に地図を広げる。目的地までの最短ルートは狭く険しい獣道も通らなければならない。馬車だと迂回しなければならないから十数日かかるが、馬なら数日で突破できる。
「……車と髪を捨てよう」
城下で馬車を降り、必要最小限の物を残して荷物を硬貨に変える。侍女達が毎日丁寧に手入れしてくれた美しく青い髪も躊躇なく切って売り払った。
以来、ケヴィン王子の元婚約者・エレミート公が長女リーゼロッテ・ノイン・エレミートの行方は知れない。
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