迫真の演技
「ねえ、もうすぐクリスマスじゃない。パーティの余興で、何か良いアイデアはないかしら?」
つい先ほど来訪したばかりの客人に向かって、ブロンズ夫人はそう問いかけた。
「昔ながらのクリスマスパーティも、今風のも良いけど、でもみんな、やりつくされちゃってるわ。だから、今年はもっと創意工夫あふれる出し物をやってみたいわね」
「先月ね、マセソンさんのお宅に泊まったの」とブランシュ・ボヴェールは熱っぼく答える。
「そこの余興がね、ほんと良かったの。パーティの参加者がひとりひとり何か役柄を演じて、四六時中ずっと役になりきったまま行動するの。でも、それだけじゃないわ。パーティが終わるまでに、他人が何を演じているのかも当てないといけないのよ。それで、一番うまく演じきった人を投票で決めて、選ばれると賞品が貰えるの」
「なんだか面白そうね」とブロンズ夫人。
「私は『アッシジの聖フランチェスコ』を演じてみせたわ。だって、別に性別まで一緒する必要はないじゃない?」とブランシュは続ける。
「食事の途中で席を立って鳥に餌を投げる、それを繰り返したわ。ほら、聖フランチェスコって鳥が好きでしょ。私が真っ先に思いついたのはそれよ。でも、その場にいたのはお馬鹿さんばかりだったから『テュイルリー庭園で、スズメに餌をやってる老人』だなんて言うのよ。あと他には、ペントレイ大佐が『ディー川畔の粉挽屋ジョリー・ミラー』を演ってたわ」
「おいおい、大佐はいったいどう演じてみせたんだい?」とバーティ・ヴァン・ターンが口を挟む。
「朝から晩まで笑って歌うだけよ」とブランシュは説明する。
「他の招待客は、ひどく肝を潰したろうな」とバーティ。
「まあ、どっちにしても大佐はディー川畔までは行かなかったわけだ」
「そこは想像力で補ってあげないとね」とブランシュ。
「想像力ねぇ……なら、離れた岸にいる牛の姿も見えたんだろ。そのまま、戻ってくるよう牛に呼び続けて、悲劇のメアリーみたいにディー川の砂岸を渡って溺れてしまうわけだ。あるいは、川をヤロー川に変えてもいいかもしれない。頭の中でヤロー川を思い浮かべるのさ。そしたら『ヤロー川で溺れたウィリー』とか何とか、みんな答えてくれるだろうさ」
「そうやってね、茶化すのは誰だってできるのよ」とブランシュは鋭く言い放つ。
「でも、本当に面白くて楽しかったのよ。まあ、賞は大失敗に終わっちゃったけど。だって、ミリー・マセソンたら、金持ちの女主人『バウンティフル夫人』を演じてるだなんて言うのよ。そりゃ、お屋敷の女主人はあの人だけなんだから一番上手く演じていたのは?って聞かれたら、みんな、あの人に投票するに決まってるじゃない。あれがなかったら私が一番だったわ」
「クリスマスパーティの余興としては名案ね」とブロンズ夫人。
「私たちもやってみましょうよ」
一方、ブロンズ夫人の旦那であるニコラス卿はあまり乗り気ではなかった。
「なあ君、大丈夫か? そんな出し物をやろうなんて正気かい?」と妻と二人きりのときに、ニコラス卿が問いかけた。
「マセソンさんのところだから上手くいったんだ。かなり真面目で、年齢層の高いパーティだからな。しかし、邸でやるとなると別問題だ。たとえば、ダーモット家のお転婆娘なんかは文字通り手段を選ばないし、ヴァン・ターンがどんな奴かは君も知ってるだろう。それに、シリル・スカッタリーもいる。あの小僧は、父方か母方かに頭のおかしい親戚がいたし、もう片方の祖母はハンガリー人だ」
「人を困らせるようなことをするかは分からないじゃない」とブロンズ夫人。
「分からんからこそ、用心するべきだろう」とニコラス卿。
「もしスカッタリーが聖書に出てくる『バシャンの猛牛』を演じようとものなら、そうだな、その場から逃げ出そうか」
「もちろん聖書の人物は禁止にするわ。でも、『咆哮える獅子みたいに口を開いたバシャンの猛牛に囲まれて』でしたっけ? 実際、どんな滅茶苦茶に恐ろしいことをしたかなんて、私も見たわけじゃありませんからね。覚えているのは、どこからかやって来て、ただ口をポカンと開けてたって話だけだわ」
「君ね、ハンガリー譲りのスカッタリーの空想力が、聖書のあの一節をどう斜め読みするか分かってないな? 全て終わった後に『お前さんが演じたのはバシャンの猛牛どころじゃなかったよ』と本人に言ってやるくらいしか溜飲を下げる術はないんだよ」
「あらまあ、心配性なのね」とブロンズ夫人。
「でも、このアイデアは絶対に実現させたいのよ。きっとすごい話題になるわ」
「そりゃ話題にはなるだろうさ」とニコラス卿。
* * * * *
パーティの当日、夕食の席は特に活気のあるものではなかった。自分の選んだ役柄を完璧に演じてやろうとする者や、周囲の様子を見て元ネタの手がかりを何とか手繰り寄せようとする者もいた。そんな張りつめた空気を見ると、今日のパーティの盛り上がりも程度が知れるというものである。
夕食が終わって一同が軽いピアノの演奏に耳を傾けていたときに、気立ての良いレイチェル・クランマーシュタインが「一、二時間くらいは『この余興』のことは忘れましょうよ」と言ってくれたのは、当然の如くありがたかったし、不本意な者もその言葉には黙って従うこととなった。無論、レイチェルもピアノなら誰の演奏でも良いというわけではない。愛して止まない我が子モーリッツとオーガスタが奏でる選り抜きの演奏で無ければ聴き入ることもなかっただろう。もちろん、お世辞抜きに二人の演奏は素晴らしいものだった。
正直に言って、このクランマーシュタイン家の御一行様はクリスマスパーティの客人としては上客も上客であった。なにしろ例年、クリスマスや新年会の頃になると、高価な贈り物を気前よくポンと配ってくれるし、この日も既に余興の最優秀モノマネ大賞の景品について仄めかしていたりもしたのだ。もしも、主催者のブロンズ夫人が景品を用意するという羽目になれば、あの夫人のことだ、「二十か二十五シリングくらいの小っちゃな土産物くらいが丁度いいんじゃないかしら」などと言い出しかねない。だが、クランマーシュタイン家が来ているとなると話は別だ。あの様子を見るに、夫人の数十倍……数ギニーは下らないだろう。
そして、ようやくモーリッツとオーガスタがピアノから離れて、モノマネ大会の小休止も終わりを告げた。まず、ブランシュ・ボヴェールが、苦しそうに跳んだり跳ねたりしてみせる。「バレリーナのアンナ・パブロワの真似だって誰か気づいてくれないかしら」と期待を抱きながら、そのまま早々に部屋を後にしていった。
すると、齢十六のお転婆娘ヴェラ・ダーモットは「あれって、あの有名なマーク・トウェインの『跳び蛙』のモノマネじゃないかしら。だって、そっくりでしたもの」と自信満々に言ってのけた。なるほど、この観察眼には一同も納得の様子だった。
さて、客人の中には早寝早起きの見本とも言えるウォルド・プルブレイ君がいた。衛生的な生活習慣を分刻みの時間割のように守るのがこの男の日常だった。今年で七つと二十になる、この怠惰で丸々と太ったウォルド君は、幼い頃より母親から「尋常ならざるほどの繊細な人間」と決めつけられ、甘やかしに甘やかされ、屋敷に引き籠ってばかりいたおかげで、肉質の柔らかな気難し屋に育ってしまった。途絶えることのない九時間の睡眠と、その前に行う入念な呼吸運動、そして衛生的で儀式的な生活習慣。それは、ウォルドが己に課した不可欠な決まり事の一端であった。
その上、この男の大小様々な要求を聞かされている周りの人たちも、これまた数えればキリが無いほどの小さな決まり事を課されているのであった。例えば、滞在先の屋敷の寝室係であろうとも、ウォルドは寝覚めのお茶を煎じるための特別製ティーポットを、厳格な態度で手渡すほどだ。ただ、これまで誰一人として、この貴重な茶器を完璧に使いこなせた者は無いのだが、「お茶を淹れるとき、注ぎ口を北向きにしつづけなければならぬ」という言い伝えの発端がバーティ・ヴァン・ターンであることだけは間違いなかった。
しかし、このパーティの晩、このかけがえのない九時間の睡眠は尽く台無しにされたのである。深夜とも夜明けとも言えぬ中途半端な時間に、突如として、音を忍ばせることも無く、ウォルドの部屋に押し入ってきたパジャマ姿の人影のせいで……。
「どうしたんだ! 何か探しているのか?」
驚き目覚めたウォルドの目がゆっくりと捉えた姿は、失せ物を忙しなく探しているヴァン・ターンの姿だった。
「羊を探してんだよ」
「羊だとぉ!?」
ヴァン・ターンが答えるとウォルドは叫び声を上げた。
「そう、羊だ。お前まさか、俺がキリン探してるように見えるってか?」
「羊でもキリンでも、そんなもの、僕の部屋にいると思ってるのか?」と青筋を立てながらウォルドは発した。
「もうこんな時間だ。言い争ってる暇は無い」
バーティはそう言うと、また忙しなく箪笥を漁り始め、シャツや下着は床の上に飛び散っていく。
「ここには羊なんていない、そう言ったろ!?」
ウォルドは悲鳴を上げた。
「ああ、確かにそう言った。俺もそうだと信じてる」
寝具を全て床に払い落としながらバーティは続ける。
「でも、何か隠してなきゃ、お前もそんな慌てたりしないだろ?」
この瞬間からウォルドは、気の狂ったヴァン・ターンが譫言を嘯いているのだと悟り、その機嫌を取るために気が気でなかった。
「ほらさ、大人しくベッドに戻りましょうよ」と嘆願するウォルド。
「そしたら朝には、君の羊も元気になって出てきますからねぇ」
「でもよ、あいつら尻尾を無くしてるぜ、きっと」
鬱々とした声でバーティは言った。
「マン島の猫みたいに尻尾の無い羊を大勢引き連れてったらよ、俺はとんだ大馬鹿野郎と思われるじゃねぇか!」
そんな未来への苛立ちを強調するように、ヴァン・ターンはウォルドの枕を洋服箪笥の真上に投げ飛ばした。
「で、でも、どうして尻尾が無いんだい?」
恐怖と怒りと肌寒さで歯をカチカチと鳴らしながら、ウォルドが尋ねてみる。
「おいおい、お坊ちゃんよぉ。『リトル・ボー・ピープ』の子守唄、知らねぇのかよ? リトル・ボー・ピープの羊が迷子、やっと見つけた心が痛む、尻尾をどこかに置いてきた~って唄うだろ」
バーティはニヤニヤと笑っていた。
「俺はな、ずっと演じてたんだよ。パーティの余興だろ? 迷子の羊を探しに行かなきゃ、誰も俺が何を演じてるかなんて分かんねぇだろうが。そら、泣くなよ、いい子だ、ねんねしな、さもなきゃ怒りますからね」
母親宛の長い手紙の中でウォルドは事の顛末をこう綴る。
「この夜の睡眠時間を埋め合わせるために、僕が羊を何匹かぞえる羽目になったのか、それはご想像にお任せします。誰にも邪魔されることのない九時間の安眠が、健康で過ごすためにどれほど重要かはお母様もご存知のことだと思います」
一方、眠れない間は、バーティ・ヴァン・ターンへの怒りと激情を吐き出すことに躍起になっていた。
ブロンズ邸の朝食は基本的には「お好きなときにどうぞ」ということだったので、みんなバラバラに取り、お昼時に一堂集まり昼食会をすることになっていた。しかし、「余興」が始まった翌日はどうにも欠席者が目立っていた。例えば、ウォルド・プルブレイは頭痛で休んでいるらしい。大量の朝食と清潔さが売りのA.B.C.製のパンが、ウォルドの部屋に届けられたが、生身の姿を見せることは無かった。
「きっと何かの演技じゃないですか? ほら、モリエールの戯曲で『病は気から』ってありますよね? あれのつもりで、死んだふりでもしてるんじゃないかしら」とヴェラ・ダーモットは語った。
他にも八つか九つほどの候補が挙げられて、ヴェラの提案もその中にきちんと書き加えられた。
「クランマーシュタインさんたちは、どうしたのかしら? いつもは遅れることなんて全然ないのに」とブロンズ夫人が尋ねる。
「多分だけどさ、あの人たちも『失われた十支族』の役になりきって、そのまま姿を消しちゃったんじゃないの?」と答えるバーティ・ヴァン・ターン。
「でも、あのご一家、三人しか来られてないのよ。それに、お昼だって食べたいはずじゃないの。誰か何か見てないのかしら?」
「あんた、クランマーシュタインさんたちを車で連れ出したでしょ?」とブランシュ・ボヴェールがシリル・スカッタリーを問い詰める。
「ああ、朝食の後すぐにね、スロッグベリー湿原へ連れ出したよ。ミス・ダーモットと一緒に。」
「あなたとヴェラが帰ってきたのは分かってるわ。でも、クランマーシュタインさんのご一家は見てないの。近くの村で降ろしたの?」とブロンズ夫人
「いいや」とスカッタリーは短く答えた。
「じゃあ、どこにいるの? どこで降ろしたの?」
「スロッグベリー湿原に置いてきましたわ」とヴェラが平然と言い放った。
「スロッグベリー湿原? 三十マイルも離れてるじゃない! どうやって戻るって言うの?」
「思いついちゃったら止められなくてね」とスカッタリー。
「車が動かなくなったってことにして、クランマーシュタイン御一行様にはちょいと降りてもらって、そのまま全速力でトンズラきめたってわけさ。連中はあそこに置いてっちゃったよ」
「なんてことしてくれたの? この人でなし! もう雪が降り始めてるのよ。」
「一、二マイルも歩けば小屋か農家くらいあるんじゃない?」
「なんで、こんなことになってしまったの!?」
この問いかけを皮切りに、憤慨や困惑の大合唱が巻き起こる。
「それだけは言えませんわ。だって、私たちが何を演じてるか教えちゃうことになりますもの」とヴェラが答える。
「だから用心しろと言ったろう?」と、悲愴感を顔に浮かべながらニコラス卿が妻に向かって呟いた。
「僕らのはね、スペイン史が関係してるんだよ。まあ、ヒントくらいはさ、出してあげるよ」
スカッタリーがそう言いながらサラダを美味しそうに頬張ってると、バーティ・ヴァン・ターンが面白おかしそうに笑い出した。
「なるほど! カトリック両王のフェルナンド二世とイザベル一世の『ユダヤ教徒追放令』だな! おい、面白いなぁ! 優勝はこの二人に決まりだな。他の追随を許さぬほどの徹底ぶりだ」
クリスマスパーティは、ブロンズ夫人が期待に胸を膨らませていたとき以上の、予想もしないほどの大きな話題になり、記事にもなった。その中でもウォルド君の母親から送られてきた手紙が唯一、夫人の記憶に残ったことだろう。
原著:「Beasts and Super-Beasts」(1914) 所収「A Touch of Realism」
原著者:Saki (Hector Hugh Munro, 1870-1916)
(Sakiの著作権保護期間が満了していることをここに書き添えておきます。)
翻訳者:着地した鶏
底本:「Beasts and Super-Beasts」(Project Gutenberg) 所収「A Touch of Realism」
初訳公開:2022年8月20日
【訳註もといメモ】
1.『ヴェラ・ダーモット』(Vera Durmot)
ヴェラ・ダーモットはサキの短編「開いた窓」(The Open Window)、「嵐は去って」(The Lull)、「マルメロの木」(The Quince Tree)、「歳時記」(The Almanac)に登場する少し変わった女の子。彼女の特技は「作り話を即興で話すこと」。
この短編「迫真の演技」(A Touch of Realism)では他にも「トバーモリー」(Tobermory)に出てくるロクでなしのバーティ・ヴァン・ターンも登場するし、シリル・スカッタリーは「お話上手」(The Story-Teller)に出てくるシリル坊ちゃんを彷彿とさせてくれる。
2.『アッシジの聖フランチェスコ』(St. Francis of Assisi)
聖フランチェスコ(Francesco d'Assisi, 1182-1226)は中世イタリアで活躍したカトリックの修道士。博愛の精神で知られ、小鳥に教えを説くといった逸話が有名。同時代の画家ジョット(Giotto di Bondone, 1266/7-1337)の「聖痕を受ける聖フランチェスコ」(Stigmate di san Francesco, 1295-1300)にも小鳥に説教をする聖フランチェスコが描かれている。
3.『ディー川畔の粉挽屋ジョリー・ミラー』(the Jolly Miller on the banks of Dee)
粉挽屋ジョリーは、イングランド北西部チェスター地方の民謡「昔、ジョリー・ミラーというのがおりまして」(There was a Jolly Miller Once)の登場人物。ディー川はウェールズとイングランドを流れる川で、民謡の原典はアイルランドの歌劇作家ビッカースタッフ(Isaac Bickerstaff, 1733-1808?)のバラッド・オペラ「ある村の恋物語」(Love in a Village, 1762)の一節だが、人口に膾炙するうちに様々なバージョンが生まれている。民謡の中で、ディー川の畔に住む粉挽屋のジョリー・ミラーは「他人から気にかけられることもなく、他人を気にせず暮らしていく」と歌いながら陽気に働く。
4.『悲劇のメアリー』(Mary-fashion, across the sands of Dee)
悲劇のメアリーは、英国の作家であり聖職者でもあったキングズレイ(Charles Kingsley, 1819-1875)の悲哀詩「ディー川の砂岸」(The Sands of Dee, 1850)の登場人物。詩中で、メアリーは(放牧していた)牛を呼び戻すように言われ、ディー川の砂岸を渡るが溺死してしまう。1912年にはこの詩を題材にしたサイレント映画「The Sands of Dee」がアメリカで製作されている。
5.『ウィリー』(Willie)
「ヤロー川で溺れたウィリー」(Willie’s Drowned in Yarrow)はスコットランド民謡で、ヤロー川で婚約者ウィリーを失った恋人の悲哀を謡う。英国ヤロー川(Yarrow Water)と呼ばれる川はスコットランド南東部のボーダーズとイングランド北西部のランカシャーに一本ずつあるが、この民謡の川は前者であろう。
6.『金持ちの主催者バウンティフル夫人』(Lady Bountiful)
バウンティフル夫人(Lady Bountiful)は「金持ちの慈善家」を表す慣用句。語源はファークハー(George Farquhar, 1677-1707)の喜劇「伊達男たちの謀略」(The Beaux' Stratagem, 1707)に登場する同名の裕福で博愛主義的な未亡人から。
7.『バシャンの猛牛』(the Bulls of Bashan)
バシャンは聖書に登場する地名で、古代イスラエル王国の北東部、ガリラヤ湖の東に広がる肥沃な大地である(現在のシリア南西部)。丈夫な雄牛が有名で、旧約聖書の十二小預言書のアモス書では北イスラエル王国の首都サマリヤの有力者の婦人たちが「バシャンの雄牛ども」と呼ばれ、その圧政と強欲さを揶揄されているし、イエス・キリストが磔刑の際に口にしたとされる詩篇22篇でも啓典の民の障害となる強敵のことを「バシャンの強い雄牛はわたしを囲み」と譬えている。つまり、この短編中では、「バシャンの猛牛」は果てしなく強い力を持った敵を指しているのだ。
さて、参考にした聖書の原文は以下の通り(日本語は口語訳聖書、英語は欽定訳聖書より引用)。
アモス書 4:1
"「バシャンの雌牛どもよ、この言葉を聞け。あなたがたはサマリヤの山におり、弱い者をしえたげ、貧しい者を圧迫し、またその主人に向かって、『持ってきて、わたしたちに飲ませよ』と言う。"
Amos 4:1
"Hear this word, ye kine of Bashan, that are in the mountain of Samaria, which oppress the poor, which crush the needy, which say to their masters, Bring, and let us drink."
詩篇22:12-13
"多くの雄牛はわたしを取り巻き、バシャンの強い雄牛はわたしを囲み、"
"かき裂き、ほえたけるししのように、わたしにむかって口を開く。"
Psalm 22:12-13
"Many bulls have compassed me: strong bulls of Bashan have beset me round."
"They gaped upon me with their mouths, as a ravening and a roaring lion."
8.『アンナ・パヴロワ』(a tolerable imitation of Pavlova)
アンナ・パヴロワ(Annna Pavlovna Pavlova, 1881-1931)は帝政ロシア時代のバレリーナ。代表作は1907年にサンクトペテルブルクで初演した「瀕死の白鳥」(The Dying Swan)であり、湖面で命の限り死にもがく白鳥の姿は演じ、至高の出来と評価される。
9.マーク・トウェインの『跳び蛙』(Mark Twain's famous jumping frog)
「跳び蛙」とは米国の作家マーク・トウェイン(Mark Twain, 1835-1910)の短編小説「カラヴェラス郡の名高き跳び蛙」(The Celebrated Jumping Frog of Calaveras County, 1865)に登場する蛙「ダネル・ウェブスター」(Dan'l Webster)のこと。賭博好きな男に跳躍力を鍛え上げられたこの蛙は、「カラヴェラス郡のどの蛙よりも高く飛ぶか」という賭けの対象にされるのだが、賭けの相手が密かに両手いっぱいの弾丸をに蛙に飲ませたせいで、藻掻けども跳ぶに跳べなくなってしまう。
10.マン島猫みたいに尻尾の無い羊(Manx sheep)
マンクス種(Manx)とはマン島原産の尻尾の無い猫の品種で、後述する『リトル・ボー・ピープ』の子守唄の羊の話にかかっている。しかし、この「Manx sheep」の訳出は非常に難しい。なにしろ、マン島にはマンクス・ロフタン種(Manx Loaghtan)という羊も実在するので、この羊のことだと思って訳していたらどうにも意味がハマらない。四苦八苦して結局、和爾桃子・訳の「迫真の演出」(短編集「けだものと超けだもの(白水Uブックス)」収録)を見返して、やっと猫の品種だと気が付いた次第である。サンリオSF文庫(手元にあるのは筑摩eブックス版)の中西秀男・訳「リアリズム的傾向」でも「マンクス・ヒツジ」と訳しているので、和爾氏の慧眼には感心するばかりである。
11.『リトル・ボー・ピープ』の子守唄(Little Bo-Peep)
「リトル・ボー・ピープ」は英国の童謡。複数のバージョンが存在するが、ここでは時代が近い1877年刊行「Mother Goose’s Nursery rhymes; A collection of Alphabets, Rhymes, Tales, and Jingles」に収録の版を参考にする。羊飼いの少女リトル・ボー・ピープは迷子の羊を探しているが、ようやく見つけた羊は尻尾が無い。ある日、リトル・ボー・ピープが近くの牧草地をうろうろしていると、木に並べて干されている羊の尻尾を見つけ出し、羊のお尻にどうにか縫い付けようと試みる……という童謡。
12. A.B.C.社製のパン(an “A.B.C.”)
「A.B.C.社」は、かつて英国の喫茶店(Tea Room)チェーンであった「Aerated Bread Company Ltd.」(炭酸瓦斯式麺麭株式会社、とでも訳そうか)の通称である。創業から比較的早く喫茶店業を始めていたが、本業は社名の通り製パン業である。創業者のドーグリッシュ博士(Dr. John Dauglish, 1824–1866)は小麦と水を混ぜた生地に加圧によって炭酸ガスを加えることで、イースト菌の発酵を伴わないパン製法の開発に成功し、従来の手ごねのパン製法を「不衛生」だとして、「衛生的」なパンを製造する機械化された工場を設立したわけである。
13.『病は気から』(Le Malade imaginaire)
モリエール(Molière, 1622-1673)の最後の戯曲「病は気から」(Le Malade imaginaire, 1673)。娘の結婚相手に医者を望む父親と、それに反対する娘や使用人たちの姿を描いた喜劇。父親は自分のことを重い病気だと思っており、娘の結婚に対して賛否両論のある家族の本性を暴くために、自ら死んだふりをする。
14.『失われた十支族』(the Lost Ten Tribes)
「イスラエルの失われた十支族」は旧約聖書に登場する12支族のうち行方不明の10支族(行方が知られていない10部族(ルベン、シメオン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、イッサカル、ゼブルン、マナセ、エフライム)のこと。
15.『ユダヤ教徒追放令』(Ferdinand and Isabella deporting the Jews)
1492年、イベリア半島南部のグラナダ陥落によってカトリックによる国土回復運動は終焉を迎えた。「ユダヤ教徒追放令」は、これに伴いスペイン王国のカトリック両王が出した法令であり、ユダヤ教徒に対して改宗か国外退去かを命じたものである。この追放令によってスペイン国外に離散したユダヤ教徒が今日まで続くユダヤ系人の二大勢力の一つセファルディム(ヘブライ語でスペインを指すSefaradが語源)である。