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枯葉と呼ばれる地味令嬢は婚約を破棄したい

作者: 蛹乃林檎

虫自体は出てきませんが、虫に関わる話が出てきます。虫の字を見るのもちょっともダメな方はごめんなさい。


 今日こそは。

 今日こそは婚約解消を申し入れなければ。


 低い位置で纏めたシニヨンから幾筋か後れた暗褐色の髪を揺らし、ニネットはそう強く決意して王宮の廊下を歩く。

 向かっているのは第四王子の居室、婚約者の部屋である。


「言う……き、今日こそ、絶対……」 


 今日こそはと決意を口にするもその声は弱々しく、早くもニネットはいつも通りの弱気になっている。

 目標へと進める足だって段々歩幅が狭くなっていて、けれど反比例するように心音だけが速度と音量をあげていく。


 やっぱり明日にしようか。


 煩すぎる鼓動にいよいよ足が止まってそう思った時、突然背後から声をかけられた。


「ニネット」


「ひぁぁあっ!」


 突然のことにニネットが悲鳴をあげて振り向くと、後ろには申し訳なさそうな顔をした青年が立っていた。


「……ごめん、びっくりさせて。そんなに驚くとは思わなくて」


 そう謝罪した青い目の青年は目標その人、この国の第四王子でありニネットの婚約者でもあるエドワードだった。

 心の準備が出来ないままの不意打ちでの遭遇に、ニネットの心臓は驚きと動揺も加わってさらに煩く打ち鳴らされている。


「ご、ごめんなさい、エドワード様。私の方こそ……気づかずに、叫んだりして……」


「いや、悪かった。つい虫を追う時の癖で足音を消してしまった」


 いけない、いけない、と明るく笑い声をあげて、ニネットの心内を知らないエドワードは微笑んだ。

 その微笑みを見上げて、ニネットは決意が脆くも崩れ去る音を聞く。

 やはり今日も婚約解消は言い出せそうにない。



 ニネットは外務卿を務めた祖父を持ち、父も高官として王宮に勤める侯爵家の娘だ。

 そのため幼い頃から王宮に出入りしていて、四つ年下のエドワードとは婚約前からよく知った仲だった。


 だから今や十九歳となって見た目が随分変化した彼の、そこだけは幼い頃と変わらぬパッと陽が差したような明るい笑顔につい昔を懐かしみ、思ってしまうのだ。

 まだもう少し、こんな風に変わらず笑いかけてもらえる関係のままでいたいと。


「ところで、今日は会う約束がなかったと思ったけど、どうして居室階に……誰かに何か用事でも?」


 今日も言い出せない不甲斐なさにニネットが枯葉を思わせるオリーブ色のスカートを握りしめていると、エドワードが訝しむような眼差しを向けそう尋ねてきた。


「あ、いえ、その……用事は……特に……あ、あの……」


 婚約解消を申し入れに来たなどとはこの場で言えようはずがない、いや、逆に言ってしまえば良いのか? 

 しかしそんな気持ちはもう……とニネットがしどろもどろになっていると、その様子をじっと見下ろして来ていたエドワードがまた笑う。


「特にないなら、お茶にでも付き合ってくれないか? 次の報告会まで少し時間があるんだ。ダメかな?」


「ダ、ダメだなんて、そんな……」


「なら決まりだ、行こう。雨もあがったことだし、中庭でどうだろう」 


 そう言ってエドワードはニネットの隣に並ぶと、背中へ手を回して廊下の先へと促した。


 背に触れたその手の大きさに、ニネットの心臓が先程とは違う音を立てる。


 元々は歳の差もありニネットの方が背が高かった。

 それが追い抜かれたと思ったらいつからかぐんと離れて、薄くて細かった身体もいつの間にか鍛えられたそれに変わった。

 そのあたりから、一緒に遊び回っていた幼い頃には漠然としか抱いていなかった感情が、はっきりとニネットの中に形作られていた。


 ニネットは婚約者エドワードが好きなのだ。

 このままずっと隣にいられたら幸せだと思うくらいに。


 それなのに婚約解消を望むとは矛盾していると、自身でもわかっているが望まずにはいられない。

 

 何故ならニネットは本人の自覚と他者からの評価どおり、一王子の妃にはとても相応しくない非常に地味な令嬢だからだ。


 

「わあ、キラキラしてキレイ。それにすごく大きいです」

「今朝ここを通った時に見つけたんだ」


 中庭までやって来た二人はお茶の支度を待つ間、植え込みの一角に張られた大きな蜘蛛の巣を眺めていた。

 今朝まで雨が降っていた為に、濡れた蜘蛛の巣には無数の水滴が付着している。

 それがまるでガラス玉を連ねた装身具のようにキラキラとしてとても綺麗だ。


「蜘蛛はいませんね」 

「雨を避けて隠れているんじゃないかな。揺らすときっと出てくるよ」  


 そう言いながらエドワードはちょんちょんと蜘蛛の巣を突いてみせる。

 振動でパラパラとガラス玉が糸から落ちて、思わずニネットが手で受けると元の水滴に戻って掌に水溜りができた。


「……出てこないな……出掛けてるのかな?」


 植え込みを覗き込んで蜘蛛を探すエドワードの横顔は、随分と大人になったはずなのに幼い頃と変わらぬ表情をしている。目を輝かせてなんとも楽しそうだ。


 こういう時ばかりは昔のままで、ニネットも今までどおり隣に立っていても許される気がしてくる。


 しかし一度ひとたびエドワードと自身を俯瞰して見ると、到底釣り合わないと思えてしまうのだった。


「エドワード殿下、ご歓談中失礼いたします!」


 ニネットが塞いだ気持ちになりかけた時、蜘蛛探しに夢中になっていたエドワードの下へ書類の束を持った秘書官がやって来た。


「どうした?」

「午後の報告会で使用する資料に研究会からの訂正と追加がありましたので、会議の前に一度お目を通していただきたいのですが」


「……あぁ」

 エドワードはそう返事ともつかない声を出して、チラッとニネットを振り返った。

 ニネットは察して頷く。


「お気になさらず、お茶はまた次回ご一緒させてください」

「……誘っておいてすまないニネット、埋め合わせは次の時に必ず。行ってくる」


 すまなそうにそう言うと、急かす秘書官と共にエドワードは去って行った。

 その遠ざかる背を見送りながらニネットは思う。いつからこんなに釣り合わなくなってしまったのだろうと。


 この国は、順位に関わらず継承権を保持する者の中から王を決定する選挙制をとっている。

 だから継承権を持つ第四王子であるエドワードも将来王になる可能性のある人だ。


 ただ、つい最近まで候補としては下位に見られていた。

 直系ではあるものの年若いことに加え、王に据えるには少々風変わりな少年であったからである。


 今でこそ、勉学に励み武術の面でも日々研鑽しながら社交も明るくこなす万能なエドワードであるが、幼い当時の彼は自分の殻に閉じこもったような病的に大人しい少年だった。


 他者とは挨拶はおろか目も合わさず、日がな一日庭に出て蟻の行列を眺めていたり土を掘り返して虫を探していたり。

 丸一日口を開かないこともざらな、とにかく虫にしか興味がない、そんな子どもだったのだ。


 虫への興味は今も変わらないのだが、当時は王室の重要行事や賓客の前でも始終そんな様子を見せていた為に、臣民の信は得られないだろうと早くから期待されていない王子であった。


 そんな彼と出会ったのはニネットが十歳頃のこと。


 王宮内では次代の立ち位置を見据えて高官達の思惑が交錯していて、ニネットの野心家な父も御多分に漏れず下心を持っていたものか、頻繁にニネットを王宮へと出入りさせていた。


 ところがニネットは人見知りが激しく、挨拶すら誰ともまともに出来ない。そんな中、唯一話せたのがエドワードだった。


 しかし話せたと言っては語弊があるかもしれない。

 当初、彼もニネットも会話らしい会話はせず、ただ一緒に虫探しをしていただけだったから。


 初めて会ったエドワードは例の如く、庭の隅に這いつくばって花の茎を登って行く虫を凝視していた。

 彼が年下だったこともあり勇気を出してニネットは挨拶をしてみたのだが、彼は返事をすることもこちらを振り向くこともなかった。


 そこは日当たりの悪い場所で地面が湿っていて、這いつくばったエドワードの膝も手も長く伸ばされた白金の髪までもドロドロに汚れていたのを憶えている。


 それでもニネットの存在同様汚れを気にする様子もなく、エドワードは青い目を瞬かせもせずじっと虫を追い続けていた。


 完全にニネットの存在を無視して虫に夢中な彼に、流石のニネットも当初は面食らってしまった。


 だが、長い前髪に隠れたエドワードの虫を見つめる青い瞳がキラキラと輝いてとても綺麗で、呆れもどこへやら思わず見惚れてしまったのだ。

 飛び立った虫を追ってエドワードが去って行くまで、そのまま見つめ続けてしまったくらいに。


 以来、王宮に伺った際には虫を探すエドワードを側で見守ることが日課になった。

 人と話すのが苦手な為、人に興味がなさそうなエドワードとは無理に会話をする必要がなく居心地が良かった。


 意外にもエドワードはニネットが側にいることは認識していて、たまに虫を捕まえて見せてくれるのだが、興味はなくとも怖くもないので不快ではない。

 中には光沢の色合いや透き通った翅が美しい虫もいて、夢中なエドワードを無言で眺めるだけの時間も飽きはしなかった。


 ある日見せてもらった虫の綺麗さに名前を尋ねると、エドワードが堰を切ったように虫の蘊蓄を披露しだした。


 それまでの大人しさが嘘に思える饒舌な語り口にびっくりしてしまったが、破顔し瞳の青を輝かせているエドワードにつられてニネットも自然と笑みが溢れる。


 虫の話はまったく入ってこなかったが、大好きなものを語るエドワードは心底楽しそうに笑っていて、その笑顔をずっと見ていたくてニネットは彼の話を聞き続けた。


 それをきっかけにぽつぽつと会話するようになり、虫を捕ってはまた蘊蓄を聞かせてもらう。

 そんな日々が続いて、ニネットが十八歳になった頃のこと。二人の間に婚約の話が持ち上がった。


 その頃にはお互いの距離感が心地よいものになっていて、断る理由もなく二人はそのまま婚約を受け入れた。


 期待されない無口な王子と、他に求婚者が現れるとも思えない地味な令嬢ならお似合いだと揶揄されもしたが、その通りだしニネットとしてはお似合いに見えるのなら嬉しい限りだった。


 世界を隔絶する壁のような前髪で顔が隠されがちだが、エドワードは整った顔立ちをしたとても綺麗な少年だ。

 そのうえ虫一点集中ではあるものの若くして舌を巻く程の知識を蓄えた優秀な王子なのだ。


 その彼の側に、本来なら接点などないかもしれないほど地味な自分がいることを許される。

 その頃にはエドワードへほんのりとした好意を認識していたので、こんなに嬉しいことはなかった。


 このまま変わらず穏やかで居心地の良い関係を続けていける、そう思っていた。


 しかし、そこからエドワードは変わる。


 長かった髪はさっぱりと短くして、無表情ではあるものの目を合わせてきちんと挨拶を返すようになった。

 虫以外頭に入らないと思われていたのに、武術にも励みだしてヒョロヒョロで棒のようだった身体も鍛えだす。


 そして段々愛想も良くなってきて周りの目も変わりだした頃、エドワードはライフワークの虫捕りで大きな発見をした。

 絶滅したと思われた希少種の昆虫を見つけたのだ。


 それをきっかけに生物学の権威の下で本格的に学び始め、今や研究会でも頻繁に論文を発表し、学術誌の編纂にも携わる。


 若くして学術面で功績を収めた、眉目秀麗な将来を期待できる王子。


 これらの結果からエドワードの評価はそう覆り、王位継承権保持者の間でも一目置かれる存在となっていった。


 地味で無口で他者と上手く関われない。

 似た者同士お似合いだと言われたのは遠い過去であったように、最近では地味過ぎるニネットとの婚約は時期尚早だったと囁く声も聞こえてくる。

 エドワードは、気づけばニネットが隣に並ぶには憚られる人となっていた。



 いつの間にこんなに、と再び思って、掌に乗せたままの水滴を見つめたニネットは考え直した。


 いつなどではなく初めからだ。

 彼は風変わりではあったが、類稀な集中力と探究心を持った元より優秀な人であったのだ。

 今や自身の立場にも目覚めて王子たろうとしだしたのだろう。


 対して自分は侯爵家に生まれついたが、取り柄と言えば家柄だけの地味でぼんやりした娘。

 おまけにエドワードよりも四つも年上だ。


 ただそう思いたかっただけで、初めから釣り合ってなどいなかった。


 そう気づいてからは、毎回のように婚約解消を言い出そうと試みている。

 もっと相応しい人がいる、だから身を引かなければ。

 そう思うのに、いざエドワードを前にすると言葉が出てこなくなる。


 まだもう少し、この人の輝く瞳を見ていたい。

 

 ニネットはそんな風に思ってしまう自分にため息を吐いて、掌から先程まで宝石にすら見えていた雫をパタパタと地面へ零した。


 *


「えっ⁈ 一緒に⁈」


 翌々日、一昨日の埋め合わせにとお茶の時間を共に過ごしていたエドワードから、ニネットはパーティーに同行するよう依頼されて思わず大きな声を出してしまった。


「うん。隣国が今年建国から節目の年を迎えるだろう? そのお祝いの席に我が国からは僕が代表として伺うことになったんだ。それで婚約者の君も一緒にと……嫌かな?」


「嫌、なんて……でも……私そんな華やかな席……」 


「大丈夫! 煩わしい挨拶なんかは全部僕が済ますから。ニネットは隣で笑っていてくれればいいんだ」


 ね、と微笑まれてしまっては断れず、翌週、ニネットはエドワードと共に隣国で開かれる建国祭へと出向くこととなった。 


 当日、節目の年の建国祭は国をあげての慶事とあって、街中も宮殿前も華やかに飾られ賑わいを見せていた。

 各国からも貴賓が大勢お祝いに来ているようで、こちらも負けじと華やかに着飾って続々と馬車から下りてきては宮殿へと向かっている。


 最大限着飾ったニネットも馬車から下りると、差し出されたエドワードの腕に手を置いて宮殿内の大広間へと向かう。


 しかし着飾ったと言ってもせいぜいが普段は着けない装身具を着けただけ。

 広間に集まった淑女達は赤や青、黄色にピンクと華やかな色合いなのに対し、ニネットのドレスは今日もオリーブとカーキで纏めた地味色だ。


 お祝いの席だとわかってはいたものの華やかな装いはどうしても似合わないと思えて、選んでしまった地味な色。

 しかし周りの華やかさの中で際立つ自身の不相応さに、やはり無理をすべきだったとニネットは今更ながら後悔する。


 隣にいるエドワードは飾緒の付いた王子然とした白の正装を纏い、堂々とした態度で他国の賓客と挨拶を交わしている。


 その隣に場違いなほど地味な自分が愛想笑いもぎこちなく並んでいるのだから、恥をかかせてはいまいかとニネットが縮こまっていると周囲の談笑する声が耳に届いた。  


「ねえ、ご覧になって。あちらにいらっしゃるのって……」

「あの白金のまっすぐな髪に青い目……かの国の王太子候補エドワード王子?」


 黄色い声のする方へニネットが視線だけを向けると、ほど近い窓辺の一角に数名の令嬢方が固まっていた。

 無論装いは花壇のように華やかだ。


 令嬢方は扇子で口許を隠しながらチラチラとこちらを窺っている。 


「どのご兄弟も美形揃いと聞き及んでおりましたけど、エドワード王子もお噂どおり素敵な方ね。長身でいらっしゃるのにどことなく儚げな少年のようで」


「お若いのにたくさんの論文を発表されて、ご自身の専門分野の研究室まで持っていらっしゃる聡明な方なのよね。王太子に選ばれる可能性も高いとか」


「そう聞いたこともあるけれど……でも……ねぇ?」 


 一人がニネットへ睨めつけるような視線を寄越す。

 すると他の令嬢方もそちらに倣って嫌な視線をまとめて投げつけてきた。


「……あぁ、あれが例の()()の?」 


「お噂どおり……酷く奥ゆかしーい方のようね。俯いて黙ったまま立っていらっしゃるだけだなんて」


「お祝いの席だというのに何かしらね、あの暗い色使いにリボンの一つもないシンプルなドレス。流行りというものにご興味ございませんのねきっと。髪飾りだって針金みたいな地味なバレッタ一つで済ませているんですもの」


「いくら王子殿下が素晴らしいお方でも、いざそうなったら婚約者のあの方が……なられるのよ? 王の威厳も求心力も下がるというものですわ。ありえないと思いませんこと?」


 自分のことだからだろう、会場内はそこここで談笑する声で満たされているはずなのに、彼女達の声は耳によく届く。

 ニネットは聞こえないふりをしながらぎこちない笑顔のまま足下へ視線を落とした。


 しかし尚も、囁かれる言葉一つ一つはニネットの鼓膜を通って胸の奥へと突き刺さる。


「どうしてあんな方が王太子候補の婚約者になれましたの?」


「あらご存じなくて? エドワード王子はとても繊細な方でいらして、幼い頃はそれはそれは人見知りが激しかったそうよ。だから比較的歳も近くて同じく引っ込み思案なあの方くらいとしかまともな交流がなかったそうなの」


「それで、このままお一人で引きこもられるよりはって消去法的にあの方と。家柄はご立派ですものね。当時は殿下がお若くていらっしゃったこともあって、候補者としてはそう注目されておりませんでしたからあんな方との婚約でも問題なかったようよ。似た者同士でお似合いだなんて言われていたこともあったそうだもの」


「そのような理由で? 王子殿下は不服でなかったのかしら」


「そこはあの方、王子様よりも四つも年上だというじゃない? だから年下の王子様を幼気いたいけ盛りだった頃から言いくるめてきたのじゃないかしら。自分を婚約者に迎えなさいって洗脳するみたいに。地味な顔して、案外と計算ずくなのかもしれなくてよ」


「まぁ、本当ならすごいことなさるのね。見かけによらず強欲なのだわ」


「幼い頃のご性格だなんてその先いくらでも変わるでしょうに……判断を誤ったのではなくて? だって現にエドワード様は今こうしてご立派におなりなんだから」


 そうよねぇ、と一同の視線がまたニネットに突き刺さる。

 視線はそのまま身体を突き抜けて、今日までに澱となって胸の奥に溜まった劣等感を抉った。


「見て、あのお並びになっている姿。不釣り合いもいいところじゃない。恥ずかしくないのかしら」


「あら嫌だわ、恥じてらっしゃるのはエドワード王子の方よ」


「あんな方を婚約者として連れ歩かなくてはいけないのですものね、お可哀想……王子様は婚約の解消をお考えにはならないのかしら?」


「殿下はご繊細な方だと聞きますもの。お優しすぎて言い出せませんのよ、きっと」


 自身でもずっと思ってきたことを的確に指摘し続ける終わらない陰口に、ニネットはスカートの襞を握りしめる。


 わかっているのだ全て。

 釣り合わないことも、エドワードが恥じているだろうことも、この婚約は解消すべきなのだということも。


「ご自身が王子殿下の評価を下げていらっしゃるってお気づきじゃないのかしらね」


 わかっているのだ。

 自身が相応しくはないことは。


「わかっていらっしゃったらあんな枯葉みたいなドレスお選びにならないんじゃなくて?」


 それでもどうしても変われそうにない。

 胸を張って彼の隣には並べない。

 わかっているのだ。それならば取るべき行動が何であるのか。


「大人しいふりしているけれどやっぱり業突張ごうつくばりな私欲の人なのよ。これだけ不釣り合いだとわかっていますのに、黙ったままなんですもの。ですって殿下のことを考えていらっしゃれば、ご自身から身を引くってものでしょう?」


 わかっているのだ。

 それが彼を想うのであればすべきことなのだと。


 ねぇ? という窓際の一同による嘆息の混じった囁き声に、それまで俯いていたニネットは耐えかねてバッと勢いよく顔をあげた。

 今まで隣で静かにしていたニネットのその急な身じろぎに、来客者達と長々談笑していたエドワードが不審な顔を向ける。


「……ニネット? どうかした?」

「も……」

「ん?」


「——も——申し訳っ! ありませんでしたっ!」



 ニネットの突然の大声に談笑が止み、会場中の視線がニネットとエドワードに集まる。

 だが構うことなく、ニネットは決意を砕かれないようギュッと目を閉じてエドワードに謝罪し続けた。


「す……すみません、わ、私が、地味なばかりにエドワード様に恥をかかせ続けて……それどころか私なんかが婚約者を名乗って、今までずっとエドワード様のご評判を貶める真似を……」


「ニ、ニネット? 突然、どうし——」

 驚いた様子を見せるエドワードを遮って、ニネットは力いっぱいスカートを握りしめて叫んだ。


「不釣り合いな私がどうすべきかなどわかっていたのに、今日まで行動出来ずに申し訳ありませんでした! 今までかけたご迷惑についても重ねてお詫び申し上げます! 婚約は……婚約はどうぞ破棄なさってください! 今日までお側にいられて光栄でした、さようなら!」


 ニネットは言うべきことだけ言うと、エドワードの顔も見ずに身を翻し会場の出口へ駆けた。

 目を丸くしている賓客の間を抜けて広間を飛び出し、外へ向かってさらに走る。


 ついに婚約解消を願い出た。

 しかしあんなに大勢の前で一方的に不躾に、そのうえ他国に招かれたお祝いの場で。

 なんと失礼な態度だったろう。最後までエドワードに恥をかかせ迷惑をかけてしまった。

 だが、これで間違いなく婚約は解消されるだろう。

 地味で愛想もなく冴えない上に礼儀まで失したのだから、全てニネット側の問題として恙無く事は済む。

 これで良いのだ。


 そう思って馬車へと急ぐ足を緩めたところで、後方から追って来た者に呼び止められた。


「ニネット様! お戻りください!」 


 聞き覚えのある声に思わず振り返ってしまうと、追って来ていたのはエドワードの秘書官の一人だった。


「ニネット様お願い申し上げます! お戻りください! 殿下が、殿下が錯乱してお倒れに!」


「——えぇっ⁈」


 *


 先程の余韻のまま騒ついている大広間の前を身を小さくして通り抜けた先、小部屋が並ぶ廊下を案内についてニネットは歩く。

 エドワードが倒れたと聞いては流石にそのまま帰るわけにいかない。


 しかし急に倒れたとはどういうことか、もしや無礼な物言いに憤慨した結果か。

 だとしたならば配慮が足りなかったばかりになんと申し訳ないことを……とニネットがあの場で衆目の中勢いに任せたことを後悔していると、近くの部屋から喚くような声が聞こえてきた。


「——理だか——もう無理だ——」 


 それがエドワードの声に聞こえて秘書官を窺うと、秘書官はコクンと頷き小部屋の一つの扉を開けた。


「もう無理だから! もう出来ない! 社交なんてこなせないっ! 何もかももう全部頑張れないっ!」


 部屋を開けるなり目と耳に飛び込んできたのは、ベッドに突っ伏して泣き喚くエドワードの姿だった。


 頭を押さえ髪を掻き乱して、クッションをバフバフと叩きながら頻りに無理だと喚いている。


 初めて見るエドワードの我を失ったような姿に、ニネットは呆然としてしまって声もかけられない。

 代わりに秘書官が声をかけようとしたようだったが、また喚き始めたエドワードに遮られた。


「殿下……落ち着いてくだ——」


「無理だよもう! 無理なんだ! ニネットがいないんじゃ頑張れないっ! 頑張る意味もない!」


「殿下、そのニネット様が今——」


「無理だからっ!」


 わぁっ! と大声をあげてエドワードはついに泣き出した。

 側に立つ秘書官に声をかけるよう促されたが、ニネットはますます驚いてしまって言葉が出てこない。


 エドワードのこんなに荒れた姿を目にした驚きももちろんあるが、急に自分の名前が出てきたことにも驚いている。

 先程の行いに憤慨してというわけでもなさそうなのに、一体何に……としばらく泣くエドワードを見ていると、クッションに顔を埋めたエドワードがまた喚きだした。


「どうして? 僕が大嫌いな社交も面倒な公務も剣術も頑張ってきたのは全部ニネットといたかったからだよ⁈ 僕は王にならずとも王子ではあるから当然公務で社交の場に出向くこともある。それにはいずれ妻になる彼女にも付き合ってもらうことになるんだ。でも彼女は人見知りでそういった場所が苦手なのを知っているから、僕が彼女の分も全部こなしてカバー出来るようにと苦手な社交を今のうちから頑張ってきたんじゃないか! それがどうして婚約破棄になる⁈ ニネットがいないんじゃ、もう公務に励む意味も社交の場に出向く意味もない!」


 そう激しく叫ばれた言葉に意表をつかれて、ニネットは口許を押さえた。

 エドワードは今、何と言ったのだろうか。


「馬だって剣だってもう二度と触らない。有事があったって知るものか! 鍛えてたのはニネットに目移りしてほしくなかったからだ! 兄さん達は皆体格に恵まれてて、武芸にも長けてて……王宮には他にも頼もしい騎士がいっぱいいてニネットの周りをウロつくんだ。年上のニネットに、ひょろひょろの年下じゃ頼りないと見限られたくなくて必死で頑張ったのに。なんで急にあんなこと言いだすんだ……それとも元々嫌だったのを我慢してて、敢えてああいう言い方……わからない、もう全部、研究だってどうでもいい!」


 外聞を憚ることもなく、感情のままに喚き続けるエドワードに、ニネットの心も打ち震えだす。


「ニネットがいるから頑張れたんだ……ニネットの為に頑張ったんだ。彼女だけがずっと側にいてくれた。皆僕を値踏みするように見て擦り寄って来たり離れて行ったりする中で、彼女だけが僕を僕として見てくれたんだ。ニネットが虫を好きなわけじゃないのは知ってるよ。それでもニコニコと楽しそうに話を聞いて一緒に虫を探してくれた。虫の話しか出来ない僕にずっと変わらず付き合ってくれたのは彼女だけなんだ」


 エドワードはクッションに顔を埋めたまま、啜り泣いて感情の吐露を続ける。


「朝から夕方まで一緒になってずっと蟻の行列を眺めてくれる人が他にいる? 庭中の木の皮を剥がして回って一緒に怒られてくれる人は? 蜻蛉の翅をモチーフにして子どもが作ったバレッタを、未だに着けてくれるのなんて彼女しかいないだろ?」


 ううっと時折嗚咽を漏らし、涙声でエドワードは絞り出す。


「全部このまま変わらずニネットといたかったから頑張ってきたんだ。背負わせてしまう王子の妻って立場を重荷に思ってほしくなかったから、守れるようになろうとしたんだ。ニネットがいてくれなくちゃ生きていけないのに……傍にいてほしいのに恥ずかしいだなんて思うわけない……なのになんで……婚約破棄——」


「……エドワード様……」


 そこまで黙って聞いていたニネットも震える声でやっとエドワードの名を絞り出した。

 するとクッションに深く埋もれていたエドワードがピタッと動きを止めてゆっくりと顔をあげた。


「……ニ……ニネット……? い、いつから……聞い、て……」


 白金の髪が顔に張り付くほど涙でぐちゃぐちゃなエドワードは、荒れた姿と赤裸々な感情の吐露を聞かれたとみるみる顔を赤くする。

 だがニネットは恥入る様子のエドワードに構わず、溢れそうな涙を堪えて歩み寄った。  


「……私のことをそんな風に思われて……ご迷惑じゃないのですか……ドレス一つとってもこんなにも地味で嘲笑される、あなたに相応しくない私が婚約者で……」


 涙を溜めた瞳で問いかけるニネットに、エドワードは自身の涙を拭いながらベッドに身を起こして向き直る。


「迷惑なんかじゃないよ。君が隣にいてくれないと僕は頑張れないんだ。どんな僕でも認めてくれるニネットがいるから、僕は自信が持てて色んなことに踏み出せるんだから」


 エドワードの言葉を聞いて、堪えかねたニネットがボロボロと涙を零す。

 エドワードは立ち上がり、そんなニネットをそっと抱き寄せた。


「泣かないでニネット」


「ごめんなさい……私ずっとあなたに釣り合わないから不安で……こんなお祝いの場で身勝手なことを……それこそあなたに恥を……」


「僕の方こそ……継承争いに絡んで君が悪く言われているのは薄々知っていた。でも僕はニネットのことが好きなんだし、外野なんて放っておけばいいと思っていたんだ。君も気になんてしていないとばかり……守ってあげられなくてごめん。ちゃんと伝えておかなければいけなかった。君が婚約者になってくれて僕はとても幸せなんだ。僕にはニネットしかいない。君の選ぶ落ち着いた色合いのドレスだって、どれも木の葉に擬態して隠れる蝶のようで可愛くて大好きだ。誰が何を言おうと婚約を破棄するなんてことはない。君を愛してる」


「エドワード様……」


 ぎゅっと抱きしめてくれたエドワードを、ニネットも抱きしめ返す。

 隣に立つのも憚られるほど遠くなったと思った人の気持ちを知って、ニネットの心に蟠っていた劣等感もゆっくりと溶けていった。


 

 それからもニネットは相変わらず地味であり、選ぶ衣装はいつもと同じくすんだ濃緑や茶系の落ち着いた色合いばかり。


 ただお祝いの席や大きな集まりの場には普段よりも明るい色のドレスを選べるようになって、挨拶だって自然な笑顔でこなせるようにもなってきた。

 小さな努力と挑戦を、ナントカ虫のようで良く似合うと、独特な褒め方で認めてくれる人が側にいるから。


 地味だと嘲られることはまだあるけれど、いつの間にか王子妃に相応しくないとは言われなくなった。

 並んで歩くニネットとエドワードの背筋はピンと伸びてとても自信に溢れたものであり、穏やかで落ち着いた似た雰囲気を纏う二人が寄り添う姿がお似合いであるからかもしれない。


 最近ではニネットの奢侈とは対極な控えめな姿も、質素倹約な印象に映って評価も転じてきているようだ。


 けれど誰かに何を陰で囁かれようとも、もうニネットは気にはしないしエドワードに相応しくないと不安になったりもしない。


 依然変わらず瞳をキラキラとさせ虫を追う大好きな人は、変わらず大好きでいてくれるのだから。


おわり

ご令嬢方の悪口シーンが止まらな過ぎてボリューム出ちゃった。


お読みいただきありがとうございました。

また何処かでお目に留めてくださったらうれしいです。


※衍字修正

※一部文言修正

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― 新着の感想 ―
[良い点] 王子…なんて可愛いの。 頑張ってたんだね。 癒やされました。 主人公も前向きになれて、良かった。 ホッコリしました。 [気になる点] 感想への返信で地味なドレスだった理由は理解したのですが…
[一言] 久々に口から砂糖菓子吐きそうな話を読んだんだぜ…
[一言] 主人公が糞だわ 似合わないからって理由で場違いな服装をする馬鹿女じゃねーか 結婚式に喪服を着ていくようなものだろうが すっげーな欠片も魅力が無い糞女だ
2021/10/19 20:35 退会済み
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