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その先に待つものは  作者: 高見沢知宏
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雨が上がる

異形の僧、信覚が化け物退治を通して、もののけと人の在り方を問い続ける物語です。主人公信覚は、物語のはじめは何も話しません。ずっと黙っています。が、決してシャイだからではありません。彼の堅い決意がそうさせたのです。信覚は、化け物を退治した経験はそんなにありません。退治する方法も独特ですし、ほとんど運頼みです。

1.雨が上がる


「このまま、もと来た道を引き返せ」

 老人は異形の僧に向かって言った。異形の僧は黙したまま何も応えなった。


 古い農家の外では雨が降っており雨音が老人と僧の間で流れた。

 

 老人と僧は囲炉裏の前で胡坐をかいていた。囲炉裏の煙が鼻を衝く臭いと共にほんのり薄く漂う。囲炉裏には鍋が吊り下げられ、鍋の蓋の隙間から湯気が小さく昇っていた。

 

 老人は右斜め前で姿勢を正して微動だしない僧をじっと見つめた。

「あんたをワシの家に入れたのは、このことが言いたかったからじゃ。雨の中を歩こうとしたあんたを不憫に思ったからではない」

 

 僧は老人の顔を見なかった。ただ囲炉裏の火を見つめ沈黙している。

「悪いことは言わん。雨が止んだら、すぐにもと来た道を引き返せ」

 

 僧は沈黙を続けた。

 

 僧のことを異形と言ったのは、僧が恐ろしい形相をした烏天狗の面をつけ続けていたからだ。

 

 面に覆われていない後頭部は綺麗に丸められ、端が擦れ切れ土埃に汚れた墨染の衣と首に掛けた長い数珠から旅の僧であろうと辛うじて推察できる。

 

 しかし、ギョロッとした大きな目と顔の半分をしめる嘴が荒々しく彫り上げられた黒い面、墨染の衣をはち切らんばかりの筋骨隆々の体躯は、おおよそ常人の知見を超えていた。

 

 僧が入り口の木戸で持っていた錫杖を置き、大きな笠を脱いで自らの異形を見せた時、常人ならばあまりの恐ろしさに悲鳴を上げたに違いない。

 

 が、老人はその異形を見ても全く動じなかった。今も同様である。


「これまであんたのような者たちを幾度も見てきた。

 法力僧、武士(もののふ)、修験者。

 

 みなあんたのように強そうな者たちで、誰もワシの言葉に耳を傾けなかった。

 そして、みな死んだ……。この安濃の里に住まう主様に喰い殺されての……」


 囲炉裏の火の光が老人の苦悶の表情を照らした。乱れ薄くなった白髪の月代、日に焼けシミと皴だらけの肌、継接ぎだらけの着物、年齢相応に背中を丸める姿に老人の長年の苦労が伺えた。


「どうしても安濃の里に入るのか? 主様を退治するために」

 老人の問いに、僧はわずかに首肯した。


「そうか……。もはや引き留めまい……」

 老人は大きなため息をつくと、小鍋の蓋を開け、中のお湯を柄杓ですくい椀に注いだ。


「もうじき雨が止む……。それまで、この白湯を飲んで休んでおれ」

 老人は椀を僧のひざ元に置いた。

 

 僧はわずかに頭を下げた。つけている面を両手で上にずらして口を出すと、椀を両手で取って中の白湯をゴクリと飲んだ。

 

 すると僧はそのままの姿勢でひと咽して硬直した。そして、握力が無くなり両手から椀が滑り落ちた。椀に残った白湯があたりにぶちまけられる。


「……ッ、……」

 たちどころに僧はその場で声にならない悲鳴を上げながらのたうち回った。

 

 僧が白湯には毒が入っていたのだ。一口でも飲めば死に至る毒が……。


「アッ……、ガッ……」

 抗うことができない苦しみで喉や胸をしきりにかきむしる。どういう訳か烏天狗の面は取れなかった。

 

 が、その動作は唐突に終わった。

 僧は横向きに倒れ全身を小さく痙攣させた。もはや死を待つばかりの身となった。


「ヒヒヒ……、油断しおって……。囲炉裏の煙の臭いで毒の臭いを嗅ぎ分けることもできなかったじゃろう。ヒヒヒ……」

 老人は自分の細工が上手くいったことを喜んだ。


「どうじゃ、力を存分に発揮することなくここで死ぬ気分は……。さぞ、口惜しいであろう」

 僧の痙攣が段々と弱くなっていった。


「あんたが悪いんじゃ。安濃の里に来て主様を退治しようと思ったあんたが……。ワシの招きに応じて家に入り、差し出された椀の白湯を飲んだ、あんたが……。ヒヒヒ……」


 老人は柄杓を掴んで立ち上がる。僧に近づいて、そのまま見下ろして言った。

「主様はワシに約束してくださった。ワシの手で殺すことができた人をワシが食べてもよいとな。人を食うのは久しぶりじゃ。それも霊力を帯びた僧の肉……。ヒヒヒ……」


 老人はしゃがんだ。老人の瞳が常人のものから黒曜石一色に変わった。

「毒がまわった肉でも、しっかり煮込めば十分喰える。生の肉に比べれば味が落ちるがな」


 角こそ生えてはいないが老人は本来の姿になった。人を喰らう鬼と化したのだ。


「ワシは運がいい。主様から選ばれ力を与えられたときから、ワシは自由になった。

 主様に喰われるという恐れから解放され、人の道だけでなく死からも解放されたのじゃ。

 ワシは本当に運がいい……」

 

 悦に入る鬼を尻目に僧は全く動かなくなった。

「おや、話はまだ途中だというのに、もう死んだのか」

 

 鬼は持っていた柄杓で僧の体をつついた。が、何ら反応は返ってこなかった。僧は死んでしまったのだ。

「つまらん。……どれ、死に顔はどのようになったのか拝んでやろう」

 

 鬼は僧がつけていた烏天狗の面を外した。両目を大きく見開いた僧の苦悶に満ちた形相が出てきた。

 

 途端、鬼はそのままの姿勢でひと咽して硬直した。そして、握力が無くなった手から面が滑り落ちた。面は堅い音を立てて板の間に転がった。


「……ッ、……」

 たちどころに鬼はその場で声にならない悲鳴を上げながらのたうち回った。


「アッ……、ガッ……」

 抗うことができない苦しみで喉や胸をしきりにかきむしる。そして、唐突に横向きに倒れた鬼は全身を小さく痙攣させ、やがて全く動かなくなった。


 すぐに、僧が上半身を起こした。


「ブ、ファアー」

 僧は大きく息を吸った。それから何度も何度も大きく息を吸った。


 死んだはずの肉体がみるみる内に生気を取り戻していく。

 やがて僧は完全に元の体を取り戻した。


 面で隠れていた端正な顔立ちはたちまち怒りで歪んだ。太く濃い眉は吊り上がり、怒りに燃える大きな瞳は、どこか毘沙門天を彷彿させた。


 僧は傍で横たわる鬼の死体を見た。


「油断したのはお前だ。馬鹿め」

 そう吐き捨てると、僧は立ち上がり乱れた墨染の衣を正した。そして、板の間に転がった烏天狗の面を拾い上げると懐にしまった。


 僧が笠と錫杖を手にして古い家を出ると、雨はすっかり止んでいた。

 家から少し離れたところで僧は歩みを止め、家の木戸へと向きを変えた。


 家の木戸は開け放たれたままだ。そこから鬼の死体が横たわる闇が見えた。

 僧はその場で笠を落とし錫杖を突き立てると、両手で印を組んで呪文を唱えた。


 常人には分からない発音で呪文を唱えるその姿は僧というより修験者であった。

 僧は呪文を唱え終えると、懐から二つの独鈷(とっこ)(しょ)を取り出し左手に持ち替えた。


 右手の人差し指中指を伸ばし、何もない目の前の宙を一回一回切るように動かしながら、

「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」

 と、唱えて格子状の九字を切る作法を行った。


 そして、その指先を独鈷杵に向け、

「ムンッ」

 と、念を送った。


 念を送られた独鈷杵は一瞬だけ光輝いたが、もとの鈍い金属の輝きに戻った。

 その様子を見届けた僧は、懐からあの烏天狗の面を取り出し再び顔につけた。


 すると、開け放たれた家の入り口から死んだはずの鬼が物凄い勢いで飛び出して来た。

「ワシに何をしたー」


 額に角を生やした禍々しい形相の鬼が真っすぐ僧へと猪突する。

「うおおー」


 雄叫びを上げながら鬼が右腕を振り上げ、鋭い爪で僧の体を切り裂こうとした瞬間、鬼の胸と右目にそれぞれ独鈷(とっこ)(しょ)が突き刺さった。


 僧が鬼の攻撃を受ける刹那に放ったそれらは、鬼の動きを止めそのまま鬼を滅するに充分な力を発揮した。


 蝋燭の火で真ん中を燃やされた半紙のように、鬼は二つの独鈷(とっこ)(しょ)を中心に黒くなりもろく崩れる症状が体全体に瞬時に広がった。

 

 鬼は灰燼に帰した。


 断末魔を上げる間さえなかった。出た灰も瞬きをする間に無くなった。それまで宙にあった二つの独鈷(とっこ)(しょ)も地面に落ちた。


「何が主様だ。物の怪に『様』を付けるな。呼び捨てで十分だ」

 僧は鬼が先ほどまでいた空間を睨みつけた。


「じいさん……、あんた、物の怪に喰われれば良かったんだ。そうすれば、天寿を全うできなくとも外道に堕ちることはなかっただろうに……」


 そう言っても仕方がないことは僧にも十分理解できる。


 老人が主様と呼んだ物の怪に追い詰められた境遇を、僧には容易に想像できるからだ。


 ある日突然、人知を超えた力に襲われ、抗うすべも救いもない恐怖が心身をを蝕んでゆけば、老人でなくても誰もが命を理不尽に絶たれるよりも鬼となって物の怪に使役されることを選ぶことだろう。

 

 僧はそんな老人を哀れに思った。だから、僧は老人を弔うことにした。とは言っても先を急ぐ身であるため、短く念仏を唱えることだけに留めた。


 念仏を唱え終えると僧は笠を拾い上げ頭に被った。地面に突き刺さった錫杖も抜き取る。そして、僧は安濃と呼ばれるの里の中へと歩みを再開した。

 

僧の名は、信覚(しんかく)と言った。

 

 安濃の主と呼ばれ、多くの人間を喰い殺した物の怪を退治する。この世からあの物の怪の痕跡を一つ残らずかき消す。鬼と化した老人に手を掛けたのもその為だ。

 

 信覚はただその為だけに生きてきた。

 

 安濃の主を退治できるならどんなことをもする。死んでもいい。

 信覚の意志は固かった。


第一話を書き終えて分かったことは、信覚は自分を傷つけないと生きられない男だということです。物語が進むにつれて主人公の信覚がどのように成長するのか、書いている私にもわかりません。信覚をぜひ応援してください。

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