お嬢さん-1
そろそろ季節の変わり目かしら。
カーテンの隙間から僅かに見える狭い空を見上げる。
空はいつもと変わらない。
空色だけで季節を感じるほどの感性は持ち合わせていないから、ここでは日めくりカレンダーとラジオだけが味気のない季節感を教えてくれる。
桜、見たかったなぁ。
テレビはお金がかかるから付けない。
最近、面白いと思う感情が湧いてこないのも一因だとも思う。
深く息を吸った。
換気されているとはいえ、外の空気が入るわけでもない部屋の臭いは気持ちのいいものでは無い。
消毒用アルコールの仄かな刺激臭、清潔感を装う薬品の臭い。
肺から吐き出される息からは、さらに複数の薬品の臭いがこびりついて鼻孔を抜けた。
ここ半年でこの臭いにもだいぶ慣れたけど、やっぱり臭わないに越したことはない。
カーテンで仕切られた病室と、自分から延びる何本もの線と管を眺めながら、私は声に出さず口の中で嘆息する。
————私の余命はあとどのくらいかしらね。
この病室に閉じこもって早半年と少し。
病が命にゆっくりと手をかける様を実感しながら、私は今日も目を閉じ、浅い眠りの中に意識を流す。
☆
そういう体質だと諦めている。
私は身体が弱かった。
小さいころからしょっちゅう通院を繰り返し、五度も病院を変えた。
おかげで小も中も学校の出席日数は常にギリギリ。
それでも何とか進学はして来たが、今年度、ついに高校の出席日数が足りず、私は留年する流れとなった。
あと三日、持ってくれれば皆と卒業出来たのに、よりにもよって、この身体は難病に分類される病を発症してくれた。
病名は長くて覚えてない。
担当医の方と父が沈痛な面持ちで入院を決めてたところを見ると、復学できるかも怪しい。
運が無い。
運が無い、と言えば。
父曰く、母も相当病弱だったらしい。結婚式を病院でやらざる得ないくらいにはよく体調を崩していたそうだ。
運の悪いことに母の体質に似てしまった、と父は嘆いていた。
そんな母は、私という小さな命と引き換えにこの世の去った。
だから写真の中でしか会ったことが無い。
写真の中で皺だらけの小さな私を抱える母はいつも穏やかに笑っていた。
母娘揃って運には見放される巡り合わせらしい。
本当に、父には迷惑ばかりかける。
「麻衣」
覇気のない声で名前を呼ばれた。
浅いところで揺蕩っていた意識を起す。
「あれ? お父さん? 仕事は?」
「寝ぼけているのかい。もう夕方だよ」
「もうそんな時間なのね」
いつの間にか、狭い空は朱を通り越して黒に染まり始めていた。
「暇すぎて時間の感覚が狂っちゃうね」
「何か、本でも持ってくるかい」
静かに首を振った。
「いらない。目が霞んじゃって文字が読めないの」
「先生には言った?」
「副作用だってさ。そんなに酷くは無いけど、集中できない」
「そうか。テレビ、も見てないのか」
「目がチカチカする。眠くなくても目を瞑ってた方が楽」
「寝すぎると退院した時に辛いぞ」
「その時は頑張るよ」
退院出来たらね。
口の中で呟いた。
「ねぇ、お父さん。桜、もう散っちゃった?」
「……学校のは、もうほとんど葉っぱだったよ。でも山の方は、まだ残ってるはずだよ。見たかったかい?」
「ちょっとだけね」
「退院したら見に行こう」
「来年じゃん」
「来年でも再来年でも、さ」
「鬼が笑うよ」
「この際だから大爆笑してもらおうか。そういえば、学校の友達から預かって来たぞ」
父はそう言って、大きな紙袋からカラフルな飾りを取り出した。
よく見なくても、その大きさはよく知っている。
「また千羽鶴? 皆好きね」
「こら。心配してくれているんだろう」
そう言って、父はベッドの金具に紐を結んで、その大きな願掛けを飾り付けた。
「皆、何かしていないと落ち着かないんだよ。効果があるかもしれない方法で、自分にもできることがあるならやりたがるだろ?」
「お父さんは信じてるの?」
「僕が信じてるのは現代医療と麻衣だけさ」
「歪曲に信じてないって言うところ、私は好きよ」
こんな父だから変な宗教に嵌る心配が無くて助かる。
退院したら同居人が新興宗教に嵌っててお財布事情が凄まじい惨状だった、なんて話を看護師さんの噂で耳にすることがあった。
その後はもっと大変だという。退院できたのは宗教のお陰、とどんどんその宗教に傾倒していき、しまいには身内を巻き込んで破産したそうだ。
最初聞いたときはドラマか何かの話だと思ったが、割とあるらしい。
思い出して身震いする私に、父はそういえば、と前置きして言う。
「明日、お見舞いしに行くって言ってたよ」
「そうなの?」
「千羽鶴を受け取った時にね、十五時に行くってさ」
「そっか、わかった」
「ちゃんと起きてるんだぞ」
「善処します」
また来る。と言って父は帰って行った。
忙しいのだろうか、目の下に隈を作っているように見えた。
各所から補助金を貰っているとはいえ、どうしたって負担はゼロではない。
私が寝ている間にもお金は湯水のように流れて行ってしまうのだから、父がまともな生活を送っているか少しだけ心配だ。
身体、壊さないといいけど。
そう思いながらも、夕食の配膳まで少々時間があることを確認した私はまた目を閉じ、浅い眠りに入った。
☆
「麻衣、麻衣」
「はいはい。起きてるよ」
「嘘吐け、今起きたでしょ」
翌日、昼食後からラジオをイヤホン越しに垂れ流しながらうたた寝をしていると、病室に似つかわしくない明るい声で起こされた。
父の伝言通り、午後三時ピッタリにその友人は病室を訪ねてきた。
「他の人も居るんだから静かに」
「あ、ごめん」
仕切りになっている薄いカーテンを勢いよく開け放つ彼女に人差し指を立てつつ注意する。
四人部屋だから大きな声は厳禁だ。
彼女はカーテンを戻して、ベッド脇の椅子に座り込んだ。
「調子はどう?」
「ぼちぼちよ。薬のせいでちょっとぼんやりしてるかも」
「何聴いてたの?」
「ラジオ。意外と面白いから暇つぶしにはいいよ。そっちは? 大学行ったんでしょ。みんな元気してる?」
「ぼちぼちねー。一年だから必修多いし、建物は迷路みたいだし、バイトもやって寝不足だし」
「そっか」
「でもそれなりに楽しいよ」
「身体壊さない程度にしなよ」
「うへ。あんたが言うと重みが違うわ」
「そうでしょうとも。といっても、健康を心掛けたのにこの有様では説得力の欠片もないけどね。頑丈な体に生まれたなら大事にしなさいな」
「おばあちゃんみたい」
「やかましいわ」
いや自分でもそう思うけどさ。
これでもあなたと同い年だよ。
そりゃ臭いはなんか、薬臭いし年寄りかも知れないけどさ。
言いながら、彼女は小さな冷蔵庫を開けて中に何かを詰め込んでいる。
「ちょっと。やめてよ」
「水とスポドリだけだよ。入院中でも飲めるでしょ」
「飲めるけど。そうじゃなくて。それじゃほんとに私がお婆ちゃんみたいじゃん。あんたは孫か」
「せめて娘にしてよ。あ、あとこれあげる」
サイドテーブルに何か重いものが乗っかる。
円筒形の缶詰みたいな物。
「何これ?」
触ればかなりの重量物だということがわかる。
円筒の蓋部分には"一"の形をした穴開いていて。
その中に隙間なく敷き詰められた硬貨が見えた。
「ちょっとこれ!」
「あげる」
「受け取れない!」
再度言われた譲渡を打ち消し、その貯金箱を突き返した。
「麻衣、麻衣、静かにしないと」
「だってこれ……」
「だからあげるって」
「ダメ。これはダメだよ。それも結構な大金でしょこれ」
「必要でしょ」
「それはあなたもでしょ。大学の授業料だって高いし、先輩の付き合いでだってお金は使うでしょ。それに将来のことだって、」
「麻衣、麻衣、落ち着いて」
「冗談だって言って持って帰ってくれるなら笑い話で済ませてあげる」
「それは無理。怒られるから」
「なんでよ」
「あたしだけのお金じゃないから」
それと同じ。と、彼女はベッド脇に吊るされた千羽鶴を指差す。
カラフルな折り紙で折られた折り鶴は、一羽一羽形が異なり、一人の手で折られたものでないことは一目でわかった。
「皆、心配してるの。あたしの出したのなんてほんの一部だけだよ」
「だからってこんな」
両手で持っていても筋トレになりそうなくらい重い。これだけ集められた硬貨がどれほどの価値になるか想像もつかない。
「あたしたちだってお金はすっごく大事だけどさ、別に多少無くなってもそこそこ生きていけるんだよ。でも麻衣はさ、無くなっちゃったら手術受けられなくて死んじゃうかもしれないんでしょ」
「私、そんなこと一言も言ってない」
確かに難病だって話は聞いている。
けれどすぐにどうこうなってしまうようなことは聞いていない。
現に、今私が入院しているのは個室ですらない一般病棟だ。
危篤だというのなら、集中治療室なりに入れられているはず。
「麻衣のお父さん。ご近所で結構噂になってるよ」
「お父さんが?」
「金の亡者になったみたいって。家財道具とかほとんど売り払って、休みも返上して仕事行ってるって。あたしも昨日会ったけど、すっごい顔色悪かったよ」
「…………」
確かに隈が出来てたし、顔色も悪かった。
しかしそこまで困窮していたとは思いもしなかった。
のうのうと入院生活していた自分が恨めしい。
父は大丈夫だろうか。今も働いているのだろうか。ちゃんと食べて、ちゃんと寝ているのだろうか。
「麻衣のお父さんまで倒れたらさ、麻衣が回復しても素直に喜べないじゃん。それにさ、あたしらも落ち着かないんだよ。麻衣一人を病院に残して卒業しちゃってさ」
その優しさは素直にうれしいと思う。短い時間だったけど友人たちに恵まれた高校生活だった。
「気持ちだけで充分だよ」
「千羽鶴、あと千本作っちゃうぞ」
「……もう要らないかな」
病室を埋めるつもりか。
知らなかったとはいえ、彼女たちがこんなことをした理由は何となくわかった。
そりゃ、友人の親がそれだけ目立てば心配するな、というのも無理な話だ。父にはよく言っておかねばならない。
苦い顔をして沈黙する私に、友人は笑って言う。
「あたしたちはもう、お祈りするだけの子供じゃないの。もっと直接的に手を伸ばして麻衣を手伝える。偽善だとか施しだとか思ってもいいからさ。それだけは貰っておいてよ」
「……わかった。これはお父さんと相談して使い道を決める。でもこれっきりにして。友達に返せない借りを持ちたくないの」
「うん。わかった。私たちからはもう送らない。でも借りなんて思わないで。あたしたちは出来ることをやりたいだけだから」
帰っていく彼女を病室から見送ってから、その重量物を金庫に仕舞った。
もう、手にも持っていないのに、やたらと重い感触が残っていて、私の意識は金庫の中に重苦しい鎖に繋がれたような息苦しさが浅い眠りを妨げた。