死売人-6
猛烈な頭痛が私を襲いました。
その痛みは、首に縄を掛け脚立から身を乗り出した私を固定します。
これ以上前に傾けない程の痛み。
頭痛、と表現しましたが正確ではありません。
具体的には髪を引っ張られるような頭皮の痛みです。
文字通り、後ろ髪を引かれているような。
『————————』
もちろん、私の後ろには誰も居ません。
脚立の天板に二人も乗っていれば流石に気づきます。
ですからこれは幻覚であり幻痛であり幻聴です。
「まだ、邪魔をするのですか?」
あと一歩で死ぬのに。
あなたはもう死んだのに。
養父の幻覚は私の髪を掴んだまま放そうともしません。
私が今まで死ねなかった原因である養父の幻覚。
死んだくせにまだ出てくるなんて、どうしたものですかね。
しかし今回でわかりました。
あの人が死んでもこの幻覚が現れるということは、この先どのような死に方を選ぼうとも必ず出現します。
それに所詮は幻覚です。
根性論ではありませんが、要は精神の問題です。
物理的な力を持たないのですから、力ずくで前に進めばいい。
そう割り切って体に力を籠めると、頭皮の痛みはより一層激しさを増します。今にも後ろの髪が皮膚を巻き込んで全て抜けてしまいそうです。
死売人にはこの光景がどう見えているのでしょう。
養父の幻覚は見えないはずですので、私が脚立の上で止まったり力んだりしているのでしょうか。
せっかく見届けてくれるのに、そんな滑稽な死に様は嫌です。
もう一度、全力で足を踏み込んで前に歩きます。
確実に死が近づいてくる。
心臓が高鳴っているのに、誰かに強く握られて抑えられているような感覚。
徐々に食い込んでくる縄の感触。
脳裏には侮蔑と嫌悪の言葉と視線が過ります。
これが走馬灯という物でしょうか。
流れてくる映像の中にあまり楽しいと思える記憶がないのが少し残念なような、後悔を覚えずむしろ良かったような。
迫り来る死が目前に。
記憶の濁流が最後の一幕を見せてきます。
いつぞやの、若かりし養父です。
その当時でも相当お年を召しています。
「雪華。どうか——————」
その言葉はいつも聞き取れないいつかの記憶。
不思議な事に幾度も繰り返して流れてくるその記憶に、私の背後で後ろ髪を引く幻聴の声が重なって。
聞こえた。というよりかは。思い出した。瞬間。
私の身体を激しい衝撃が襲いました。
色んな物が破壊される音が数秒の内に鼓膜を襲い。
静かになったと思ったら、今度は体中を鈍痛が襲ってきます。
無意識に閉じていた目を開けてみれば、天井からぶら下がった縄の輪が随分と高いところにありました。
まだ、私は死んでいないようです。
特に痛む足腰に鞭打ち、立ち上がると欠けた脚立の天板が見えてきます。
丁度、足を乗せていたところが抜け落ちています。
変な所で足を踏み外したせいで、首から縄が外れてしまったのでしょう。
「あぁ。びっくりした。大丈夫かい?」
一連の、脚立から足を滑らせて落ちた姿を見ていた死売人が心にもない事を言ってきます。
「御覧の通りです。拾い物を使った私の落ち度ですね。お恥ずかしい限りです」
「僕は構わないけどね。それで?」
死なないのかい?
脚立の天板は一部が抜け落ちただけです。
あと一度、自殺に使うくらいならば形さえ保っていれば十分。
日を改める程、致命的に自殺出来ない状態ではありません。
「そうですね……」
ゆらゆらと左右に振れる輪っかを眺め、しばらく考え込んでみます。
いいえ、考え込む振りをします。
「ねぇ。死売人」
既に私の中に結論は出ていました。
「なんだい」
「私はこの社会、この国、この世界においても無価値な人間です」
現実は厳しく、事実は変わりません。
「私はゴミです、塵です、芥です。意義も意味も意志もありません」
私はこの上ない無価値でしょう。
どこで苦しもうと。
どこで痛がろうと。
どこで死のうと誰の目にも留まらない人間でしょう。
「こんな私の人生はおよそ無為に終わるでしょうけれど」
この人生が無価値であったとしても。
「私の始まりは『生きてほしい』という願いでした」
養父が何度も囁き、私が幾度も聞こえない振りをした言葉は、私の生存を願う、そんな誰も幸せにならない願いでした。
「つまり、貴女はこう言いたいわけだ。『やっぱり死にたくない』と」
首肯し、死売人と正面から向き合います。
「この人生に価値がないのなら、いいえ。価値がないからこそ、始まりこそを大切にしたい。大変身勝手な事を申しますが、私はまだ」
死を目前に、直視して宣言する。
「生きていたい」
互いに見つめ合い、張り詰めたような静寂。
それを先に破いたのは彼でした。
「貴女は本当にそれでいいのかい?」
「はい。ですから、身勝手な事と承知の上で申し上げます。死を買うと言ったことは撤回させてください」
駄目だと言うのならば、力ずくで逃げ出すまでですけれど。
彼は小さく頷いたあとに言います。
「撤回するのは構わない。その決定権は僕に無い。ただ、一つだけ欲しいモノがあるんだ」
「貴方を振り回したのは私です。差し上げられる物でしたら可能な限り融通しましょう」
「貴女がさっき、得ようとしていたモノだよ」
ゆらゆらと、音もたてずに揺れる縄を指し、彼は言います。
「貴女の死を僕にくれないかい」
死売人と向き合って、問います。
「死にたいのですか?」
「死にたいとも。それが、僕にとって唯一の死ねる手段なのだから」
「意味が分かりません」
「だろうね。けれどいずれそう願う日が来る。貴女はこれから死ぬことが出来なくなるのだから」
「私はいずれ死にますよ。死なない人間が居るはずないじゃないですか」
「いいや。いる。現に貴女は今からそうなる。死売人という都市伝説は、死を剥奪された不死者が無限に続いてしまう生を、誰かに擦り付けて死を掠め取るための自殺行為だから」
まるで現実味の無い事を朗々と語る彼は私を避け、脚立に足をかけ、今にも崩れそうな危うい音を立てて登っていきます。
「僕は学校の屋上で死のうとして、その場のちょっとした気の迷いで当時の死売人に死を持っていかれてしまった」
「その話の真偽は別として。貴方は生きていることに後悔しているのですか」
「いいや。絶望している。不死者っていうのはさ。要は死なないだけなんだ。怪我もするし風邪もひくし、何より歳を取る。ある神話で不死だけを授かった人間は次第に老い枯れ果て、しまいにはセミになってしまったように、不死者も同じ道をたどる。その結末を出来るだけ先延ばしにする方法も、死売人が言う生を買うという行為だ。これから貴女に背負わせると思うと心苦しいと思うと同時に、僕は僕の人生を終われると安心もしている」
「つまり、貴方は私に死売人になれと言うのですか?」
彼は天板に立ち、何度も行った仕草のように淀みなく縄を首に通します。
「必ずしもなる必要はない。老いも腐敗も肉体の喪失すらも恐れないと言うのなら不死者のまま生き続けると良い」
「では、私は生き続けてみるとしましょう。この世の終わりまで、死ぬことなく生きてみます。生きれるのなら、ですけれど」
「そっか。それはいい事だ。父君の願いを叶え続けられるといいね」
養父の願い。
それは確かに、私が生きたいと思った切っ掛けではあります。
「ごめんなさい。それは半分嘘です」
それだけが自死をやめた理由ではありません。
「本当は怖いから止めました。これから死ぬという直前にどうしようもなく恐ろしくなりました。もう一度、躊躇なく踏み出せる自信がなくなりました」
私の全てが無くなっていく感覚も、後悔に似た後ろめたさも、迫り来る終わりの気配も、これから消えていく自分も、それでも続いていく世の中も。
すべてが恐ろしいと感じた。
あの触れた死に、永遠に自分が浸り続けることになる事が何よりも怖かった。
「うん。それが貴女の生きる理由でもいいと思うよ。むしろそういう、普通で純粋な理由の方が、躊躇いなく生きていける。初めて貴女に会った時も思ったけれど、貴女はちょっとした面倒事を持った普通に生きる人だよ」
「それは侮辱ですか?」
「ただの評価だよ」
口元だけに笑みを浮かべ、首にかけた縄を何度も指でなぞりながら、彼は私に問いました。
「ねぇ、貴女は死が救済になり得ると思うかい?」
「いいえ。生き続けることを救済だとはとても言えませんけれど、少なくとも自死は救済たり得ない」
死ぬ直前の私はそう、結論付けた。
きっぱりと、昨日までの私とは正反対の意見を告げると、彼はどこか諦観じみた笑みを浮かべました。
「そこまで言えるのは、いっそ少しだけ羨ましい。でもさ、世の中には貴女のように割り切れる人間だけじゃないんだ。人間に失望し、人生に絶望した、死を切望する誰かが自らの命を絶つという、後戻りも希望も後悔すらも出来ない選択を幸いとするならば。死は救いであるべきだ」
言いながら、彼は軽く、ごくごく自然に、一段飛ばしで階段を下りるような気軽さで足を投げ出しました。
「そうでないと、そうやって死んでいった人たちが、僕たちは、永遠に報われないじゃないか」
そう言って、何処か満足気な笑みで首を吊る元死売人。
飛び降りたと同時に脚立が、まるで彼の意図を汲み取ったように限界を迎え、大破しました。
錆鉄の散らかった廃墟のような部屋で、ぶら下がった死体に、聞こえるでもないのに呟きました。
「いいえ。私は、こんな寂しげな最期を『救済』などとは、口が裂けても言えません。貴方だって、始まりは」
生きてほしいと願われて生まれてきたはずでしょう。
次回エピローグで〆です。




