鬼と失恋と幻聴
「プハーー!らによ!らによ!神崎さんのバカ!大馬鹿!わらしの初恋をかえせー!!」
オンボロアパートの一室でビール片手にろれつも回らなくなるほど酔っ払い、大号泣している私、遠野 月子は今日でめでたく30歳になる花の独身女子である。
何の記念か、先程5年間思い続けた彼にあっけなく振られ最悪の誕生日を迎えるにいたった。
しかも、しかもだ彼には私と同じ部署で働く23歳の彼女がいたのだ。
その子はとても可愛くて、性格もいい、背が低く、男子からの人気はナンバーワン。
私とは正反対だ。私は女子社員の中でもお局と呼ばれる立場になってしまっていたし、後輩たちが私の事を鬼のようだと噂しているのを知ってる。
「らによ、神崎さんも・・・そうだよね、わらしなんて・・・ぅわーーん」
初めてだった。この年で人を好きになるのが初めてなんて笑われるだろうけど、何でもそつなくこなす大人の彼がとても素敵だと憧れていた。
明日から、この心にぽっかりと空いてしまった穴をどう埋めていけばいいというのだろう。
テーブルに突っ伏して寝落ち寸前の時に思った。「いいわ・・・ヒック・・こうなったら鬼にでもなんでも・・ヒック・・なってやろうじゃない・・」
その時、どこかで男の人の声がしたような気がした。「魔王にもですか?」
半分夢心地の私は何となしにその声に答えてしまった。
「いいわよ・・・ヒック・・・上等よ、なって・・・やろうじゃ・・ない・・」
私の平凡で味気のなかった人生がこの一言で一変してしまう事も知らずに。
激しい喉の渇きで目が覚めた時には時計がもう7時を回っていた。
窓からは眩しい陽の光がはいってくる。「頭が・・・痛い・・・」
テーブルにはビールの缶が転がっていて、どうやらそのまま眠ってしまったみたい。
「お水・・・」よろよろと立ち上がりキッチンに向かった。
冷蔵庫を開けて中のミネラルウォーターを取り出すと額にあてた「は~気持ちいい」蓋を開けて冷たい水を飲むと体中に染み渡るようだ。「飲みすぎちゃったな・・・」つぶやくとまた泣いてしまいそうな気持になる。駄目だな、私。
それから急いで熱いシャワーを浴びてスーツに着替えて家を後にした。
「田中さん、申し訳ないけどこの資料今日中に作っておいてください。」
ディスクの鬼とかしている私は今日もいつもと変わらず自分のするべき仕事をするまでだ。
「遠野先輩、今日中には無理かも・・・です」始まった。
「田中さん、今日の今日これをお願いしたんじゃないと思うけど?先週からお願いしているのにいつまでかかるんですか?」涙目になる後輩・・・やれやれだ。
しょうがないから今回だけは私も手伝うと言おうとした時、「遠野さん、田中さんはまだ慣れていないでしょうから私がお手伝いしますね」にっこりと微笑む彼女こそ神野さんの恋人、江藤さんだ。まるで職場の天使ね。
「そうですか、ではお願いしますね」私は無表情にまたパソコンに向かった。
「遠野さんは鬼で江藤さんはまるで天使だよね」
こそこそどこかで後輩たちの声が聞こえる。えー、えー、私は鬼ですよ。
「鬼ではありませんよ、魔王です」
はいはい魔王・・・ま?「え?」聞き覚えのある声がした、が、周りを慌てて見るけど誰もいない。
「どうした?遠野?」部長がキョロキョロしている私に向かい怪訝な表情で訊ねた。
「す、すみません、なんでもありません」昨日飲みすぎたからまだ頭がぼーっとしているせいだわ。鬼の次は魔王なんて、嫌になっちゃう。
仕事に没頭して気が付くとお昼になっていた。
「遠野先輩も一緒にお昼いかがですか?」江藤さんが声をかけてきたけど、後輩たちの来ないで欲しいという視線を受けいつもの通り辞退させて頂いた。
私のランチタイムは雨の日以外いつも屋上で食べることを日課にしている。
狭いオフィスを出て屋上でお弁当を広げ食べ終わってお茶を飲みながら少し読書をするのがとても好きだった。
いつものように階段を上がり、屋上のドアを開けると気持ちのいい風が入ってきた。
今日はお弁当を作っている余裕も気分でもなかったので会社の近くにあるパンやさんのサンドイッチを買ってきた。
小さなパンやさんだけどここのパンは絶品で特に卵サンド、そしてきゅうりとハムのサンドイッチこのシンプルな組み合わせが私は大好き。失恋しても、お腹は空くんだな。
屋上にあるおんぼろなベンチに座り黙々とサンドイッチを食べているとまたあの声がした。
「今よりももっとふさわしい職があなたにはあります」
幻聴が聞こえるとは・・・キョロキョロ周りを見回すがやはり姿が見えない。
今朝から私の耳はおかしい、ストレス性のものかしら。
「はー、今よりいい仕事かぁ、楽しく仕事できるなんてそんな夢みたいな職場なら私だって転職したいわよ」食べ終わったサンドイッチの包みを小さく折りながらつぶやいた。
一つに束ねている私の長い髪を春の風が優しくなでる。
「では、転職いたしましょう」風に乗ってまた幻聴が・・・今度は私の耳元ではっきりと聞こえた。「え?」聞き返すのと同時だった。
急に強い風が吹きつけ思わず目をつぶった、その瞬間、私の姿はベンチから消えていた・・・というかこの世界から消えていた。ベンチにはしおりの挟んであるお気に入りの本と水筒に入った暖かいお茶だけが私がそこにいたのだと言っているようだった。