橘霧はアレの娘?である2
夜には半月が浮かび、閥は青いジャンバーを着ていても肌に感じる寒さに軽く身震いした。
春の夜といえどもまだ寒い、このアンバランスな季節はあんまり好きじゃない。というよりも寒い夜は全体的に嫌いだ。
たった数時間の従業というのに足はレジの立ち仕事で疲労、顔は無理に作った笑顔でこりかけていて、簡単だと思った仕事が意外ときつかった。まあ一番疲れた原因はアレなんだが。
腰を伸ばしコンビニの入り口前の駐輪場に停めたチャリに腰かけようとした時に、同じ時間で退勤して帰ろうとしている橘霧を見た。
高校生は夜勤は無理である、俺に気づかず帰っていく姿を見てふと夜道に一人は危なそうだなと自分の良心が動いた。というより何か危険な目に遭えば消去法的に俺まで被害に遭うのではという小心者根性が勝っていたのかも。
俺は自転車を漕ぎ、店の駐車場外に出た霧を追いかける。
後ろから突然声を掛けたら驚かせてしまうので、一定の離れた距離から声をかける。
「橘……さん」
声をかけようとしたもののどう呼べばいいのか一瞬悩み、今思うと今日のバイトで霧を名前で呼んだことがなかった。そもそも彼女が攻め手でこちらから話を吹っ掛ける事がほぼなかったのもあるが。
下の名前で呼ぶ事も呼び捨てにするのも馴れ馴れしい気がするので一応「さん」をつけることにした。
俺の声に気づき、振り向いた彼女は何か忘れ物でもあるのかなと言いたそうに首を傾げ、
「どうかしたんですか?」と言った。
「いや、単に夜道一人じゃ危ないと思って。送ろうか?」
「大丈夫ですよ、護身用のスタンガンもありますし」
そう言って彼女はスクールバックからスタンガンを取って俺に見せつけた。
本当にプレゼントされたんだなと俺は硬い表情のまま苦笑いした。
「まあ一応ってことで」
そういうと彼女はあごに人差し指を当て考えるように焦点が上向いた、そしてうんと頷いた。
「じゃあ……お願いします」
霧は俺の自転車の荷台に横向きに座り、俺は送っていくとは言ったが二人乗りするとは予想できなかった。自分は自転車を押して彼女の家まで送り届ける気だったのだが、ここまで来たら気合で行くしかない。
閥は覚悟を決め、こけないことを意識しながら漕ぎ始めた。
「で、橘さんの家はどこなんだ?」
意外と彼女は軽かったの神経を張り巡らせる必要がないと悟った俺は軽く後ろを見て聞き出す。
「駅前近くですので、駅で降ろしてください」
結構俺の家から近かった。
閥は眠気で生あくびをしながら自転車を走らせる。夜風がほほを舐めるようにすり抜けていき、霧の髪が風になびく。
寒いのが苦手な閥は早く夏が来ないかと思った。
いや、暑いのもそれはそれで嫌だな。
そんなどうでもいいことを考えていると、暇そうにしていた霧が口を開いた。
「そういえば閥さんってどうしてバイトを始めたんですか?」
「ん……まあ色々あって」
働き口が消えて、バイトしないと実家からも追い出されそうになったから始めましたとかは情けなくて言ってられない。
「色々、ですか」
そんな彼女の言い方には、踏み込む気はないが気にはなる。そんな印象を抱いた。
「橘さんは何でバイトを始めたんだ」
閥は逆に聞き返してみた。
「私ですか? 色々ですね、はい」
そっちも色々、か。それを言った後に霧はちょっと笑いだし、
「冗談ですよ、他にも理由はありますけど一番は看護師になりたいから、その為のお金をためているんです」
とポンポンと背中をたたかれた。彼女は裕福な家に住んでいると思えるが実はそうじゃないんだろうか。そんな考えを打ち消すように彼女は話を続けた。
「あと堅苦しいのが苦手なので霧で良いですよ? 他のバイトの人も霧ちゃんって呼んでくれますし、霧ちゃんって、さんはいっ」
閥は反応に困り、言葉に詰まった。
すると俺の背中に軽くポンと服越しでもわかる柔らかい手が当たった。
「もー照れてるんですか? 大丈夫ですってー、みんな言ってますから」
閥は苦笑いして彼女の名前を呼ぶことにした。馴れ馴れしくないかと心配してたが霧の方が良くも悪くも気にしない口なんだろう、一歩間違えば彼女の方がずかずかと心の中に入ってきそうだ。
「霧……さん」
だが敢えて一歩引いてそう呼ぶことにした。年齢的には彼女が四つほど下だがバイトは彼女の方が先輩だ。だからそう呼ぶ、別にいい大人が恥ずかしがってるわけではない、そう、恥ずかしいからではない。
「やっぱり馴れ馴れしくないかな」
「まあ強制はしませんので、お好きに呼んでください」
「ありがとう」
そんな会話を続けていく内に駅前近くにたどり着き、まだ駅には距離があるというのに彼女はここでいいと住宅街の道路で降りた。
「ここでいいのか」
「はい、本当に近くなので」
霧はそう言ってペコリと頭を下げた。
「今日はお疲れ様でした! 閥さんは長続きすることを祈ってますよ! ファイト!」
霧は俺に応援の言葉を残して手を振りながら歩いて行った。
遠ざかる彼女を見ながら、閥はうん、いい子だ。ある点に目をつぶれば元気いっぱいの高校生だ。と自分に言い聞かせた。
必ず一か月は持ってやる。稀に強面の人が来る程度で恐れる俺じゃない。せめて九頭竜の賭けぐらいは任せてみようか……
弱弱しい決意が閥の中で生まれだしていった。