武術
(五)
土屋は道場に入ると、部員を背に正座した。
正面には小さな神棚と、柔道の創始者、嘉納治五郎の写真が掛けてある。
「神前に、礼!」
稽古が始まった。
昔は大所帯の、ちゃんとした柔道部があったと聞く。だから畳敷きの道場もあ
る。
しかし今の世の中、サッカーやテニスに人は流れ、汗臭くきつい柔道を、しか
も仕事の後にやろうとする者など、いるはずがないと思っていた。
それでも一人二人と少しずつ増え、どうにか二十人ほどになっていた。
土屋の頭の中には、収録されたビデオテープのように加藤の動きが焼き付いて
いた。
(あれはなんだ? 空手、合気道、それとも少林寺拳法か)
どれとも違うような気がした。
「よし、今日は護身術の稽古をやろう!」
皆、以外な顔をする。柔道にも講道館護身術というものがあるが、昇段審査の
為に練習する場合が多く、ほとんどが形稽古で普段やる練習ではない。
けれど、今日はそういう形稽古ではなく、自由に短刀を模した疑似刀で突かせ
て、それを捌いて投げる練習をすることにした。
まずは土屋がやってみる。
相手に疑似刀を持たせて、好きなように突かせた。土屋はそれを得意の一本背
負いで投げようとしたが、相手が逆手に短刀を持っていると、担いだ瞬間に胸や
腹を刺されることが分かった。
色々な技を試してみたが、どうも柔道の技では対刃物には向かない気がした。
(加藤さんに聞いてみるか)
あれ以来、暇をみつけては加藤を訪ねるようになった。
加藤には酒を、ミチには絵本やお菓子を持って。
加藤も初めて会った時のように、土屋を邪険にはしなくなっていた。
ミチはお菓子を受けとると「おじちゃん、ありがとう」と言って嬉しそうに笑
う。土屋はその笑顔がなんとも愛らしく好きだったが、それを見ている加藤の表
情は複雑だった。
土屋は分かっていた。今の状況から、あまり遊離したようなものは駄目なのだ
と。だからあまり贅沢なものは避けるようにしている。
「柔道ってのはな、本当はすごく実戦的なんだ。ただ、今はスポーツになっちま
って、その実戦性が影を潜めている。たとえば、練習したっていう、相手が刃物
を持っている場合だが」
そう言うと焚き火用の木切れを土屋に持たせて立ち上がった。二メートル位の
間合いを取って対峙する。
「さて、最初っから刃物を手に持っている奴はいない、ナイフにしろ匕首にしろ、
どっかに仕舞っているはずだ。そっからやってみろ」
土屋はその棒っ切れを懐にしまうと、抜く振りをした。
すると加藤は、十メートルほど反対方向に走って行く。
「それは何ですか?」訳が分からずに聞く。
「逃げるのさ」
「逃げる?」
「そうだ、相手が武器を持っていたら、とにかく逃げるんだ。命あってのものだね
だからな」
ふざけているのかと思ったが、加藤の目は笑ってはいなかった。
「まずは逃げることが第一だ、なまじっか武道や格闘技を齧った奴にかぎって戦お
うとするが、生兵法は怪我のもとだ。逃げられるなら逃げた方がいい。が、逃げら
れない状態だったらどうするか......突いてこい!」
土屋は、自分が暴漢になったつもりで加藤の隙をうかがう。なんだか演技がかっ
ているなと思いながら。
「ふん!」
突き出した棒の先には加藤の身体はなく、パチンッと音がして首に痛みを感じた
瞬間、天と地がひっくり返り、したたかに地面に叩きつけられた。
「今のが何か分かったか?」
「......たい....体落とし....かな」
身体についた埃を払いながら、土屋はそう答えたものの、まったく違う技のよう
にも思えた。ただ投げられる体勢が似ていると思ったのだ。
「そうだ。流石だ。今は軽く首筋を叩いただけだが、本当は頸動脈に手刀を入れな
がら崩す。頸動脈を叩くと瞬間失神する。投げられている時は失神状態だから受け
身など取れない。当て身を使うのは一秒でも早く制圧するということもあるが、相
手は道着を着ているわけじゃない。Tシャツでも使えなければ意味がないんだ。大
外刈りは、左手で突き手を巻き込みながら掴み、右手で顎に当て身を入れながら右
足で刈る。相手は仰け反った状態で後頭部から真っ逆さまだ」
ひとつひとつ動作を交えながら説明する。
そのどれもが打撃と投げ技の一体となった危険な技だった。
道場での練習で、刃物を逆手で持って攻撃された場合、投げながら刺されてしま
うことを話した。
「相手の懐に入る技はそこが危ない。相手が刃物を持っているときは懐に入らず足
さばきで外に回った方がいい。こう言う風に」
土屋が右手で突くと、一瞬で右側の肩、肘、手首を決められてしまった。
「突いて来た右手をこちらの右手で掴み、九十度捻りながら普通の背負いと逆回転
して左肩に背負う。どうだ、動けるか?」
「動けません」
土屋は苦痛に顔をゆがめて言う。
「このまま右手を下げれば、肩が梃の支点となって相手の肘は脱臼する。脱臼させ
ないまでも相手は抵抗できないので、受け身の取れぬまま頭から落とせる」
関節を砕き、頭から落とす危険な技。たしかに柔道と同じ身体の使い方なのだが、
聞いたことも見たこともない技ばかりだった。
「これは、一体何と言う技なんですか?」
「さあな、技の名前なんていちいち覚えちゃいねえさ。まあ、要するに柔道になる
前の技だ」
「柔道になる前の......」
「柔術から柔道になる過程で、危険な技、逆に言えば、実戦的な技を無くしちまっ
たのさ」
それからというもの、足しげく加藤の元に通い、色々な技を教わる。それらは柔
道に限らず多岐に渡っていた。
どこで習ったのか聞いても「さあな」としか答えなかった。