土屋
(三)
土屋の勤め先は『株式会社シマコン』といい、ブロックやU字溝と呼ばれる排水
路用材、公園の敷石に使うインターロッキングなどのコンクリート二次製品を扱う
会社で、本社は岡山にあった。東京支社の営業部係長というのが土屋の肩書きだ。
学生時代は柔道部キャプテンを勤め、弱体な部を国体予選まで引っ張ったことも
あり、会社でも部を作って再びキャプテンとして汗を流している。
背も高く、横幅もあり、上野の西郷隆盛を少しスマートにしたような顔と体格を
していた。
仕事は嫌いではなかったが、毎月のノルマと成績がグラフとなって職場に張り出
されるのには我慢ならなかった。
(人間の価値をこんなもので計られてたまるか)という思いもあったが、社会と
いうのはこういうものだという諦めも、勤めて六年も経つと自然に受け入れている
自分を感じていた。
数日が過ぎ、あの公園に行ってみた。ホームレスとミチがどうしているのか気に
なったからだ。
焼け跡はきれいに片付けられ、新しい小屋もテントもそこには無かった。
近くのテントを訊ねてみる。
「ああ、加藤さんかい、どこに行ったのか分からないんだよ、ただ、みんなにとば
っちりを掛けると悪いから引っ越すって、それっきり」
その男に加藤の事を色々聞いてみたが、あまり深いことは知らないようだった。
三年程前に、ふらりとここに来て居着いた。
その時から、小さな子供を抱いていた。
どんな仕事をしていたのか、どこから来たのかも分からない。
ただ、ホームレス仲間にはとても優しかったと。
その日から土屋の加藤探しが始まった。
昼休みや退社後、あちこちをブラブラと歩き、ホームレスを見かけると、加藤と
いう小さな女の子を連れた男を見たことはないか、と聞いてまわった。
加藤はホームレス仲間の内では有名で、この界隈の者で知らない者はいなかっ
た。
子供を連れているということと「ありゃあ、こんなとこまで落ちる男じゃねえよ、
何か訳があるに違いない」という意味で、不思議な男だと名が通っているのだ。
しかし、今現在、何処に居るかを知っている者はいなかった。
(せっかく知り合うことが出来たのに)
土屋は失踪した恋人を想うように、焦燥とした気持ちのなかにいた。
一週間が経った。探し続けてはいたが、行方はとんと分からずじまいで、途方に
くれ、川沿いの草まじりの芝生の上を歩いていた。
(見つけてどうしようというのだ、見つかったからと言って、俺の人生が変ると
でもいうのか)
自問しながら、とぼとぼ歩く。
(変るかどうかは分からないが、ともかくあの男を知りたい。それが今、こうや
って俺を突き動かしている)
都会には珍しく美しい夕日のなか、夜の帳はそこまできていた。
行く手には橋が掛かり、その上を、ライトをつけ始めた車が行きかっている。
(もう、今日は諦めて帰るとするか)
そう思った時、橋の下の芝生の斜面に小さなシルエットが見えた。その影は斜面
を滑ったり登ったりしている。
近づくにつれ、ダンボールに乗って、橇のように滑って遊んでいるのが分かる。
「おじちゃん!」
影が叫んだ。その影は土屋に向かって両手を精一杯振りながら走って来た。
「みっちゃん! お父さんは?」
「とうちゃんはみずくみにいったの」
「そう」
公園と違い、この近くに水道はない。随分遠くに行っているのだろうか。
ミチと一緒に待つことにした、ダンボールの橇で一緒に遊びながら。
「おっ、こいつはすげえ」
加藤と会えた時のために、バーボンの小ビンをカバンに忍ばせておいた。
加藤はフタを開けると一口含み、しばらく口のなかで転がすと、ゆっくりと喉に
流し込んだ。
「真っ当な生活をしていた時分は毎晩バーボンを飲んでいたもんだがな、口にする
のは何年ぶりだろう」
「口に合って良かった、ハーパーは私の好物なんです」
「お前も本当に物好きだな。なんでそうやって俺を追いかけ回すんだ? お前に借
金した覚えはねえぞ」
「あなたに興味を持った。それだけです」
しばらくの沈黙のあと、加藤は静かに言う。
「あんまり俺に近づかない方がいい。まだあのガキ共が狙っているかもしれん」
「あなたみたいに、そっぽを向けない人が好きなんです。今の世の中は、自分さえ
良ければそれでいいって奴ばかりだと思っていたけれど、加藤さんのような人がい
るのを見て感動したんです」
「お前、名前は?」
「土屋と言います。土屋義彦」
「土屋か、俺だって一緒だよ。自分さえ良けりゃそれでいいんだ」
「だったら、あの時、学生を助けたりしないでしょう? 周りには何百人と人がい
たのに、動いたのは加藤さん一人だけだった。私も動けなかった。情けなかったで
す」
「別に悔やむことじゃないさ。みんな他に守るものがあるんだ......それにな、ああ
いう連中は結構しつこいぞ。一旦絡み出すと、蛇みたいに絡み付いてきやがる。
かかわり合いにならない方が利口だ」
橋の下での焚き火は、静かに風にゆらいでいた。寒いどころか暑いくらいなのだ
が、灯りにかわるものは他になく、その明るさは、加藤の心を照らす唯一のものな
のかもしれない。
ミチは、そのほの暗い灯りの中で、縫いぐるみのウサギと遊んでいる。
火を着けられた時も、ぎゅっと抱いていたものだ。
そのウサギは、片方の耳がまったく違う生地で出来ていて、根元が荒っぽく縫わ
れていた。鼻も取れてしまったのか、不釣り合いに大きなボタンが縫い付けてあっ
たが、そのかがり方は女の手のそれではなかった。
「この間否定されたんですが、本当に武道とかやってないのですか? あの身体の
反応はとても素人のものとは思えませんでした。いや、達人と言っても言い過ぎ
じゃない」
加藤はため息をひとつつくと、おもむろに言う。
「自分を殺そうと思っている奴が目の前にいたらどうする?」
「私は柔道をやっているので、相手の出方を見ます」
「それだよ」
「えっ?」
「お前は柔道をやっていて自信がある。それは言わなくとも相手に通じてしまうん
だ。そんなことは敵に教える必用はないし、知られない方が勝手がいい」
橋の下の、橋脚とコンクリートブロックの堤防との隙間にダンボールが敷いてあ
る。そこが今の寝床だという。そっとその『寝床』を仰ぎ見る。
加藤はともかく、ミチもあそこに寝るのかと思うと、何とも可哀想な気がしてな
らない。
「良かったらうちに来て寝ませんか」
「そいつは余計なお世話だ。俺たちの今の生き方がこれなんだ。それが望んだもの
であろうと、あるまいとな」
土屋はつまらぬことを言ってしまったと悔やんだ。たしかに一日二日泊めたから
といって、どうなるものでもなかった。