戦
(二十五)
「痛い! 離して!」
「うるせえ!」
遠く、荒っぽい声に目が覚めた。
あたりは朝もやに煙っていた。声は階段の方から聞こえて来る。
加藤はホールの二人に気づかれないように、廊下の反対側の襖を開けると、宴会
場に身を隠し襖を僅かに開けて気配を伺う。
「おいっ、起きろ!」
ホールから聞こえた。連中も寝てしまったのだろう。
「オヤジ達が来る」
男が二人、女が一人、目の前を過ぎて行った。
(上にも人質がいたのか)
加藤は、人質は下の階にいたのが総てだと思っていた自分に、舌打ちをする。
「お前等はここにいて見張ってろ」
(石口だ! 二人で降りて来たということは、上にはもう誰もいない)
足音を忍ばせて階段を上がり、二階のドアを開けた。
若い女が毛布にくるまり、怯えたような目で加藤を見上げる。
服が乱雑に投げてあった。
女の頬には涙が流れて乾いた跡があり、何があったのかは一目瞭然だった。
加藤は散らかっている服や下着を拾うと、女に渡した。
「静かに待っていてくれ。もう少しの辛抱だ」
そう言ってゆっくり女の頭を撫でた。
外が、なにやら騒がしい。
「もうすぐここに三台の車が来る!検問を開いてその車を中に入れろ! へたなこ
とをすりゃあ、この女の頭が吹っ飛ぶ」
拳銃を女の頭に構えた組員が大声で怒鳴っている。
石口、組員、そして女。
ジュラルミンの盾を構えて陣を組んだ警察の群れの中から、交渉人が穏やかな顔
で出て来ると、石口に何やら話し始めた。
(人質を解放しろとでも言っているのか)
加藤は今がチャンスだと思った。
猫のように階段を降りると、ホールへと向かう。案の定、ホールの二人の男は銃
をテーブルの上に置いたまま、石口達の要求に警察がどう動くかを、正方形の黒い
格子にガラス張りの入り口付近で見ていた。
「動くな!」
押さえの効いた聞き慣れない声に二人は驚いて振り返る。そこにはショットガン
を構えた見知らぬ男が立っていた。
「てめえ誰だ!」
驚いた顔をして怒鳴った。
「こっちへこい!」
そう言って、宴会部屋に二人を入れる。
「ベルトを外せ! 二人ともだ」
二人はどうするつもりかと、もそもそとベルトを外す。
「よし、そうしたらズボンを脱げ」
何をされるか分からなかったが、ショットガンで撃たれてはたまらない、素直に
脱ぐ。
「よし、おい、お前!腕を後ろに回せ。それで、お前はその両腕の根元をベルトで
絞めろ」
加藤はそう言うと、ショットガンを脇に挟んだまま、残った一人の腕の根元もベ
ルトできつく絞めた。
「寝ろ」
二人を並んで寝かすと、脱がせたズボンで内側どうしの足を縛る。加藤はポケッ
トからテーブルの上にあった手榴弾を出すと、なんの躊躇いもなくピンを抜いた。
「どっ、どうするつもりだ!」
二人の顔は恐怖に歪んだ。
「そんなに心配することはない。お前、夕べ説明してただろう、ピンを抜いただけ
じゃ爆発しないって、その通りだ。このレバーが飛ばないように挟んでいればいい
だけさ、二人の足でな」
そう言うと、寝ている二人の外側の足、右側の男の右足の裏と左側の男の左足の
裏で手榴弾を挟ませた。
「おっ、お前、なんの恨みがあってこんなことをするんだ!うちの組に楯突くとた
だじゃあすまねえぞ!」
「ほう、ただじゃあすまないのか?そりゃあおっかねえな。だけどあんまりしゃべ
らねえ方がいいんじゃねえのか、しゃべると動く、動けばレバーが飛ぶぞ。レバー
が飛んでから五秒って言ってたが、そこだけ間違えてるぜ。四秒だ。まあ、手榴弾
なんてそれ程の威力はねえ。うまくすりゃあ命は助かるかもな。ただ、両足と大事
な所は間違いなく吹き飛ぶだろうがな」
そう言って襖を閉め宴会部屋から出た。
後ろからは『助けてくれ』と断末魔のような叫びが聞こえた。ホール入り口で、
出て行った石口達の動向をうかがう。
まだ、交渉人と話している。
(連中の助っ人が来てしまってからでは遅い。なんとか来る前に決着をつけなけれ
ば。そのためにはどうするか)
加藤の頭は、その方法を考えるために回転し始めた。
その時、警察の盾の群れが蠢き始め、駐車場入り口あたりが、二つに割れると、
三台の車がこちらに向かって来るのが見えた。
石口達は人質の女を連れて警察から足早に離れる。
(しまった! 警察は要求を飲んだ、間に合わない)
もう、作戦を弄している余裕はなかった。
ヤクザの持っていたショットガンの事が頭をかすめたが、加藤は何も持たぬまま
旅館の入り口を出ると、石口に向かって走り始めた。
警察は『あの男』がどういう立場なのかを考えていた。
双眼鏡でホールの中の一部始終を見ていたので、興隆会の者ではないだろうこと
は分かっていた。しかし人質だとするのなら、腕といい、胆力といい、普通の男と
は到底思えない。
警察の目が加藤に向いたのを見て、石口も組員も振り返る。
男が一人走ってくる。
(誰だあいつは)
走って来る勢いとその形相は、どう考えても味方には見えない。
「やっちまえ」
石口がそう言うと、組員は女の腕を離し銃を構えた。
ダーン!
拳銃の軽い音ではなかった。
警察特殊部隊の狙撃手が放ったライフルの弾丸が組員を貫いた。
石口は拳銃を抜くと、すぐに女を抱え込む。離した瞬間に狙撃されるのが分かっ
たからだ。
駐車場に入ろうとしていた三台の車は、その銃声と組員が撃たれたのを目の当た
りにすると、窓を開けて警察に銃撃を始めた。警察もそれに応射する。同時に別働
隊が旅館の側面から内部に突入した。
戻る場所を失った石口は、女を抱えたまま橋の方向に向かって走り出した。
宴会場に寝かされている二人の額からは、脂汗がしたたり落ちていた。
腕はベルトで絞められ、内側の足どうしもズボンで縛られている。その上、手榴
弾を挟んでいるために、お互いの外側の足は『くの字』に曲げているのだ。こんな
不自然な体勢が何時迄も続くはずはなかった。
「だめだ、足が震えてきた」
「馬鹿、がんばれ!離したら俺たち吹っ飛ぶんだぞ!」
「いつまでももたねえよ!」
二人の顔は数分と経たずにくる恐怖に歪んでいる。震えの振幅はどんどん大きく
なっている。
「手榴弾が足から離れたら、転がって出来るだけ離れるんだ」
「腕が邪魔してしかも足が縛られてるから転がれねえよう!」
「ああ、だめだ!」
足はミシンを踏むかのようにガクガクと揺れ、ポトリと手榴弾が畳の上に落ちた。
「うわあ!」
二人は転がろうとしたが、半回転ほどしか回れなかった。四秒が過ぎ、十秒過ぎ
ても何も起こらない。
「不発か?」
そう言って上半身を起こし手榴弾を見ると、セロテープでレバーが本体に巻きつ
けてあった。
二人が外を見ている間に、土産売り場のレジにあったテープで加藤が巻いておい
たのだ。
「あの野郎」
二人は天井を見たままヘナヘナと横たわり、荒い息が止まらなかった。
突入した別働隊の隊長は、二人の姿と畳の上の手榴弾を見た。
(やったのはあの男か.......なんて奴だ)
どういう男なのか、どういう過去を持っているのか、不思議な興味が湧いてくる
のだった。
三台に分乗してきた助っ人九人が、警察と銃撃戦になっていた。もう数人は撃た
れてグッタリとしているのが見える。
加藤は全速力で走った。距離がどんどん縮まる。
(あいつは一体誰だ、何の為に俺を....)
女を抱えて橋の方向に逃げながら石口は思った。
(そのくせ丸腰じゃねえか)
圧迫感に堪えきれなくなった石口は、加藤に向けて拳銃を発射した。しかし加藤
は拳銃を向けられた瞬間、不定のジグザグを描きながら走った。一定のジグザグだ
と、山と谷の瞬間にタイミングを合わせて撃たれる。
女の頭に銃口を当てると加藤に向かって大声で叫んだ。
「止まらねえと女を撃つ!」
加藤は止まらなかった。
(もしも撃って女が倒れれば、その瞬間に石口は狙撃される。石口もそれは分かっ
ているはずだ。撃てっこねえ)
止まらない加藤に焦りを感じはじめる。数発撃ったが当たらない。距離はまだ八
十メートルちかくある。その距離を、動く相手に片手撃ちでは当たるはずもなかっ
た。
石口は女の肩を抱いていた手を手首に持ち替え、女を引きずるように走る。
カーブを描く橋の上までたどり着いて上流側を見た。橋の終点にも警察がバリケ
ードをは張っている。
「クソッ、これじゃあ逃げられねえ!」
橋の欄干にもたれ掛かると、(あの男を仕留めてやる)と、照準を定めてたて続
けに発砲するが当たらない。(両手で撃てさえすりゃあ)しかし、それは出来な
い。女を放した瞬間に、数人いるはずの狙撃手が持つ、高性能スコープの付いたレ
ミントンM700が自分に向かって火を吹くからだ。距離はどんどん詰まってく
る。残弾はあと一発。
加藤は石口の動きを寸分たりとも見逃すまいとしていた。
一瞬の遅れが命取りになる。照準が合いそうになる瞬間に身体を移動させる。加
藤も発射した弾を数えていた。
(あと一発)
その時だった、石口の動きがおかしい。引き金を引く動作は見えるが、弾が出な
い。
(詰めてあった弾が一発少なかったのか、それとも排莢不良か?)
(チャンスだ。弾切れだとすれば弾倉を返えなければならないし、排莢不良なら
ば遊底を引いて排莢してやらなければ、次の弾が発射出来ない。どちらにしても両
手を使わなければならない。もう撃たれることはない)
加藤はジグザグをやめると真っすぐに走り始めた。
(あと五十メートル)
石口はニヤリと不敵な笑いを浮かべ、引き金を引き最後の弾丸を放った。
演技していたのだ。拳銃が故障したように見せかけるために。
石口が真っすぐ構えた時、加藤は一瞬躊躇した。
銃口が光ったと思った瞬間、腹部に真っ赤に焼けた鉄棒を突っ込まれたような衝
撃を受けた。
(くっ、くそ!)それでも腹を押さえながら走るのを止めなかった。
(足はまだ生きている。もう少しだ)
押さえている指の間からは血が吹き出し、ジーンズは見る間に滝が流れるように
血で染まっていき、足が地面を蹴る度、地面に着く度に傷から血が吹き出した。心
臓の鼓動に同調するかのように。
(足は動いているのか?)
前に進んでいない様な、時間の流れが急にゆっくりになったような不思議な感覚
のなかにいた。目の前が段々暗くなってきた。
血を流し、苦痛に喘ぎながら走って来るその男の顔を石口は見ていた。その時、
朧げに記憶が蘇る。
(あいつは......佐伯組でリンチを受けた......川西にパイプで指を折られながらも、
一言も声を出さずに耐えた男。いや、それ以前にもどこかで......そうだ! 山形の
インターで夫婦を水に沈めて殺した時に.......)
総てを思い出した。なぜ自分を狙うのかも。
初めて恐ろしさを感じた。今までどれだけの者が俺を恐怖しただろう。自分の前
にいる者は必ず怖じけづいていた。手を合わせて命乞いをする者、土下座をして頭
を地に擦り付ける者。そういう連中を思うがままに嬲り、殺す。それが愉快でなら
なかった。俺に怖いものなどない。皆が俺に恐怖するのだ。
(しかしあいつは......銃に素手で向かってくる。銃弾をくらっているのに、血を流
しながら、ヨタヨタしながら、それでもまだやってきやがる)
ぞっと寒気がするような恐怖に石口は動けなくなった。
(どのみち総て包囲されている。捕まれば死刑は間違いない。それならいっそのこ
と、この女もあの男も道連れにしてやる)
最後の武器、ポケットに仕舞い込んだ手榴弾を握り締めた。
歌が聞こえてきた。
「われは湖の子 さすらいの......」
へたくそな歌声。武井か。
「旅にしあれば しみじみと......」
ハスキーなアルト、綾だ。
「加藤さんは歌わないの?」
「俺、歌は下手だから」
「俺ほどじゃないだろう」
武井が笑いながら言う。
「ああ、お前ほど下手じゃない」
「ほう、じゃあ歌ってみろ! 聞いててやる」
加藤は歌い出した。
「われ〜はう〜みの〜こ.....」
が、弾が横隔膜を貫通しているのか、声が出ない。それでも歌った。二人が聞い
ていてくれる、心を分け合った二人が。
(なんだ? 何で口を動かしている、歌?歌を歌っているのか!)
もう十メートルを切る。石口は堪えきれなくなって手榴弾のピンを歯で抜き取る
と、アンダースローで加藤に向かって投げつけた。
世界がスローモーションのように動いている。石口が手榴弾のピンを抜くのが見
えた。安全レバーがピーンという金属音とともに、ゆっくりと撥ね飛ぶ。空中をゆ
っくりと回転しながら自分に向かって飛んでくる。
視界の中に女の怯えた顔が見えた。
(巻き添えにはしない!)
その瞬間、手榴弾はもう目の前にあった。思わずキャッチする。
(カウントするんだ......1秒)
そのまま真っすぐに突っ込むと、手榴弾を掴んだ右拳に渾身の力を込めて石口の
顔面にぶち込んだ。前歯が飛ぶ。そのまま口の中に手榴弾をねじ込む。石口は女
を離すと加藤の傷口目がけてパンチを放ってきた。
「グフッ!」思わず身体をくの字に曲げた。
(2秒)
(ここで爆発すれば女も吹っ飛ぶ、橋から落とすしかない!)
目の前に開いた股が見えた。そこを内腕刀で一撃すると、そのまま腕を突っ込
み、最後の力で石口の身体をすくい上げ、欄干から投げ落とす。石口はステゴロの
矜持を示すかのように加藤の首に腕を巻いたまま放そうとはしなかった。
(3秒)
もつれ合うように二人の身体は欄干の外に投げ出された。
夏美の顔が浮かんだ。
(すまん、約束を守れなくて)
落下しながらそうつぶやいた。




