タイミング
(二十二)
平穏な日々は続いていた。
美知子は幼稚園になじみ、このままなら来年小学校に入学するときも、まわりの
子供達と何ら違和感はないだろうと加藤は安堵していた。世間では個性を主張する
が、加藤にとっては『普通の子』であって欲しかった。
今までが、あまりにも『普通の子』とかけ離れすぎていたから。
火曜と金曜には夏美が来て美知子と遊んでくれ、手料理を作ってくれて、そして
泊まっていった。
ある日の朝、用事があって事務所に向かった。夏美と顔を合わせるのが、うれし
いような照れるような複雑な気持ちだったが、そのことをまわりの者には気取られ
たくはなかった。
けれども、土屋が知っていたということは、この事務所の人間全員が知っている
のだろうと思った。
(帰り道、毎日一緒なら、知られない方が無理というものか)
事務所に入ると、他の事務員が対応した。夏美の席は空席だった。
「あれ? 三枝さんは?」
「夏美さんは今日、お休みみたいです」
『みたい』という言葉が妙に引っ掛かる。
「風邪でもひいたのですか?」
「連絡が無いので分からないんです。こちらから電話をしても出ないし。今までこ
んなことなかったのに......何か夏美さんに用事でも?」
そう聞かれて、「いいえ、べつに」あわててそう言って事務所を出た。
試しに夏美の携帯に電話をしてみたが、「電波の入らないところにあるか、また
は電源が入っていないか......」を繰り返すばかりだった。
加藤の心の中に、重く暗い何かがずんずんと押し寄せてくる。
昼食の時間になり、休憩室で弁当を広げた。
味も分からずにただ箸を動かしていると、部屋の片隅にあるテレビのニュースが
耳に入ってきた。
「今朝五時頃、中央公園の茂みのなかで女性の遺体を散歩中の男性が発見。女性は
頭を銃で撃たれて即死の状態。年齢二十五歳くらい、身長158センチくらい、髪
は......」
心臓が縮みあがった。
ほとんど夏美と一緒といっていい。救いは『身元不明』ということだけだった。
(どうすればいい? どう動けばいい?)
考えてはみるが、頭は混乱して結論が出ない。ただ、ふたつの事だけが残った。
(射殺体が夏美かどうか。そうでないとするなら、夏美はどこにいるのか)
ともあれ夜のニュースを待つことにした。
仕事にも身が入らなかった。
もしもあれが夏美だとしたら......お茶目な笑顔が頭に浮かぶ。
(遊園地に美知子を連れて行くことが出来たのも夏美のお陰だ。可愛い弁当で美知
子を喜ばせてくれたのも、俺のいない時、美知子の相手をしてくれたのも、そして
荒れて、ささくれ立った俺の心が救われたのも夏美がいたからだ。その夏美に俺は
一体何をしてやっただろう)
加藤は仕事が終わると走って家に帰り、テレビを点けた。どのチャンネルも再放
送のドラマや、料理番組ばかりをやっていて、なかなかニュースが始まらなかった。
傍らにいた美知子はアニメを見たがったが、つい「うるさい!」と怒鳴ってしま
った。滅多に怒ることのない加藤の言葉に、美知子は泣き出した。
新聞を取っていないので、どんな番組を何時にやっているのかが分からない。
チャンネルをカチャカチャやっていると、しばらくしてニュースが流れた。
泣いていた美知子を膝に抱え、頭を撫でてやっていると、いつしか膝の上で寝息
をたてている。
政治問題などがだらだらと続いて、射殺事件はなかなか出て来ないと思って苛々
していると、ようやく流れた。
「犯人らしき者を見かけた人がいないか、現在聞き込み中、なお、被害者の身元は
以前として不明......」
加藤はテレビのスイッチを切ると、寝ている美知子を見た。
(もしも事実なら......こいつになんて言えばいいんだ)
火曜、金曜に来るのに、そうでない日には「今日はこないんだよなあ、おねえち
ゃん。毎日来てくれればいいのに」と、ため息混じりに言うのだ。
(夏美はどうなのだろう。自分と一緒にいたいがために美知子と仲良くしているの
だろうか? いやそうではない。美知子と一緒に遊んでいる時の、あの楽しそうで
明るく無邪気な顔。演技であれほど自然な表情は出来るはずがない)
時間が経つ程に、暗く重いものが胸の中で膨張し、今にも張り裂けるのではない
かと思う。
警察に問い合わせようかとしたが、逆に根掘り葉掘り自分のことを聞かれるのも
まずい。どうしようもないと思いながら、明かりも点けぬまま時間だけが空しく過
ぎて行った。
二、三時間も経っただろうか、ピンポーンとチャイムが鳴って、加藤はハッと我
に帰った。 (警察)そう思った。
身元が判明したとすれば、関係者から捜査するというのはセオリーだと思ったか
らだ。膝の美知子が目を覚ました。
「おねえちゃんだ!」
「えっ?」
鍵のかけていないドアがギギッと軋みながら開き、人影が見えた。急いで明かり
を点けると、そこには夏美が立っていた。
「どうしたの、明かりも点けないで?」
加藤は立ち上がると玄関に飛んで行き、夏美を力一杯抱きしめた。
「いっ、痛いよ。どうしたの加藤さん。……みっちゃんも見てるし」
加藤はしばらく夏美を抱きしめていた。
(暖かい、幽霊じゃない、本物だ!)
「おまえこそどうしたんだ? 会社は休むし、連絡は取れないし」
抱きながら責めるように問いつめた。
「朝方、母が倒れたの。もともと心臓が弱くて.....前にも倒れたことがあるんだけ
ど。それで救急車を呼んで、一緒に病院に行って......病院だったから携帯のスイ
ッチを切っていたの」
加藤は膝の力が一気に抜けたような気がした。
深夜のニュースで被害者の身元が判明したと言っている。
生前の顔写真が出ると、まったく似てはいなかった。
「それでお袋さんは?」
「私と交代でおねえちゃんが付き添っているの、今晩。家に帰ったけど、一人だ
と淋しくなって」
加藤はニュースを指差し、「この殺された人、お前かと思った」と夏美に言う。
「なんで私が殺されなきゃならないの? ばっかみたい」
笑いながらそう言う。
夏美には分からなくとも、加藤からみればその理由はあった。
(そうだ......そういうことだ。俺のためにそういうこともあり得るということな
んだ)
その晩、美知子の前でも夏美の肩をずっと抱いていた。
ひとつ間違えば、もう、こうすることが永遠に出来ないような気がした。
「とうちゃんばっかりずるい」
美知子は、そう言って夏美の身体に抱きついた。
「タイミングが大事だ」部員の前で加藤は言った。
「スピードは大事だが、それは相対的なものにすぎない。つまり、相手が速いのに
こちらが遅くてはいけないし、逆もまたいけない。相手が遅かったら、こちらもそ
のタイミングに合わせてやる。矛盾して聞こえるかもしれないが、実はこれは極意
なんだ。傍から見ると大して速く見えないかもしれないが、相手からは速く感じ
る。そういう時間を自由に操ることが武術の極意なんだ」
部員達にはよく理解できなかったが、何か深いことを言っていることだけは分か
った。
疑似ナイフを片方が持ち、自由に攻撃させ、もう片方はそれを捌く。十五セン
チ、ナイフの分のリーチが伸びただけで、その守り、攻撃範囲は驚くほど変った。
今日は月に一回のミーティングの日だ。
ミーティングといっても、練習が終わった後、全員居酒屋で一杯やる、要するに
飲み会だ。
宴は盛り上がった。隣に座った部員が加藤に話しかける。
「加藤先生に実戦武術を教わって、柔道の成り立ちなどが分かるようになってきま
した。今までなんで押さえ込んで三十秒で一本なのか分かりませんでしたが」
「おれも最初は分からなかったよ。戦国時代、鎧を着けていると刀は効かない。最
後は組討になるが、組み打ちだと打撃技は効かない。だから、相手を倒し寝かせて
鎧の隙間から鎧通しで刺す、という技術が発達したんだ。要するに三十秒あれば相
手を殺せるということなんだ」
反対側に座っていた若い部員がビールのビンを持って加藤に酌にきた。
「加藤さん、やりましたよ!」
若者は得意満面の笑みを浮かべていた。
「町中を彼女と歩いていたら、向こうから悪そうなのが二人歩いて来たんです。そ
いつらを見ていたら一人が『てめえ、なに眼飛ばしてるんだ』って、絡んできて、
僕の襟首を掴んだんです。教わった関節技をかけたら、ものの見事に決まって、地
面に這いつくばったんで腹に蹴りを入れてやったんです。そしたらもう一人が殴り
掛かってきたんで、例の突きを跳ね上げながら肘打ちを入れるやつ、あれをやった
らアバラにグサリですよ。もしかしたら二三本折っちゃったかもしれないです。彼
女はカッコいいって、僕にベッタリですよ」
さも得意げに、褒めてくれと言わんばかりの口ぶりだった。
「馬鹿やろう!」
加藤の怒声が部屋じゅうに響き渡り、急に静まり返って全員の視線が集まった。
「もしお前がやられてたらどうなった? 女の前でカッコつけたかったのかもしれ
ないが、やられてたら、それどころじゃなくなっていたぞ。もしお前が彼女を本当
に大事にしていたのなら、絡まれるような視線を送らなかったはずだ」
そう諭すと、男はシュンとなって頭を垂れた。
帰り道、加藤は怒鳴った自分に猛烈な嫌悪感を抱いた。
(俺は聖人君子か? 何を偉そうなことを言ってるんだ。本来の自分と、人に教え
ている自分が分裂してしまっている。やはり俺には人に教えるなんて役は向いてい
ないんだ)
部の顧問をやめさせてくれと、土屋に願い出ることを考え始めていた。
(それに......そろそろ腰を上げる時期かもしれない。後はタイミングだ)と。
タイミングとはなんだろう。ただ時間の問題だけではない。色々な要素を鑑みた
時に、一番ベストであることだ。
(俺はどうなってもいい。目的さえ遂げることができたならば)
問題は残った者だ。
美知子......やはり土屋に頼むしかないのか? しかし彼は、彼にとってあかの他
人の美知子を、自分の子として育ててくれるだろうか。それはあまりにもムシが良
すぎはしないか。それに美知子は一体何回親を替えればすむのか。そして、人殺し
の子と呼ばれるのだろうか。今ようやく普通の子供のように生活しはじめたばかり
だというのに。
夏美......最も大切な人、けれども一番頭の中を混乱させる人。 生きて帰って来
ても、死んだとしても、彼女を不幸にすることには変わりない。
(それでもやるのか?......................なにをいまさら)




